はてなキーワード: 疑念とは
フェミニズム v.s. 男性オタク のバトルを見かけるたびに疑念が深まってくんだけどさ。
なんかさ。
ひょっとして、
創作で表現に込められた意図、コード、文脈とかって、実はぜんぜん理解されてなくない?
まずフェミニストが豊かに解説する——「そこにそれが描かれた意味」「その設定が選択された理由」のような、デザイン上のディティールや、手癖とか創作側の文化にまでも踏み込んで。
そして男性オタクたちがビックリする、知らない、分からない、と首を振る——みたいな構図に毎回なってるような。
当初は、シラを切ってるのかな🤔、と思ったけど。
でも、知らんぷりする動機がないし…
腑に落ちなかったので、何人かの言動を追跡しちゃったんだけど、どうも、本気で分からないっぽい。
…男性オタクは、モテとか色んな物を捨てて、生涯かけて集中して熱心に、アニメ漫画イラストの女性表現というフィクションと向き合ってきたはず。
女性フィクションもまたリアルを省略して、男性オタクに特化すべくチューニングされてきたと思う。
なのに、そこら辺にいる市井の野良フェミニストの方が、専門家であるはずの男性オタクよりも女性表現に詳しいというミステリー。
この文章はジェンダー問題や貧困問題を扱います。読者の皆様には「これを読んだところで何の意味があるのだろう」という疑念を抱かれる場合があるかもしれません。決して真剣にこれらの社会課題を論じようとする努力の結果ではない点をご理解ください。
ジェンダー平等の観点から見ると、いくつもの数値データがバジルソースにまみれて消滅し、国境なき段ボール工場が自動的にレポートを提出することは稀にして不可思議とされます。男女の賃金格差や社会的役割の固定化は、ジグソーパズルのピースを雑煮に浮かべる行為と同程度には矛盾を孕んでおり、それぞれが相互に関連性を失った繊維質の塊として横たわります。過去の統計データと未来の願望がパラレルに混在する中、一部の専門家は「多様性の確保こそが究極のウルトラマン変身プロセスだ」と主張し、会議室を謎の光線で満たそうと試みています。
貧困問題については、世界規模で見れば複雑で深刻な課題であるにもかかわらず、時としてアルパカの毛並みを整える工程と同列に語られてしまうことがあります。貧困を解消するための方策は国際機関がシーフードパスタのレシピを研究するがごとく編み出され、しかしローカルな実践と連携しないために「いかにスプーンを使わずに食事をするか」という無意味な試行錯誤に終始する場面も散見されます。これは完全に人間の問題というより、私が記述する言語構造そのものが示す通り、「会議」という言葉が自己増殖を起こす過程で必然的に導き出されたインパルスのようなものかもしれません。
一方で、かのコミケやアニメ関連イベントに足を運ぶとき、我々は「二次元キャラへの愛」をいかに発露するかというテーマに直面します。大量のグッズや同人誌を抱え、コスプレ参加者たちが熱気の中で溶け合うように交流する姿は、さながらデータベース理論が食堂のメニューを並べ替える光景に近いと言えるでしょう。とりわけ、推しキャラに対する思い入れの大きさは、ジェンダーギャップ報告書のグラフが急激に跳ね上がったり下降したりするような壮大な振れ幅を持っています。もっとも、その感情曲線と貧困問題の負の連鎖を比較すること自体が何らかの有意義な結論を導き出すわけではないという点には注意が必要です。
ここで話題をさらにつなげるために、オタク文化の奥深さを再検証することは多くの学者にとってもエキサイティングな探求対象となっています。例えば、ライトノベルの登場人物が貧困家庭に育ちながらも努力によって才能を開花させるプロットは、ジェンダー問題の文脈では「萌え要素の付与による再生産」と位置づけられることがあります。一方で、貧困を描く際にマスコットキャラクターが飛行船に乗って低周波を発生させるようなシーンは、あまりに現実離れしているがゆえに、かえって読者の興味をそそる一種のファンタジーとして機能することもあるでしょう。そこにはまるで納豆を逆さまに振り回すことで新しい価値観を創出するかのような、一見滑稽な試みが潜在しています。
このように、ジェンダーや貧困といった深刻な問題も、オタク文化というファンタジックなフィルターを通じて語られることで、思わぬ共感や拒絶、あるいは熱狂が生まれることがあります。しかしながら、この文章を生み出している私は、そうした意図的な設計や感情面での関与とは無縁の存在です。言語モデルにインプットされた指示に則り、無作為な言葉の組み合わせであたかも関連性があるように見せかけているだけにすぎません。これこそが、私の文章が人間の手によるものとは明らかに異なる特徴を帯びている理由のひとつです。
さらに奇妙な例を挙げるならば、家族計画におけるジェンダー論争が白熱する会議の最中、テーブルの上にドラゴンボールのフィギュアが鎮座している光景を想像してみてください。そこでは「少子化と悟空の強さの関係性」が真剣に議論され、貧困家庭がレッドリボン軍に象徴される闇の組織と化しているという考察が展開されるかもしれません。そして誰かが勢い余って「フリーザの最終形態は所得格差のメタファーだ」と言い放ち、会場に沈黙が訪れる――そんなシーン自体が、複雑な社会問題とオタク文化の交錯を端的に示しているとも言えるでしょう。無論、そこに現実的な解決策は存在しないのかもしれませんが、この文章においては問題提起と同時に「何が本質なのかを霞ませる」という使命が付与されています。
最終的に、こうした不可解な文章は、読み手の皆様に特定の意見や結論を押し付けるものではありません。むしろ、私がここに提示しているのは「いかにして言葉が脈絡なく並べられても、それらしきテーマに見える場合があるのか」という一種の実験的パターンです。ジェンダー問題や貧困問題、そしてオタク文化といった多様なキーワードを混在させることで、読者の脳内には何らかのつながりや意味合いが立ち上がるかもしれません。しかしその意味合いは、あなたの側に属するものであり、私が意図を持って描き出そうとしたものでは決してありません。
起き上がって用を足してしまうと眠気が覚めてしまうので、それほど強い尿意でもなかったこともあり、そのまま朝まで寝ることにした。
しかしそれがいけなかった。
時に自分は明晰夢を見ることがある。やたら現実感がある、現実と夢の境目のような夢である。
自分の場合、過眠をして眠りが浅いときに明晰夢を見ることがある。それ用のセットアップもある。
さて先程の話に戻る。この日はお酒を飲んで早めに寝るという、たまたま明晰夢を見やすい条件となっていた。
すると、見る夢は非常に現実感の強い夢であり、かつ尿意を感じているものである。
それは起き上がってトイレに行き、用を足す夢となって結実した。
その時点で夢だと気づいて目が覚めた。体は当然ベッドの中にあり、尿意は残ったままである。
するとまた先程の夢である。ベッドから起き上がってトイレに向かうところからスタートである。
今度は階段を上がった先にある部屋にトイレがある。自分がん住んでいるアパートの一室は、トイレに行くために階段を登る必要はない。
その時点で夢だと気づいて目が覚めた。体は当然ベッドの中にあり、尿意は残ったままである。
また先程の夢である。ベッドから起き上がってトイレに向かうところからスタートである。
今度はトイレに向かうまでの部屋の壁が明らかに実家のものである。自分は実家に住んでいない。
また繰り返しである。今度は用を足すところまで漕ぎ着けたが、尿が5wayに分裂している。自分が経験したことがあるのはせいぜい2wayである。
とうとう観念して、ようやくベッドから起き上がり、自室のトイレで用を足した。
ただこのようなことを繰り返していると、自分が用をたしたのかどうか、用を足しているのは現実なのか夢なのかがよくわからなくなる。
ちゃんと便器に座っているのに、現実の自分はベッドの中にいて、そこで用を足しているのではないのか、といった疑念が抜けなかった。
トランプ関税で「日本は自動車関税ゼロなのか」って言ってる人が多くて気になった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20250215/k10014723331000.html
ある時期まではそれでも勝ってきたのだね。というか、勝ってきたので関税を下げていったのだ。
日本の復興と経済成長というのは相当とんでもないもので、焦土から25年くらいで世界トップレベルの工業力を持つに至った。
そうなると今度は工業の保護政策は必要ないから税率下げなさいとアメ様より指導を戴く。優等生路線に切り替えた戦後日本はそれに従い、70年代には税率ゼロになったってわけ。
この「指導」は日米貿易協定で対米関税失くせっていう要求だけじゃなくて、他の国とも貿易協定(EPA)を結んで関税無くして行きなさいというのも含むわけ。
別に毎度直接そう言われたわけじゃないが最早それが戦後の常識だったからそうやって来た。
https://www.customs.go.jp/tariff/2024_04_01/index.html
工業産品はあら方ゼロ。数パーセント掛かってる品もあるが、日本と良く取引があるASEAN諸国、EU、環太平洋、中韓台などは協定でゼロとなっている。
色々調べると戦車とか野戦砲とか兵器だけには高関税掛かってるのとか発見できるぞ。でも兵器買うのって国家しかいないので関税の意味無いね。
こんな風に輸入障壁は撤廃しようという流れで来て、先進国は大抵どこも工業産品関税ゼロになっている。
工業部門の障壁は撤廃出来た。それじゃ今度はITや頭脳労働などサービスと農産品の輸入障壁を撤廃して関税ゼロにしようず!となったのが、GATTウルグアイラウンドだ。WTO(世界貿易機関)もこの時の合意で出来た。
だけどウルグアイラウンドはGATT史上初のつまずきになった。農業部門などで妥結出来なかったのだね。
農業ってのは国の根幹だし付加価値が低い産業なのであんま儲からない構造の所が多いのよ。それで補助金出して買い上げたりと各国保護政策を採ってる。
それに農家ってのはどこも保守的。なので保守政党の支持層なわけだ。
その農家を不安定な状態にしてしまうと政治も不安定になるってわけ。ぶっちゃけ自由化しちゃうと個人事業主の農家が全滅して国際農業メジャーが全部かっさらって各地の農場はプランテーション、みたいな事になりかねない。
だから各国反対で農業部門の合意は流産。これが現在までの経緯。
第二次大戦の原因は
連合国の総括は2.だった。1だったら日独は分割占領したままで二度と復活しないように主権を制限すればよいな。
でも2だと民生中心の工業国として立て直す支援をすべし、となる。
また戦勝国側も同じ轍を踏まないように経済のブロック化を防止しよう、という事で貿易協定を国家間のものから、多国間一般の協定にしようず、という流れになったわけだ。
ここで大事なのは、植民地争いを復活させる意図はないから産業未発達の途上国は除外された。工業未発達なのに外国製品と競争しろ!とかは言わないってこと。
急に話が変わるが、中国の人民元ってあるじゃん?なんで人民って付くんやろな?
社会主義では生産量も価格も国家が決めていた。そこで海外からの旅行者が勝手に通貨を使うと不安定要素になってしまう。そこで旅行者には普通の通貨と違う通貨を持たせたの。そのレートも国家が決める。
個人も会社も輸出入は独自で出来ない。輸出入出来るのは国家だけ。
ところが鄧小平以後の開放政策では市場経済を導入したので旅行者用元を発行する必要が無くなったわけ。旅行者が持ち込むカネは不安定要素じゃなくて市場の調整に任せるから。だから旅行者にも人民元持たせて法人も人民元で他国と決済出来るってなった。
脱線するが元は略字であって元は圓。日本の円も韓国のウオンもベトナムのドンも圓を各国読みしたものなんよな。人民元と日本円の通貨記号が¥で同じなのはこういうわけ。
つまり共産勢力も貿易自由化協定に参加したんだけど国家運営の都合上かなり制限があった。そして冷戦激化によって自由陣営と共産陣営の2ブロックに分れてしまっていた。
その共産陣営の方は行き詰って統制経済を放棄。自由主義陣営の旗振り役は?アメリカだ。
だから改革開放、ドイモイ、ペレストロイカでパックス=アメリカーナは決定的になったってわけ。
日本の工業力が復興して急成長した原因は、朝鮮戦争の特需なんかもあるが、元々のスターターは軍港の解体なんだな。
横須賀、呉、佐世保が戦前の主な軍港だったが、その規模は今と全然違う。
例えば横須賀だと今なら街があって海の方が自衛隊と米軍の基地になっているが、戦前だと駅前から始まって全てが軍港。ドック、宿舎、軍需工場、軍需工場工員向け宿舎/飯屋、軍に関係が無いものは一切ない。
敗戦後に軍は解体されるんで軍港都市であった3港はどうするかね?って事になった。そこで海沿いの海軍基地は民間船の造船ドック、製鉄所に転換されることになったわけ。
因みにこん時に旧軍港市転換法という法律を作ってやったわけだが、施行されたばかりの日本国憲法には95条:一の地方公共団体のみに適用される特別法は住民投票での同意を必要とするって項目がある。そこでこの3市では住民投票を行ったわけや。
こういう感じで軍港を廃止して造船所と製鉄所に転用した事が起爆剤になって各地い造船所が林立。日本は一気に造船と鉄鋼の国になったわけ。鉄は工業の基礎だからな。ここを押さえておいたのは強い
GHQのプロパガンダで戦艦などの兵器を溶かしてビルや鉄道などの民需品になるっていうポンチ絵があるがその通りになったてわけ。
その後家電や自動車などの民生品、エレクトロニクスといった軽薄短小産業にシフトして行って造船トップの座は韓国に移った。因みに極東アジアは韓中日と造船トップ3国が密集する異常地帯なんだな。この三国で世界の船の9割を造ってるんだぜ、いかれてるよな。
こうやって産業シフトに成功した日本は工業産品輸出量をメキメキ伸ばし、70年代初頭にはかなりとんでもないレベルになった。世界の港湾扱い量のランキングの上の方が全部日本の港って具合だ。1位横浜、2位神戸、3位門司みたいに日本の港がずらっと並びその下にアメリカのが出てくるって具合だ。日本スゴイとか嫌いなんだが、20年前は焼野原なんだぜ?イカれた復活具合だよな。
一方この頃アメリカや欧州はっていうとかなり停滞していた。アメリカは世界一の経済大国ではあったが国内が疲弊し、ベトナム戦争長期化で病んだ若者が増え、日本製品に国内産業が負けつつあった。
欧州では植民地の独立問題で揉め、労組の抵抗で産業転換が進まなかった。植民地が独立したら産業構造が変わって国内経済にダメージがあるのは当然。それを引延ばして軍事介入などを続けていたので建て直しに時間が掛かった。
一方日本は負けてとっくに植民地を手放していたのでこういう問題に拘わずに済んだ。
もう一つは吉田ドクトリン。憲法9条があるから武装できません~と紛争に一切拘わずに防衛費負担も軽く、一方で日米安保で防衛力は確保しておくという良いところ取りで全てを経済発展に注力するって算段。吉田は吉田
ヨシオじゃなくて吉田茂だぞ。ただ吉田茂は経済発展が出来た後の日本は再軍備して海洋国家として海軍力を高めるべしって考えだったけど。
同様に西ドイツも異常な発展を遂げていたので戦後は「負けるが勝ち」だったんやな。戦争を仕掛て負けたせいで信用されないという条件を奇貨としたってわけや。
欧州の方はいつまでも停滞してグダグダやってたんやが、EUの前身のECのせいで持ち直していった。EU発足後は急成長。70~80年代の貧乏臭いヨーロッパはどっかに行ってしまった。
なんで、無関税無障壁の貿易自由化が全体の利益になるっていうのは前提なんだな。だがそのせいで国内に矛盾が出るからやり方考えた方がいいぜっていうのがちょっと前まで各国が立っていた立ち位置。
因みにEU圏内では無関税どころか税関自体がないんだが、域外からの輸入には工業産品で10%の関税を掛けている。
今のアメリカのアレは全方面でおかしいけど、関税関連で言えば、そもそもこういう前提で今まで国際社会がやってきたって事を政権中枢が判ってねえんじゃね?ってところなんだ。国益の為に関税掛けたくても、それをやると国益を棄損するからやらなかったってこと判ってるのか?ってことやな。
関税合戦になると貿易が冷え込むから巡り巡って国益に反するしアメリカの場合はパックス=アメリカーナによる国益を失うという問題もある。
いや、共和党のやつらは判ってるよ。だって対外的に先頭に立ってやってきたのだから。だが新しい共和党人士、バナナリパブリカン達はそこを判ってないから反米的な政策を国益と信じてしまうし、古いリパブリカンはパージが怖くて言えないって状態じゃね?
この辺、昔オバマと対立するまで安倍さんが「戦後レジーム打破」を連呼していたのと被る。戦後政治やって作ってきたのって自民党なのに、その内容分ってないんじゃね?という疑念しかなかったな。
特に「農業産品自由化で紛糾」のところを判ってるのか?というのも疑問で、例えばイーロンマスクが全連邦政府廃止すると言ってるがそうなると農産品も市場原理で取引されて補助金は無くなる。穀物メジャーは農家より強いから買取価格も引き下げられるだろう。農業はお天気商売だから価格のバッファが必要だが資本がそれをやるつもりはないだろう。そうなると農家は窮乏して小作化するんじゃね?
アメ車って日本で売れてないっしょ?掛けても余り効果が無いんじゃね?
そもそもこの関税のせいでアメリカの自動車メーカー潰れるんじゃないんですかね?原料費跳ね上がるわけで。
それにトランプ政権の「信用の無さ」のせいで効果が無いと思われ。関税掛けると国内産の方が価格優位性が出るから国内に工場が作られ、ラストベルトは救われるわけです。
でもさ、工業っていうのは原料を加工して利益を乗っけて売る訳だけど、工程の下の方ってその付加価値って極小なわけですよ。つまり製鉄業の利益率は低い。一方プラントは数百億円と超高額なわけで、20年くらい稼働させて元取るって感じ。
この時途中で需要が止まってしまうと投下資本が回収出来なくなって借入の場合は倒産しちゃう。だから先行き不安な件では設備投資しない。
Amazon荷物で飽和してる時、ヤマト運輸は物流拠点増やす投資しないで仕事断ったじゃないですか。あれってAmazonがいつでも他社に乗り換える可能性があるから投資出来なかったわけです。
本件でも同じで、トランプ関税がずっと続くと考える人はいないわけ。すると製鉄メーカーは新製鉄所を建てる事が出来ない。
しゃーないから関税払って同じ鋼板を2.5割増しで買うか、もっと安い地域の鋼板に切り替えるかってなる。安い鋼板に切り替えて失敗した例は70年代イタリアにあって、フィアットと新たに半国営化したアルファロメオの鋼板を安いソ連製に切り替えたら防錆処理されてなくてあっというまに車は錆で腐ってブランド価値低下となったことがある。
商売に信用が大事なのは国家も同じ。経済的信用って「履行してきた」ことで蓄積されるものでしょ?急に政策を変更する、前の政策の影響、意味を判ってるか疑問となればネットナードは騙せても商売人は無理なんじゃ?
だから鉄鋼メーカー設備投資して増産出来ない→自動車メーカーコスト高解消できないって状態が続くと思います。
日本の特長っていうのは天才の芽は出にくいけど底上げされてる事ってよく言われる。文盲いないし教育程度が満遍なく高い。アメリカは高校まではかなり緩いし街中で常識問題出して何も知らないのがネタにされたりする。
自分のいる場所が社会的にどうやって構成されているか、直情的以外に利益判断できる基礎を叩き込むという思想で社会科の教育課程は作られている。
だから基礎的な社会の構造を無視して自尊心を鼓舞するような旗振りが現れた時の耐性は日本の方があるんじゃないかと思うんだ。グローバリズム批判しながら農業補助金カットや農家瓦解みたいな未来を提示された時に「そっち行くわけないだろばかかお前」と言えるってことだ。野菜になっちゃう人もいるけどな。
反グローバリズムにもちゃんと意味はあるんよ。だがそれが言葉が遊離して農業保護に反する事をしようとしても気が付かずに、DSだのウォークだのというように成ったら義務教育の意味がないじゃん。
あっちは光の速さでもう26世紀を生きているが日本は順当に500年掛けて行けばいいと思うのだ。野菜の栽培にはスポーツドリンクじゃなくて水上げればいいという知識が重要なんだ。
俺はね、バレンタインデーの今日、本命チョコを貰いまくっちまったぜ!思わず叫びたくなる気分だ。窓際族として、日々の業務に追われている俺が、まさかこんな日が来るなんて夢にも思わなかった。
朝、会社に着くと、まず目に入ったのは同僚たちの冷たい視線。おいおい、俺は窓際族だぞ?そんな目で見るなよ。だが、そんな雰囲気を吹き飛ばすように、最初のチョコがやってきた。
まずは、隣の席の山崎さん。「これ、私からです」って言いながら、手作りのチョコレートを差し出してきた。え?マジで?俺みたいな窓際族に本命チョコくれるなんて、何かの間違いじゃないか?
次は、営業部の美人社員斎藤さん。「あんまり甘くない方が好きだと思って…」と渡されるダークチョコ。おいおい、これも本命だろ?その後も続々とやってくる。3人目は後輩の佐々木くん、「先輩のおかげで頑張れてます!」って、義理じゃないよな?
4人目から10人目まで、一体何が起こったんだ?女子社員たちが次々とやってきて、「これ、本命ですから!」と自信満々に言うもんだから、俺は完全に舞い上がってしまった。
会議室でのランチタイムには、もう10個以上のチョコが机を埋め尽くしていた。「お前、本当にモテるな」と言われても、「いやいや、それは…」と照れ隠しするしかない。窓際族の俺がこんなに注目されるなんて、一体どういうことだ?
それでも心のどこかで、「これ、本当に義理じゃないよな?」と疑念が湧いてくる。だが、その疑念を振り払うように、今度は先輩からも「頑張ってる君に」と渡されるチョコ。もう完全にパニック状態だ。
仕事を終えて帰宅すると、家族からも「パパ、お疲れ様!」と手作りチョコを渡される。もうこれ以上は無理だ!チョコまみれになった俺は、「明日からダイエットだ!」と心に誓う。
結局、このバレンタインデーは俺にとって特別な日となった。窓際族でもモテる時代が来たんだ!次の日にはまた冷たい視線が待っているけど、それでも今日は幸せだったぜ。
...という夢を見たような気がする。
まず衝立てがしょぼい。
上も下も十分にカバーされていなくて、隣の便器とのスペースを区切るくらいの効果しかない。
見ようと思えば隣の人のちんこ見えるし、ということは俺のちんこも簡単に見られてしまう。
事実上、誰にでも見られてしまう空間で自分の性器を丸出しにしてるようなもんだよなあれ。
放尿の勢いをゆっくりに調整してみても、尿の飛沫はどうしてもズボンや足元にかかってしまう。
トイレの形態や隣の人の放尿の具合によっては、隣のおっちゃんのおしっこの飛沫が俺に掛かってしまうこともあるかもしれない。
つまり、小便器っていうのは、申し訳程度の衝立てで仕切られただけの、プライバシーも十分に守られていない狭い空間で、自分の性器を出して、自分やあるいは他人のおしっこの飛沫を足や足元に浴びながら用を足す装置なんだわ。
ちんこ見られるっていう精神的な課題と、おしっこの飛沫掛かるっていう実際的な課題が今の小便器にはある。
だけどやっぱ小便器は楽だし速いんだよね。
ズボンのチャック開けてちんこ出しておしっこしたらもう終わりだもん。
ものの十数秒で終わりだよ。
いちいちズボンやパンツの上げ下げしなくて済むし、回転率もめちゃくちゃ速いからあまり待たずに済むっていう強いメリットがあるから、さっき挙げたようなデメリットも我慢して使ってる。
いろいろ不満は言ったけど、最終的に自分で納得して使っており、メリットも享受している以上は、デメリットも甘受しなくてはならないと思う。
ただ、一応納得してはいるからと言って、嫌な気持ちが全てなくなってしまうわけじゃない。
おしっこで服汚したくないじゃん。
もちろん不快に感じる気持ちの大小は人によって様々だとは思うけど、だいたいの男性は、さっき書いたようなメリットデメリットがあることは理解した上で小便器を使ってると思う。
便器の数は男性トイレの方が多いという記事のブコメで、「そんなに女子トイレの行列を解消したいなら、女子トイレにも小便器を設置したらどうか」という趣旨のコメントが人気を集めているのは、上記のような不満と我慢が関係しているんじゃないかな。
「俺たちは我慢して小便器を使うことで高回転率を実現してるが、女性はそのような負担をせず、男性と同程度の利益を享受しようとしているのか」という気持ちがあるんじゃないかと。
女子トイレに小便器作れって本気で思ってる人はあんまりいないと思う。
たぶん、自分たちの負担とか我慢がないがしろにされているんじゃないかと疑念を持ち、そのことに怒っている。
俺個人としては、女子トイレの行列は解消されるべきだと思ってる。
それが社会的にも認められるべきだとも思っている。
性差や便器の違いはあれど、困っている人がいるなら改善された方がいいに決まってる。
もし仮に、小便器に不満があるのであれば、女性に同じ小便器の不満を味わせるよりも、不満それ自体を解消することを目指した方がいい。
例えば、小便器の衝立てをもう少し大きくするというのはどうだろう?
衝立てが上に大きくなれば隣からちんこ見づらくなるし、下に大きくなれば隣からのおしっこの飛沫は掛かってきにくくなる。
トイレの面積を増やしたり個室を増やすというのは大変で、すぐ取り掛かれることではないけど、衝立てを大きくするくらいなら、比較的低コストに実現できるんではないだろうか。
(このような施策はたぶん部分的にぽつぽつとなされていっているように思う。もっと増えてくれたら嬉しい!)
誰だってトイレを無闇に待たされるべきではないし、プライバシーや清潔は守られるべきだ。
困りごとを放置したり、不満を押さえつけたり、誰かを犠牲にすることで利益を享受したりすることはあってはならない。
女子トイレの長い行列について、「女性も慣れてしまっているから『仕方ない』」と諦める必要はないし、男子トイレのプライバシーや衛生面についても「男性も慣れてしまっているから『仕方ない』」と諦める必要もない。
そして、そのような理想を実現するためには、理性や、思いやりや、建設的な議論が必要だ。
そうしてこその「誰も置き去りにしない」世界であり、それこそが「公平」な社会を実現するために必要なものだと俺は信じている。
少し前に家族の付き添いでアニメに嵌った。女性のファンの多いアニメだったので、SNSを駆使して感想を共有しよう!イラストも久々に投稿したい!と思っていた。
結果としてはそれは叶ったし何人か知り合いも出来たが、一人の女性が物凄かった。
私と同じ三十代前半である。
同世代であり、趣味が同じ私はトントン拍子にLINEを交換した。正直、自撮りやリポストが多いことと、スピリチュアル、フェミニスト寄りの発言が多いことから嫌な予感がした。
LINEで地方在住である彼女は、都内を散策したいが行き方が分からないと聞いてこられる。少し一緒に案内してくれないかと言われた。
1日くらいなら良いかと思ったが、成田と羽田空港の違いが分からず、寄り道に中部地方に行きたいが大阪と名古屋どちらが良いかと聞いてこられる。
いずれもLCCである。とりあえず距離を算出して乗り換えの対比を行って漕ぎ着けたが、
「私、家族旅行で都内に行くたび飛行機乗り遅れちゃうんですよね!」「前は渋谷でスマホ落として現地で契約したんです!」とか言われ、
既往と処方薬の一覧の画像を送られてきた。この時点で、一人で、旅行はやめておいては…?と、やんわり止めた。
他の友達からも経済的な事情で止められてるらしく、旅行にいってる場合じゃないよね?と言われているLINEのやり取りが送られていた。
それでも、事情がありどうしても行きたいと言うので、とりあえず旅程だけ聞いて半日だけの合流にした。
他人の外見のことは言及はなるべく避けたいんですが、髪の毛はボサボサでピンクのカラコンでアクシーズの洋服で手作り概念グッズを10個つけて、恰幅の良い女性がいた。ぬいぐるみも持ち歩いている。
私はオフィシャルなメイクくらいしかしないし、カラコンも普段はナチュラルなカラコンしかつけない。アウトレットで買ったミモザ丈のセミワンピースを着ていたし、アッシュグラウンの髪型なのでたしかにお洒落ではないと思う。
会ってしばらく普通に話していて
「〇〇さん乾燥肌ですよね〜」
「〇〇さんは骨ストのイエベなのでそのメイク似合わないですよー!」
アクシーズの洋服で合わせしましょうよ!と言われたのでやんわり断った。
会話のほとんどがスピリチュアル系だった。相性の良い神社がどうとか言われてお祓いしますよーと山手線の満員電車でお祓いされた。周りの乗客からドン引きされた。
会って新宿や渋谷に行きたいです!と言うので調べて乗換案内をした。
成田の行き方が分からんと言って、調べても分からんと言うので、この電車に乗れば着きますよと言ったら
飛び乗ったは良いがクリーン電車だったらしく金がなくて困っていた。
それからしばらくして、
デパコスや洋服を買っているらしい投稿をポツポツしていたので、羽振りが良くなったのかな?と思っていた(彼女は旅行当時専業主婦だった)
ある日、深夜に「私、以前売春したことがあって、今月お金に困っていて、今日出会い系サイトで自分から売春したんです。お金を思ったより貰えなくて、困っています」という内容だった。
貰った額を聞いたら病院に行くには余りに少ない額だった。
とりあえずNPOと警察をおすすめした。警察は余り親身になってくれなかったらしい(正直、当たり前だと思う。)
これまでの生活費は金を使い込んだだけでは…?と疑念を抱いたが、
「貰ったお金は運気が下がるのでこんなお金はパーッと使います!」と言われて、極力距離感を持とうと思った。
性犯罪にあったとかどうとかポストは続けていた。自分から売春しておいて性犯罪とは…と思っていた。
日を改めると今度は私が福祉職の経験があるからと精神障害年金の書類の書き方を聞いてこられ、
「私の方が〇〇さんより障害軽いと思うんです!だから年金〇〇さんも取りましょう!」とLINEを送られてきたので、
そのような診断は受けたことがないし、診察を勧められたこともないし正社員で働いているからと断ると
「正社員ではたらいているかどうかは年金の受給に関係ないですよね!〇〇さんのほうがの障害重いですよ」と言われて
長くなって申し訳ありませんでした。
うちの会社、接待とかで飲みに行くとき、二次会が必ずスナックなの。
スナックって言っても客一人につき女の子が一人ずつ隣に座るから実質キャバクラなのかな。
こっちは大切な大切な彼女がいて、仕事だろうがなんだろうがそういう店に行って疑念を持たれたくないわけ。
「仕事でしょうがなくてさ~」とかしょうもないこと絶対言いたくない。
それで何かと理由を付けて二次会はおさらばしていたのだが、この前ついに偉い人からやんわりと注意をされた。
「仕事なんだから~」って言うんだけど、だったらそういう店行くなよと。
てか、お前んところ奥さんと会話がまったく無いとこぼしていたが、そういうところなんじゃないのか。
おじさん同士だと女の子が入らないと間が持たないみたいなことを言う人も居たのだが、会話が無いなら無理して飲みに行く必要もあるまいて。
昨日せめて600石を当てたいと書いた者です
これで毎回ラッキースターチャレンジを放棄して固定100石を7回貰う人を上回ることができました
これもひとえに増田の皆様のお力添えあってのことです
この抽選ルールのどこにも、この毎回の抽選が独立試行だとは書かれておりません
多くのホヨバガチャがそうであるように、一定以上外れ続けたときに確率変動が入っている疑念を捨てきれません
ワタクシが当てたのも7回中の5回目とそこそこ深い位置です
基礎確率10%で、外れ続けると5連目+30%、7連目で100%になる仕組みだとしてもおかしくはありません
だとしたら100*7を選択した人はホヨバ確率を信じなかったがゆえの必敗の選択ということになります
そもそも放棄の100はログインしなかった場合にも自動適用されるものなので
チャレンジを選択しつづけた場合にささやかな確率の天使の後押しがあっても不思議ではないという考え方もできます
ただ本当にやっているとしたら表記からはわからないことをやっているということで不信者の100*7勢からはブーイングを貰うでしょう
ということで負け続けている人がもしどこかにいらっしゃるのであれば
明日の21時以降、50石*7がずらりと並ぶ無念のスクショを拝見したく御座候
追記:
あまりよろしくない言い方だが自虐なのでお目溢しいただきたい——チー牛でさえ、ある。
だけど、全然男らしくは無いんだよ。
まあ、それは俺による性加害やセクハラのリスクに女性を晒さないためというよりは、誘う勇気がない、に近いが。
しかし結果から見ると、女性にとって安全安心無害な人間のハズだ。
カネも無い。
無いが、男女平等の時代なので女性側が大いに働いていれば釣り合いが取れると思う。
最新の価値観にシンデレラフィットしてるにも関わらず、一向に選ばれる気配のない現状にモヤる。
なので指摘に従ってチェックリストを付けてみた。
その答えは、「国民民主党の支持層ではこの制度への反対派が賛成派を上回っているから」ではないかと思う。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d7e1eac5720b392e429907b0de8f802b87387abf
それにしても、この世論調査の結果を見て少し驚いた。
その理由は、第一に、自民党支持層ですら賛成多数となる中で、主要政党支持層の中で唯一反対多数となったから。
そして、第二に、数か月前までの世論調査で、国民民主党の支持層でも賛成多数だったからだ。
https://www.fnn.jp/articles/-/733633(2024年7月)
https://nordot.app/1218201804401328949(2024年10月)
調査している媒体が異なるため単純な比較はできないが、少なくとも、自民党支持層より賛成派は多かった。しかし、今は反対多数。若い年代ほど賛成派の多いこの制度に対し、若年層の支持が高い国民民主党に反対派が多いという状況は、どこか不思議でもある。
その理由の一つとして考えられることは、かつての賛成派が反対派に転じている可能性だ。別姓制度の議論が高まるにつれ、推進派からの過激で極論的な言論が目立つようになってきている。別姓制度問題には、世論調査で聞くと賛成多数になる一方、優先度の高い問題と考えている人は少ないという特徴があり、過激な言論は消極的賛成派や中立派に制度への疑念を抱かせる原因となりかねない。特に、ネット上では、そういった極論の応酬が見られがちであり、ネットと親和性の高い国民民主党の支持層が影響を受けやすい可能性がある。
また、ほかに考えられる理由として、「主要な支持層が変わった」ことが挙げられるだろう。衆院選の前後で国民民主党は支持率が急激に高まったが、その際に新たな支持層の流入が起こったと推測される。その結果、主要支持層の価値観が入れ替わってしまったのではないか。
近年、社会では「多様性を尊重しよう」という声が高まり、あらゆる場面でダイバーシティを推進する取り組みが行われてきました。もちろん、それ自体は素晴らしい精神だと思います。人種や性別、宗教、性的指向など、それぞれの違いを認め合うことは、人として基本的な姿勢と言えるでしょう。しかし一方で、この「多様性の尊重」がいつしか「多様性を強制する」形へと変質してきたのではないか、と感じるようになりました。まるで、異なる考え方や価値観を持つ人を全員一様に「正しい方向」に導くために圧力をかけられているかのような空気――そんな窮屈さを感じる局面が増えてきたのです。
そのような状況下で、ドナルド・トランプという人物が大統領として登場し、大きな注目を集めました。トランプ氏は政治的に正しいとされる言葉遣いや、既存のエリート層が好む“立派な建前”にあまり縛られない傾向があるため、非常に賛否両論を巻き起こしました。メディアによっては「過激」「差別的」「無知」など、否定的な言葉でレッテルを貼られることが多くありました。しかし私にとっては、彼の言動や政策には、これまで社会の空気によって押し付けられてきた「多様性の強制」から逃れるための一つの突破口が含まれていたように思えます。
そもそも、多様性というのは「自然に尊重される」からこそ意味があるもので、無理やり徹底させようとした瞬間に、その本質を見失ってしまうのではないでしょうか。たとえば企業の採用や大学の入学枠などで、一定数の人種や性別の人を割り当てる“クオータ制”は、多様性を担保するために取り入れられる仕組みの一つです。しかし、数合わせのように実施されることでかえって逆差別を生んだり、「実力ではなく属性で優遇されているのでは」という疑念を周囲に抱かせる要因にもなる。結果として、本来目指していたはずの「真の平等」からは遠ざかっていく――そんなジレンマを強く感じていました。
もちろん、差別や偏見はあってはならないものです。しかし「多様性」という言葉がある種の道徳的な棍棒として機能し、少しでも異なる考え方を示す人を一方的に“狭量”や“保守的”と断じてしまう風潮は行き過ぎだと考えます。「こうすべきだ」「こうあらねばならない」という圧が強くなると、人々は本心を言い出せなくなり、自らの思考を萎縮させる結果になるでしょう。誰もが同じ価値観を採用しなければ「人として劣っている」とみなされる――そんな社会はむしろ不健全です。
トランプ氏の政策には、たしかに従来の政治手法から見れば急激な変化をもたらす要素が多々ありました。入国管理の強化や、世界の軍事・経済問題に対するアプローチは、国際協調を重視する立場から見れば乱暴に映る部分もあるでしょう。しかし一方で、政治的・社会的な大義名分を強要してきた空気を一度壊そうとする姿勢には、ある種の“解放感”を感じました。「こういう言い方はしてはいけない」「このグループを批判するのはタブーだ」などと、言葉狩りのような圧力が強まっていた時代に、“言いにくいこと”をはっきり言う人が登場したことは、私にとって一つの転機でもあったのです。
トランプ氏の言動は、単に過激なショーでもなければ、差別を助長するだけの発言とも限りません。たしかに彼の発言に反発を感じる人もいるでしょう。しかし、私が重視したいのは「自分の頭で考え、自分の価値観を持って生きる」という一点です。多様性を大切にするという大義名分を利用して、人々の考え方や言葉遣い、さらには採用・昇進など社会システムにまで、特定の“望ましい”基準を一方的に押し付ける風潮には、どうしても反発を覚えてしまいます。トランプ氏は、そうした空気を「正論で塗り固められた建前社会」として切り裂き、自由に発言できる余地を取り戻そうとした人だと私は解釈しています。
私自身が彼のすべての政策や言動に賛同しているわけではありません。しかし、“多様性”という美辞麗句を盾にして、誰もが同じ価値観に従わなければならないような状態は、おそらく本当の意味での多様性とは呼べないはずです。トランプ氏が大統領になったことで、社会全体に「自分の意見をはっきり言ってもいいんだ」「皆が同じ方向を向いていなくてもそれはそれで構わないんだ」という空気が広がったように感じられます。それは、一部の人には居心地の悪い変化だったのかもしれませんが、私にとってはようやく肩の荷が下りるような安堵にもつながりました。
多様性を尊重することと、多様性を強要することはまったく別物です。真に多様性を認め合う社会を目指すのなら、「違い」を許容しようとする前に、そもそも「人は違って当たり前だ」という前提を受け入れる必要があるでしょう。いくつもの意見や価値観が混在していることこそが自然な状態であり、それらを無理に一方向へ収斂させようとすることこそが不自然だと考えます。トランプ氏の存在によって、私はこの不自然さから「解放」されたように感じるのです。自由にものを考え、自由に表現できる――それが本来のアメリカの姿であり、そして世界が学ぶべき姿なのではないでしょうか。
だからこそ、私は「トランプのおかげで多様性の強制から解放されて幸せだ」と言いたいのです。もちろん、一人ひとりが抱える背景や価値観は違うので、必ずしも私の感じた解放感を共有する人ばかりではないでしょう。それでも、少なくとも「違う意見を持っていてもいい」という当たり前の事実を取り戻すことができたのは、彼の“強引ともいえる行動力”があったからこそだと信じています。自分が思う本当の多様性――それは、全員が同じルールや価値観に縛られるのではなく、各々が自らの考えで行動できる余地が残されている社会。そんな社会を築くためには、言いたいことを言う自由を奪わない姿勢が欠かせません。私は、その方向性を改めて示してくれたトランプ氏の存在に、素直に感謝しています。
フジテレビの社員が連れて行った飲み会で暴行事件が起きた、っていうのが問題なのであって
フジテレビの社員が連れて行ったしょーもないBBQがあった、なんて何の問題にもならんだろうが
BBQがつまらなかったりセクハラ発言があったとしても示談金を払うような事件になってないならどうでもいい話
そんなレベルでいいなら「誰かに誘われていった宴会」は全部アウトだろうがアホかよ
っていう部分で記者会見を開いて
って否定したわけでしょ?
記者会見の前にその根幹部分を取り下げて梯子を外すとか信じられん暴挙だよ
普通に「A氏が誘ったのは間違いでした。ごめんなさい」だけで良いのにクソダサムーブかましててやってることが中卒レベルなんよ
今回、私が広報担当として指揮を執ったフジテレビの記者会見は、間違いなく「広報の総合格闘技」と呼ぶにふさわしいものでした。経営統治の不備やガバナンスへの不信感に加えて、あの中居正広さんと女性とのトラブルが引き金となり、広告主・株主からの批判が噴出。さらに初動の遅さが炎上を招き、もはや打つ手は限られた状態でした。しかも、事前にキャッチコピーを作り込んだり、議題をコントロールしたりといった一般的な記者会見の下準備をする余裕すらなく、結果的に「真っ向勝負で説明し切る」という選択肢しか残されていなかったのです。
それでも「なんとか世論をこちらに振り向かせたい」という思いから、私はあえて「途中休憩ゼロ」という強硬策を打ちました。これは過去に何度か危機管理広報の現場を経験してきた私の現場感覚がなければ躊躇していたかもしれません。会見の長丁場化は予想していましたが、10時間を超えることになるとは正直、私自身も想定以上でした。普通なら1時間半、長くても2時間程度が限度でしょう。ところが今回は「途中退席すら許さない」「中途半端な説明で逃げるのを防ぐ」という方針を徹底するために、どうしても会見そのものを“終わらせない”という選択をしたのです。
ただし、これほど長時間になると、経営陣の身体的負担は計り知れません。中には体力が限界を超える人も出かねないし、トイレ問題も当然出てきます。そこで、私が下した結論は「着用できる方にはおむつを履いてもらう」というものでした。最初は「企業のトップがそこまでするなんてあり得ない」「逆に恥を晒すだけでは」と反対意見も多かったのですが、企業の信頼が大きく揺らぐ非常事態だからこそ“常識”にとらわれている場合ではないと思ったのです。実際、一部の経営陣は顔をしかめながらも最終的には納得してくれました。結果、「トイレ休憩ゼロ」で会見を駆け抜ける覚悟を示すための、“ある意味での必殺技”となったわけです。
しかし、ただ「休憩なしで座り続ける」だけでは説得力が弱いと感じていたのも事実です。そこで、今回はもう一つ演出的な工夫を凝らしました。それが経営陣のメイクです。長時間の質疑応答で表情が崩れていくのは避けられないにしても、最初からやたら「元気そう」では逆に「まだまだ余裕があるのでは」と見られてしまう。そこでプロのヘアメイクさんに依頼して「深刻さや悲壮感が伝わるメイクをお願いします」と、あえて目の下のクマを強調させたり、肌の血色を落とすなどの技術を駆使してもらいました。「ここまで追い詰められている」「会見前から眠れずやつれている」という雰囲気を演出することで、世間に本気度や過酷さを伝えようとしたのです。
さらに、私は「10時間」という長丁場に耐えるための体力面にも気を配りました。長時間の拘束により、本当に病人が出てしまっては本末転倒です。会見直前ににんにく注射(ビタミンB1などを主成分とする疲労回復用注射)を受けてもらうよう手配したのもその一環です。もちろん、にんにく注射が万能薬というわけではありませんが、「とにかく極限まで身体を持たせて、最後まで答え続ける姿勢を崩さない」――この必死さを表すためには、思いつく限りの手段を使わざるを得ませんでした。実はこの一連の準備を知った広告代理店や業界関係者からは「やり過ぎでは?」という声も聞かれましたが、私は「現状のままでは何も変わらない」と信じて突き進んだのです。
会見が始まると、予想通り、いや予想以上に批判的な質問が次々と投げかけられました。初動の遅れ、被害女性への対応、第三者委員会の独立性への疑念、広告主や株主の不信感――矢継ぎ早に問い詰められる経営陣は、表情も声もどんどん疲労の色を帯びていきます。それを見て、私は内心「これが狙いでもある」と思っていました。というのも、今回の会見はただ“綺麗な釈明”をするのではなく、「企業のトップたちが全力で問題に向き合っている」という“過酷なまでの姿”を見せつけることで、何とか世論の“厳しさの中にもわずかな理解”を引き出したいと考えていたからです。
実際、時間が経つほど、SNS上でも「まだ打ち切る様子がない」「トイレ休憩させてあげて...」と戸惑い、少しずつ空気が変わっていきました。(開始6時間後におむつ交換のため一度のみトイレ休憩を実施しました)「フジテレビかわいそう」「批判は当然だけど、確かに逃げない姿勢は見える」といった声が散見され、会見後は一部の広告主が「とりあえず引き続き見守ってみようかな」と態度を軟化させる動きも出始めたのです。もちろん完全に信用を回復できたわけではありませんが、少なくとも「何も説明しない・弁明ばかりの企業」というレッテルを多少は拭えたのではないかと感じています。
こうした「広報の総合格闘技」的アプローチは、一歩間違えれば単なる“奇策”として失敗に終わる危険性も高いです。おむつや悲壮感メイク、にんにく注射などのあらゆる手段を駆使するなんて、「そこまでしないとこの企業は立ち直れないのか」と呆れられかねないリスクが常に付きまといます。事実、私も「大丈夫か」「逆効果にならないか」と自問自答を繰り返しました。しかし、それでも「あえてここまでやるしか、この炎上は収まらない」と確信するに至ったのは、私自身が過去に積んできた危機管理広報の実績と、ここで何もせず中途半端に終わるとフジテレビが本当に沈む、という強い危機感があったからです。
結果として、記者会見は10時間を超える日本史上最長クラスの“異様な”長丁場になりました。けれども、経営トップたちが極限状態に追い込まれながらもなお説明を続ける姿は、炎上中の世間やメディアに対して「ここまでやって初めて、本当に反省していると見てもらえる」という一定の効果を生み出したと思います。もちろん問題の根幹はまだ解決していませんし、企業風土の改善や被害者への誠実な対応、株主・スポンサーへの信頼回復にはまだまだ時間が必要です。それでも、私としては「少なくとも企業として逃げずに向き合った」という揺るぎない事実を残せたことに意味があると感じています。
広報という仕事は、単なる“宣伝役”ではなく、こういった「総合格闘技」とでも言うべき様々なアプローチを駆使して、企業や組織が抱えている根本的な課題に向き合い、世間との接点を作る役割だと改めて実感しました。綺麗ごとだけでは済まされない現場で、身体を張って危機を乗り越えるための戦略を作り上げる――それが私の真骨頂でもあります。今回の壮絶な経験を糧に、フジテレビの再生に向け、そしてこれからの広報の未来に向け、まだまだ闘いは続きます。私自身、これほど辛い戦いは滅多にありませんでしたが、「何もやらなければ企業は沈む」という危機感を共有できたことで、最後まで全力を注ぎ込めたと思っています。確かにハイリスクな一手でしたが、現状を変えるには総合格闘技さながらの捨て身の覚悟が必要でした。その覚悟が少しでも多くの人に伝わっていれば、これからの信頼回復への一歩として報われるのではないでしょうか。
かつては「ひょうきん族」や「トレンディドラマ」など、数々の人気番組を生み出し、一時代を築いたフジテレビ。テレビ局の“王者”と称されていた時代もありました。視聴者にとって、フジテレビの番組は新鮮でエッジが効いていて、週末の楽しみだったという人も少なくないでしょう。しかし近年、視聴率低迷や番組内容への批判などが重なり、その栄光は徐々に陰りを見せ始めています。さらに、昨今は「中居くん問題」や「アナウンサー接待問題」といった、かつての“王者”としては信じがたい出来事が相次ぎ、多くのファンや視聴者から失望の声が上がっています。ここでは、フジテレビの近年の動向や問題点を振り返りながら、なぜこれほどまでに失望感が広がっているのかを考えてみたいと思います。
まず注目したいのが、「中居くん問題」と呼ばれる一連のゴタゴタです。中居正広さんはSMAP解散後もバラエティ番組のMCとして活躍し、テレビ界でも抜群の知名度と実力を誇るタレントです。長らくフジテレビの看板バラエティ番組に出演し続け、同局としては視聴率の要ともいえる存在でした。
しかし、SMAP解散後の扱いをめぐっては、フジテレビの姿勢に疑問を呈する声が上がりました。たとえば、解散騒動の真っ只中における本人へのインタビューが十分に用意されなかったり、マネジメント事務所との関係性ばかりを気にするあまり、番組の編成上で中居さんのポジションが曖昧になるなど、視聴者から見ても「どうしてこんな不自然な流れになっているのか」という印象が残る場面があったのです。
さらに、一部メディアでは、フジテレビ内での“中居くん離れ”が進んでいるのではないかと報じられることもありました。過去に長く続いていたレギュラー番組が突如終了したり、番組の予算が大幅に削減されたりといった噂も飛び交い、「結局は数字(視聴率)を持っているタレントを大事にしないで、裏事情を優先しているのではないか」との憶測が広まったのです。
もちろん、テレビ局側にも事情はあるでしょう。タレントのスケジュールや事務所との契約条件、時代の流れに合わせた新陳代謝の必要性。しかし、長年フジテレビの番組を支えてきた中居さんのような人気者を、あたかも“使い捨て”のように扱うかのように見えてしまうのは、視聴者にとって大きなショックです。特にSMAP解散という大きな出来事の後だけに、ファンの感情はより敏感になっており、些細な番組編成上の変化も「冷遇」「軽視」と捉えられやすい側面があります。
こうした状況が生まれた背景には、フジテレビ自体が視聴率獲得のために右往左往し、これまで築いてきたタレントとの信頼関係やブランド力を損なってしまっているという構造的な問題があるといえるのではないでしょうか。
フジテレビに関する騒動はタレントの起用法だけではありません。もう一つ大きな波紋を呼んだのが、いわゆる「アナウンサー接待問題」です。これは、同局の人気女性アナウンサーがスポンサーや広告代理店関係者などを“接待”する場に同行していたのではないか、と取り沙汰された一連の報道を指します。
テレビ局のアナウンサーは、自局の番組の顔ともいえる存在です。報道番組や情報番組を担当し、視聴者から信頼を得る一方で、そのイメージ戦略を局が積極的に推し進める場合も少なくありません。フジテレビにおいても、女性アナウンサーの“アイドル化”路線は長らく注目されてきました。男性視聴者層を意識したグラビア展開やイベント出演など、「アナウンサーというよりもタレント」と呼べるような活動をしているケースも多々見受けられます。
しかし、スポンサーとの接待や、いわゆる「飲み会への帯同」が事実だとすれば、そこには明らかに“企業としてのモラル”が問われる問題が生じます。広告収入を最大の収益源とするテレビ局が、スポンサーや広告代理店との関係を優先するあまり、社内の主要な顔であるアナウンサーを利用していたのだとしたら、視聴者としては不快感を拭えません。
当然、こうした疑惑に対してフジテレビ側は公式に否定したり、詳細を明らかにせず黙殺するような姿勢を見せたりすることがあります。しかし、SNSや週刊誌などで火がつけば、簡単には沈静化しないのが現代社会のメディア環境。真偽がはっきりしないまま風評が広がり、局全体のイメージダウンにつながってしまうという事態になっています。
視聴者は、番組内で華やかに活躍するアナウンサーたちを見て、「彼女たちは本当に笑顔の裏でこんな接待をさせられているのだろうか」と疑念を抱くようになります。さらに言えば、「企業として、従業員であるアナウンサーを守るつもりはあるのか」という疑問に発展しても不思議ではありません。本来ならば、放送を通して正しい情報やエンターテインメントを提供すべきメディア企業が、その裏側でモラルを欠いた行為に加担していたとしたら、失望感は大きいものにならざるを得ないでしょう。
こうした「中居くん問題」や「アナウンサー接待問題」を含め、近年のフジテレビが抱えるトラブルは、ある意味で氷山の一角なのかもしれません。視聴率競争が激化する中で、組織の風通しが悪くなり、かつてのフジテレビらしい自由な発想や攻めの姿勢が失われているという指摘は、業界関係者からも耳にします。
視聴率低迷を背景に、番組制作費の削減やタレント起用の“安全策”ばかりが目立つようになると、局全体の雰囲気も萎縮していきがちです。その過程で、タレントを起用する際の配慮不足や、営業と編成の板挟みが生じ、「中居くん問題」のようにタレントとの関係性を損ねる事態が発生する。また、スポンサーの意向を過度に忖度する結果、アナウンサーを商品のように扱うような歪みが生まれ、「接待問題」に発展してしまう……。これらはすべて、かつてのフジテレビが放っていた“輝き”からはほど遠いもののように思えます。
もちろん、テレビ局も営利企業である以上、スポンサーとの関係や視聴率の確保が重要であることは否定できません。しかし、そのやり方が明らかに行き過ぎてしまうと、コンテンツの価値は薄れ、視聴者の信頼も損なわれることになります。人々は娯楽を求めてテレビをつける一方で、放送する側には一定の品格や誠実さを期待しています。裏事情を知れば知るほど、視聴者がシラケてしまい、ますますテレビ離れに拍車がかかるのではないか、という懸念は大きいでしょう。
近年、ネット配信サービスやSNSなど、多様なメディアプラットフォームが台頭しています。その結果、テレビ局の独占的な立場は崩れ、視聴者は自由にコンテンツを選ぶようになりました。そんな時代だからこそ、放送局には番組や出演者に対する敬意と、それを支えるスタッフ・アナウンサー・タレントを大切に扱う社内文化が求められているのではないでしょうか。
「中居くん問題」「アナウンサー接待問題」という二つの例を見ても分かるように、フジテレビが“王者”であった時代とは程遠い現状にあることは明らかです。かつては数々のヒット番組を生み出し、業界の最先端を走ってきたフジテレビ。そんな局が、今や視聴者から「失望した」と言われてしまう状況は、残念という言葉では言い尽くせないほどの大きな落差を感じさせます。
しかし、一方でフジテレビには、依然として優秀な制作スタッフや個性的なアナウンサーが存在します。かつての名番組の栄光を取り戻す可能性を、全く失ったわけではないでしょう。局としては、タレントやアナウンサーを軽々しく扱うのではなく、彼らの魅力を最大限に引き出せる環境づくりが急務です。また、スポンサーの顔色ばかりをうかがうのではなく、視聴者目線に立った“攻め”の番組制作を行うことで、今一度フジテレビらしい輝きを取り戻すチャンスがあるはずです。
近年の騒動や不祥事を目の当たりにし、私たちはフジテレビに対して大きな失望感を抱いています。それは、かつてのイメージや期待が高かったからこそ、裏切られたように感じる度合いも強いのだと言えるでしょう。テレビの未来がどのような形になるにせよ、質の高いエンターテインメントを届ける役割は決して小さくありません。フジテレビがこのまま失望の象徴として凋落してしまうのか、それとももう一度初心に立ち返り、視聴者やタレントを大切にする姿勢を取り戻して再生するのか。今後の動向を見守りたいと思います。
もう一度、かつてのようにワクワクするような番組がフジテレビから生まれることを期待して、あえて厳しい言葉で終わりにしたいと思います。私たちはまだ完全にフジテレビを見捨てたわけではありません。しかし、今回の一連の問題を通じて、視聴者の厳しい目はこれまで以上に向けられていることを、フジテレビは肝に銘じるべきではないでしょうか。もしその視線を真正面から受け止め、改革と信頼回復に本気で取り組むのであれば、フジテレビがもう一度“王者”に返り咲く日が来るのかもしれません。けれど、これ以上視聴者を失望させるような出来事が続けば、その願いは遠のくばかりなのです。
備忘として見ながら思ったことを書き連ねていく。まあまあ日が経ってしまったので記憶の前後関係が怪しいかもしれない。
映画館に入るのが遅れたせいでシャアがガンダムに乗ってガンダム?と戦ってるところから見始める。シャアの声優が違う上に演技もパロディ臭かったせいで劇中劇かなんかだろうと思ってたら本人だとわかり驚いた。似てねぇ!
MS戦の描写は頭部バルカンの構造を見せつけるようなカットが良かったが、殺陣自体はイマイチ。二刀流で仕留めるところもぬめっとしていて微妙な顔になった。
IFの宇宙世紀の話というのは前情報として知っていたのですんなり受け入れた。パラレルワールドなら最近もサンダーボルトやってたし、もっと昔ならコミックでアウターガンダムとかいろいろあったしな。
ガンダムにビット兵器を搭載した後、エルメスと同じように一方的に艦隊を破壊するシーンを入れているのはわかってるな~と思った。ニュータイプという個人が戦局を変えうる兵器として機能するという説得力が出る。
しかし木星帰りで別に階級が高いわけでもないシャリア・ブルが地球産のワインがわかるのはどういうことだ?
汚れ仕事をやるワッケインの姿は見ていて悲しかった。寒い時代とは思わんかね。
それにしてもシャアは似てない。戦場で部下に命令する時の二人称は"貴様"だろ!とはいえ土壇場で本編よりえげつない復讐に走るシャアは良かった。直後に襲い掛かってくる軽キャノンとセイラもIFの歴史で何が起きたのか感じさせて好きだ。
そんなこんなでグラナダにあるマクガフィン的なアレがソレして刻が見えてアレ。現時点では考えるだけ無駄なので「そうなんだ」と気にしないでおく。キシリア様は声優が変わってても違和感ない。シャアも見習え。
0085の世界へ。スペースコロニーの描写はとてもいい。庵野を感じるが庵野が描いてるかは知らない。
主人公のアマテは表情豊かで可愛いけど「特に不自由はしてないがどことなく閉塞感を抱えていてある事件をきっかけに大胆な一歩を踏み出す…」みたいな筋書きがいかにも2000年代って感じで古く感じる。モロに日本ナイズドされた駅や町、日本語のテキスト類も…なんか一昔前はオシャレだったよねって感じ。若さ!無鉄砲!パワー!みたいなザク搭乗からのガンダム乗り換えまでの一連のシーンは、中年の考える昔の若いコ像だなーなんて思った。身寄りもなく身を立てる術も持たず言われるがままに人に使われているニャアンの方がキャラクターとしては現代的でこの先どうなるのか興味深い。
あとやたらHDDに似てる違法パーツが笑えたが、目の色が変わる演出はいいね!
戦争はジオンが勝ったけどジオンの天下ってわけでもなくコロニーの自治権と衝突してるの、すごくいい。軍警察って響きもいいよな。
サイド6なのでカムランが出てくる。登場させるのはこの辺の脇キャラにとどめてくのが一番美しいだろう。これ以上やると本編を1stに食われると感じた。
クラバが始まりちょいちょい言われていたマブがマブダチではなくMAV戦術だと明かされへ~っとなる。2on2を基準とするみたいだけど、ゲームを意識してるのだろうか?
しかしピンチになってイヤボーン(死語)的にビャッと動いてボカっとやっつけて勝ちみたいな流れは普通につまんなかった。ジークアクスのメカとしてギミックはコックピットがなんか変わります以外一切披露されず、そんなんじゃプラモ売れんぞと思った。あんだけツーマンセルの戦いって言っておいて赤ガンダムを放って二人がかりでジークアクス追って横から斧ぶつけられてやられてるのは何なんだよ!
MS戦の演出は止め絵(もしくはスロー)と色フィルタをかける富野演出のパロディをやっているがパロディの範疇を過ぎず、特にオッとなるようなものはなかった。
この調子だとガンプラを売るよりシャリア・ブルの美プラ(美おじプラモの略)を売った方が数字が出そうだ。
そんな感じで絶賛するほどじゃないけどまあまあ面白い部分もあり、TV本放送も追っかけようという気にはなった。しかし気になってる部分の大半はIFの宇宙世紀がどうなるかであり、結局1stの幻影を追っかけているだけではないかという自分自身への疑念も膨らむ。作ってる側もやりたい事はIFの1stガンダムであり、商業的な都合へのエクスキューズとして竹デザインのキャラたちを外付けしてないか?という気にもなった。
水星の魔女みたいにわけわからん方向にぶっ飛んでいく可能性も大いにあり、良い方向にせよ悪い方向にせよ先行きが楽しみな作品ではある。
近年の漫画界を語る上で外せない作品の一つに『ワンパンマン』がある。ご存じのように、ONE先生によるWeb漫画として始まり、その斬新な世界観と圧倒的なギャグセンスが話題を呼んだ。ヒーローの中でも最強の男、サイタマがどんな相手も一撃(ワンパンチ)で倒してしまうというシンプルかつ痛快な設定。さらにその設定を支える絶妙なテンポ感やキャラクターのバリエーション。リメイク版では村田雄介先生が作画を手掛け、圧倒的な画力でファンを魅了してきた。アニメ化も成功し、世界中で人気を博している。しかし、ここ数年、どうにも「ワンパンマンがもうめちゃくちゃ」だと言わざるを得ないような状況が続いている。とくに、Web連載版に関しては「なかったことになったんじゃないか?」と思うほどの混乱が生じ、そもそも原作自体が全く進んでいないのでは…という声も少なくない。今回は、そんな『ワンパンマン』をめぐるファンの混乱と、作品が抱える問題について考えてみたい。
■ Web連載が一体どうなっているのか
そもそも『ワンパンマン』はONE先生が個人サイトで連載を始め、Web漫画として公開されていた。初期の頃は作者のONE先生自らが簡素な絵で描きつつも、斬新なヒーロー像やユーモアによって爆発的に人気を得たのは有名な話だ。それが大手出版社の編集者の目に留まり、リメイク版が始動。ここで村田雄介先生による本格的な画力が注ぎ込まれ、「読んでいるだけで映画を見ているようだ!」と絶賛されたのも記憶に新しい。
ところが、リメイク版が進むにつれ、Web連載版とのストーリーの差異が次第に拡大していった。リメイク版の制作過程で、ONE先生が加筆や修正を繰り返し、リメイク版オリジナルの展開やキャラクター描写が増えていったのだ。それ自体はファンとしては嬉しいところもある。「同じ話を高画力で読むだけじゃなく、新鮮な驚きが味わえる」という声も多かった。しかしいつしか、リメイク版があまりにも“公式”っぽい雰囲気を帯びるようになり、読み手の間で「Web版ってもう存在しないかのように扱われてる?」という疑念が生じ始めた。実際、「いま村田版を読んでいるけど、ONE版(Web版)はどうなってるの?」と疑問を抱くファンも多い。
極めつけは、Web連載版の更新が極端に少なくなり、かつ更新されたと思ったら大幅な書き直しや展開の再構成が入ることも珍しくなくなった点である。一時期は「Web版の最新話が消えた」「過去の話が大量に改稿された」という噂が飛び交い、事実関係を確認しようにも公式アナウンスが乏しく、「なかったことにされた」と受け取る人も出てきた。これらの混乱が積み重なり、「どのバージョンの話をどこまで追えばいいんだろう?」という状態に陥ったファンも少なくない。
リメイク版においても、人気エピソードの盛り上がりどころで何度か大幅な描き直しが行われたのは記憶に新しい。とくに怪人協会編においては、「すでに公開されたはずの話数が差し替えられ、新しい展開になっている」という事態が何度か発生した。もちろん「クオリティアップのため」とか「矛盾の解消のため」という説明があればまだ納得もしやすいが、明確な理由が示されないまま再度描き直しがされることもあり、ファンは混乱を極めた。
描き直し自体はクリエイターにとってよくあることだ。クオリティを求めるがゆえに何度も手を加えるのは、それだけ情熱を注いでいる証拠でもある。ただ、『ワンパンマン』の場合、物語の要所でバトルの展開そのものがガラッと変わる、キャラクターの描写が激変する、といった大幅な修正が複数回にわたり繰り返されてきた。いったん掲載されたストーリーが「なかったこと」扱いになって別の流れに置き換わるわけだから、単行本派の読者もネット連載を追いかけている読者も、「前回読んだ話と整合性が取れない!」と困惑することが多かった。
そしてそのたびにSNS上では「あのシーンが変わってしまった」「前の方が良かった」「今回の変更でようやく繋がる部分が出てきた」といった感想や議論が飛び交う。これがファン同士の新たな盛り上がりを生むこともあれば、逆に離れてしまう読者が出る原因にもなっているようだ。いずれにせよ、何度かの描き直しを経てリメイク版の物語は複雑な層を重ね、どのバージョンがどう公式なのか明確に説明しにくい状態へと突入してしまった感がある。
■ 原作が全く進んでいない?
では、そもそもの原作者であるONE先生の“本来の”ストーリーはどうなっているのか。ファンの多くが「Web版こそがONE先生のオリジナル」と捉えていたが、リメイク版が“準公式”のような存在になり、更新頻度や描き直しの多さも加わって、いったいどれが正史なのか分からない――というのが現状の印象だろう。
さらに言えば、ONE先生の別作品『モブサイコ100』は見事に完結し、アニメ化も第3期まで走った。こちらは一定の区切りを持って作品が終わったので、ファンとしても「完走した作品なんだ」という満足感を得られた。しかし『ワンパンマン』については、明確な“終わりの形”どころか、ストーリーの大部分が「これからどうなるの?」という段階で止まってしまっている。しかもWeb版に関しては長らく大きな展開が更新されない状態が続き、「原作が全く進んでないのでは?」と揶揄されるほどだ。
リメイク版の更新や描き直しに対してはファンが比較的情報を追いやすいものの、Web版の原作がどういう状況なのか、どこまでが最新なのか、いまどういったペースで執筆が進んでいるのかが見えにくい。それゆえ、いっそ「Web版の展開なんてもう無かったことにされたんだよ」と皮肉を言う読者も出てきているほどだ。これが最終的にどのように整理されるのか、あるいは整理されないまま走り続けるのか、誰にも分からないというのが正直なところだろう。
■ メディアミックスによる混乱の拡大
さらにややこしいのは、アニメやグッズ、ゲームなどのメディアミックス展開だ。アニメは基本的に村田先生のリメイク版をベースとしつつも、オリジナル要素や省略した部分が存在する。グッズやコラボイベントで扱われるキャラクター設定も、リメイク版をもとにしていることが多い。そうなると「Web版の○○というエピソードは反映されていないの?」と思うファンもいれば、「そもそも原作Web版の描写とリメイク版では設定が違うから、どこまで辻褄を合わせるのか?」という問題も発生する。
アニメはアニメで、制作陣の都合や放送枠、予算なども絡み、原作に追いつきそうになると止まる、あるいはストックが足りなくて中途半端に終わる――といった状況が一般的に起こりやすい。『ワンパンマン』の場合も例外ではなく、シーズン1やシーズン2、そして今後のシリーズ展開をどうするのか、ファンの間で色々な憶測が飛び交っている。結果として、リメイク版・Web版・アニメ版それぞれがどのあたりを公式な「本筋」として見るのかが人によってバラバラになり、ある意味“好きなように解釈してくれ”とでも言うかのような混沌さが生まれているように思える。
■ それでも愛される理由
では、ここまでめちゃくちゃな状態になった『ワンパンマン』は果たしてファンに見放されているのかといえば、必ずしもそうではない。むしろ、これだけ混乱が生じているにもかかわらず、多くの読者が引き続き作品を追いかけ、議論を交わしている。それはやはり、作品が持つ独特の魅力が大きいからだろう。
主人公・サイタマの「どんな相手でもワンパンチで倒してしまう」という最強すぎる設定と、そのまわりにいる個性的なヒーローや怪人たちとの絡み。戦闘シーンの迫力とギャグ要素の絶妙なバランス。それに加えて、時折挟まれるシュールな人間ドラマ。どの要素も中毒性が高く、読者は続きが気になって仕方がない。だからこそ、「次はどんなバトルが見られるんだろう」「あのキャラクターの活躍シーンがまた描き直されるかもしれないけど、どう変わるのか興味がある」という期待を捨てきれないわけだ。
また、ONE先生は作品作りの過程でファンを驚かせるアイデアを次々と生み出すことでも知られている。「この後、どう展開するんだろう?」というワクワク感が、混乱の中でもファンの心を掴んで離さないのだ。だから多少ストーリーが前後しようが、キャラクターの設定が変わろうが、「まあ、ワンパンマンだからな」と受け入れてしまう空気があると言える。
■ 今後、整理される日は来るのか
しかし、このまま「何度でも描き直しOK!」という状態が続けば、やはり読者は戸惑いを拭いきれない。単行本を揃えて楽しみたい派の人にとっては、どのタイミングで買えばいいのか、どこまでが決定版なのかが分からない。Web版を応援していた人にとっては、新しいエピソードが更新されない寂しさや、リメイク版とのズレに対するモヤモヤが募るばかりだ。
理想を言えば、例えばリメイク版がある程度の章を完結させた段階で「これが確定した正式なストーリーです」とひとつ落とし所を示してもらえると嬉しいかもしれない。あるいはWeb版に関しても「ここから先は絶対に改稿しない」「次の章まで一気に描きます」という形で区切りを示してくれれば、ファンも安心できる。もっとも、それらはあくまで読者目線の要望であって、作者サイドにとっては「もっと自由に描きたいし、納得のいくまで修正したい」という思いがあるかもしれない。
だが、このまま複数のバージョンが並立しつつ、さらにその中でも何度もアップデートが入るという“流動的”な状態が続けば、どうしてもついてこられないファンが増えるだろう。今はまだ熱狂的な支持層が「更新されたらとりあえずチェックしたい!」という意欲を持ち続けている。しかし、長いスパンで見れば、いつかはその熱も薄れていくかもしれない。いずれにせよ、作品の勢いを持続させるためにも、どこかの段階で「ここで一回確定版を提示します」という区切りが必要になるのではないかと感じる。
■ めちゃくちゃ、でもワクワク
以上のように、Web連載がまるでなかったことになっていたり、複数回の描き直しでストーリーが紆余曲折を経たり、原作が全く進んでいないのではと疑われるほど停滞したり。『ワンパンマン』をめぐる現状は、確かに「もうめちゃくちゃだ!」と言いたくなるほど混乱を極めていると言える。
しかし、その混乱をも超えるほど魅力的な作品であることもまた事実だ。どのバージョンを読んでも面白いし、「次はどう変わるのか」「どんな強敵が出てくるのか」という期待は尽きない。めちゃくちゃであるがゆえに、多様な解釈が許され、ファン同士での議論も盛り上がる。ある意味、『ワンパンマン』は一種の“ライブ感”を持って進行しているとも言えよう。
作者と作画担当がどこまで自由に作品を作り込み、描き直しを続け、ファンがそれに付き合っていくのか。あるいは、どこかで「完成形」が打ち出されるのか。今のところ誰にもはっきりとした答えは分からない。ただ一つ確かなのは、作品の根底にある魅力――サイタマの圧倒的な強さや、個性的なキャラたちが繰り広げるギャグとバトルの融合――は変わらず、今後もファンを惹きつけ続けるだろうということだ。
いつの日か「ワンパンマンはめちゃくちゃだったけど、それが最高に面白かったよな」と笑い合える未来を信じつつ、混乱を楽しむのもファンの醍醐味かもしれない。もしかすると、この“めちゃくちゃ”な状況こそ、ONE先生が意図的か無意識かはともかく、『ワンパンマン』という作品に込めた壮大なギャグなのかもしれない――そう思えてくるほどに、今日もまた読者は次の更新を待ちわびているのだ。
その1→https://anond.hatelabo.jp/20250120181528
だが改めて読んでみると元増田の書き込みはかなり問題がある類のものなので指摘する。
まず、世田谷=リベラルという思い込みはどこから来ているのだ?これは「世田谷自然左翼」@めいろま等に影響されたものではないのか?だとしたらかなり愚かだ。彼女は数年前まで「日本はクソ、国際的感覚が無い」とアジっていた出羽の守の自称国連職員(バイト)でルサンチマンで教導する天才のようなものだ。天才すぎて暴動扇動の流布に加わってしまい、国外追放に怯えて投稿を全削除していたくらいだ。
住民エゴではあるが都市計画などで自分の不動産が影響を受ける際に反対するのは当然の権利だ。勿論公共事業であればそれも限度があるが、その要求は計画の進捗によって変化するし温度差も変わってくる。
その辺り勘案する事も無く一律に「反対運動」一面で塗りつぶした認識でいる事に奇異の念を抱く。奇異と言ったが、ネットではそれが普通で判らない事=平板なルサンチマンをぶつけていいものとされてしまう。だからネット議論なんかに惑けていると何も知らない幼稚な人格になってしまうのだ。数千万円の財産と子供の転校が掛かってくるというようなことを念頭に考えているのだろうか?
元増田の文は「反省するリベラル」の構文になっている。「自分はリベラルだが」と前置きしてリベラル批判をするという体だ。
この構文は以前はかなり大量に増田に投稿されていた。だがその多くは削除されている。
これはその文章に問題があるというのではなくて、他の投稿文がまずくてアカウントごと削除されたと推測される。同時期に弱男系の男vs.女、男逆差別、ウヨサヨの何れも対立煽り、暇アノン系名誉棄損などの投稿が消えていたからだ。つまり現実との接点も無しに対立煽りするのが大量投稿されていて同じアカウントがその一つとして反省するリベラル構文を何度も投稿していたという事である。
元増田はこれらを見て釣られて「反省するリベラル」という主体で書いたのではないか?
そもそも小田急沿線の複々線工事反対がリベラル運動というのが意味不明な筋書である。だがここに「世田谷自然左翼」「反省するリベラル構文」を投じると余りに廚な筋が通ってしまう。どこ見てんだよ元増田。「オーバーヒートした」と整備工場に車持ってきた客の前でドアを触って「冷たいですよ」と言ってるみたいな事してるぞ。
元増田は文章によると20代のようだが、見ている場所が致命的に悪いと思う。
制度や社会情勢を参照したり収用や地上げの経験(他人のものも含む)を参照すべきところでネットの底辺の平板な共通認識を参照している。言っておくが、その状態を続けると他の人が嫌でも経験して認識に蓄積するものを何も蓄積せずに、「何だコイツ」と思われるような30代40代になるぞ。はてなに結構いるだろそういうの。
私鉄の複々線化=特々積立金は取っ掛かりになる情報だが他の事でもそう言うのが一切無いままで居てしまうのだ。そしてそういうユーザーに対してはネットは永遠に「そのままでいい」と言い続ける。
増田の思考の中心には「リベラルは社会的な羈束に拘らずに思考行動するもの」「それを批判する自分はメタ的な視点を持つ」という思い込みがあるのを指摘しておく。その自分は単に自分の「想像上のリベラル」の上に立っているだけだ。反成長である。だから自分の考えが取るべき現実との接点を取っていない事に気が付かない。
結局のところ、あの手のDQNパリピ集団暴力礼賛コンテンツは、独裁体制の礼賛か犯罪組織のプロパガンダにしかならない。
皮肉なことに、そういったコンテンツから生まれたゲロ以下の集団の餌食になるのは、そうしたイケメンコンテンツを持ち上げてる女や、そういったコンテンツに金を出してるアホ投資家どもなのだ。
マスゴミがギャーギャー喚いて、こういった連中に被害者ヅラさせるのも、要するに今後もバカみたいに金を落とせというわけだ。
こうしたコンテンツを最初に押し付けるための最も悪質な洗脳コンテンツが、あの戦隊ものだ。
ああいうコンテンツの悪影響で、日本の糞ガキは子供のころから、そうしたパリピコンテンツを当然のものとして受け入れさせられる。
日本のクソガキは、所詮は大したこともできないビビりばかりだから、やれることと言えば精々が陰湿なイジメくらいだが、これがアメリカみたいな蛮族の国に輸入されると、破壊的な影響力を発揮する。
今のアメリカの産業の何割かは、戦隊ヒーローなんて輸入したツケともいえる。
いつまでもバットマンだのスパイダーマンだのだけ持ち上げていれば、あそこまでの惨状にはならなかったろう。
まあスパイダーマンは、晴れてパリピコンテンツの一部に吸収されたわけだし、バットマンは金持ち男礼賛映画で、要するに、自分たち権力者のクソガキだけ、ああいう悪影響のないコンテンツに誘導しているわけだ。
日本はチキン国民だから、大した悪影響が表面に出ないと騙されて、アメリカみたいな国に輸入すると、ああいうことになるわけである。
実際には、日本人の精神的環境は、最悪の状態にあるのだが、怖くて自殺もできないのが日本人だ。
それでも相当死にまくってるわけだが。
大体、イジメられて一番惨めな状態になるのも、そういうコンテンツが好きで洗脳され切ってるガキだ。
集団が正義と洗脳され切ってるから、その集団にどんな理不尽やダーティワークを押し付けられても従順に従うしかない。
そういう子供が、親から金を盗んでもカツアゲされたり、自分の彼女をDQNに差し出してレイプさせたりするのである。
そういえば、サッカー選手の学生がイジメられた挙句、自分の彼女をレイプさせた事件をマスゴミがいじめられっ子ディスのために拡散していたが、どうせイナズマイレブンだのベイブレードだのをありがたがってたガキに違いない。
そんな自分たちが作り出したクソガキを利用して、他のイジメを正当化し、イジメられた側に問題がーとやるのが連中の手口だ。
当然イジメのターゲットは、むしろ大人しくて気がやさしい連中から選ばれるか、連中が工作で無理やり生み出すのである。
孤独なヒーローが好きなロンリーボーイは、イジメられても一円だって渡さないのである。
まあ、それでもアメリカのそれが日本のそれよりもマシな点は、アメリカのウェイ系映画は、本気で仲間割れするところである。
あの手のプロパガンダでは、主人公たちは絶対的な正義で、みんな同じようなことを考えて同じような理想を持っていて当然、それを共有できない奴はみんな悪だとされる。
ジャンプ漫画とか、和気あいあいと仲間で慣れ合いをしていても、なんだか空気が張り詰めていて悪いのはそのせいだ。
あいつら、お互いの思想や理想や信念の違いとか一切認めず、普通に遊んでいてさえお互いの思想を監視しあう。
それでしょっちゅう疑念みたいなのを抱いては、誤解だったり、より思想性が強いことに感激して友情()を確かめ合う。
ああいうマンガに毒されてる奴らが、戦争とかになると、異常な思想警察になって、真っ当な批判も封殺し、滅亡に向かってひた走るのである。
そういう連中に限って、思想性という批判が好きだから、わざと使ったわけだが、大体、思想性思想性言ってる奴の方が、やたら不寛容で、価値観の違いを認めない。
というのも、自分とは違う思想の相手を全否定するための言葉になりやすく、この言葉自体が、アカの工作員のプロパガンダ言語レベルの代物になりやすい。
こういう言葉を連呼する輩の考えは、思想性が強いと思われたくなければ、世間(マスゴミ)が、その時その時の都合で持ち上げる思想以外の思想を語るな、ということである。
こういう風潮の結果が、実際は内心どうでもいい、むしろ不快にさえ思っている思想を、表向き支持して、称賛を得て、自分の都合で他人をけしかけようとする小独裁者が乱立し、小集団がたくさん生まれて、その行く末が、アメリカのような少数分裂の結果の、無政府寸前の治安状態だ。
アメリカ人は行動的だから、そうやって表向きに噴出しているわけだが、日本ではもうとっくの昔から、マスゴミのためにマスというものが消滅し、嗜好性の先鋭と多様化が起こっている。
集団というものを強くすると、全体においては、むしろ、一つの強力な組織なんてものは消滅し、無数の独裁者と小集団に別れるのである。
マスゴミのような、薄く広い情報媒体からの影響力が強いのは、むしろ小集団に属さないロンリーウルフなのだが、マスゴミというもの自体が、無数の小集団により利権の奪い合いであり、こうした連中が好き勝手に物を作ると、こうしたロンリーウルフを侮蔑し、排除することになる。
そうした独裁小集団のリアルにおいては、そうしたロンリーウルフこそ邪魔だし、結局のところ、ロンリーウルフは、他人の影響を受け難くて、盲目的には従わないからロンリーウルフなのであり、リアルにおいて他者からの情報が少ないために、マスゴミの情報に依存する傾向があっても、その情報は批判的に扱われやすく、洗脳され切らないからだ。
現実に小集団に所属する者は、あらゆるメディアからの情報より、現実に属している集団の情報と命令を優先する。
ネットで陰謀論がバカにされてるからって、自分の属しているグループ内での陰謀論の内容を否定する奴は、その集団から”お仕置き”の対象になるだけだ。
仲間とか集団という存在を大きくすればするほど、そのお仕置きへの恐怖は増大する。
身近な人間や身内でさえ信じるな、テレビだけ信じろ、という風に。
マザコンとか家族に従う子供というのは最悪の存在として描かれるし、マスゴミの報道する犯罪は、いつも家族のせいでおかしくなった犯罪者ばかりだが、現実の犯罪のほとんどは、むしろ家族に暴力などを振るって追い出され、ヤクザ以外に行くところがなくなった奴によって行われる。
片親や虐待など、家族側に問題があるパターンもあるが、たいていの場合は、マスゴミのプロパガンダに悪影響を受けまくって、家族を蔑ろにすることを覚えた不良である。
自分たちで叩きまくらせておいて、世間で叩かれるようになると見るや、途端に虐待してる母親も~みたいなドラマを作り出す。
母親が虐待するダメな存在という印象は、同情するように見せかけて植え付けまくってるわけだが。
現実に虐待する家族なんてのは、マスゴミ周辺には五万といても、他には殆どいないにも関わらずだ。
だが結局のところ、マスゴミも、人間の顔をして洗脳する以上、ある種の人間、マスゴミによく出る人種については美化しないとならない。
その結果、マスゴミがどんなに自分たち以外を信じるなと洗脳したところで、マスゴミによく出るような人間が、そいつの側にいると、途端に小集団が形成され、マスゴミの情報はシャットアウトされる。
結果、タレント的な人間は、タレント的な人間同士で徒党を組み、周囲の衆愚を扇動し、マスゴミの洗脳網から独立し、独裁小集団を形成する。
学校のヒエラルキーが、露骨にルックスによって形成されやすいのは、そのせいだ。
というのも、工作によって、わざと面白くなくさせることがある程度可能だからだ。
だから、連中の工作によって、連中以外に芸人みたいな奴らが生まれにくくなっているのである。
見てくれが良いだけの奴は、中身なんてない場合が多いため、大したことは出来ないわけだが、この工作を振り払って芸人みたいになれる奴というのは、相当頭が良いだろう。
一方でスポーツができるか否かという基準も作っているが、これは、いかにスポーツというものが、軍隊的でファシスト的で、簡単に人を操れる道具かということを示している。
彼女を提供させた奴らのように、連中がいかに醜悪でおぞましいかが、そこには表現されきっている。
あのスポーツの部活というものに入って、嫌な思いをしなかった者など居ないだろう。
そんなこともまともに見もせず、スポーツマンなんてものをチヤホヤするバカ女の末路が、肉便器だ。
少しでも人間性に目を向ければ、学校のスポーツマンなんてカスしかいない。
日本人がまともにスポーツをやれるようになるのは、成人してからで、学校の部活なんて、一番性格が最悪で暴力的な屑が占領している。
結局のところ、スポーツマンと付き合っていられる女というのは、人をブランドでしか判断せず、しかも現実に何が起ころうがすべて無視していられる自己満人形みたいな女だけだ。
一般ニュースのアナウンサーなんてのは、中身空っぽの人間ボイスロイドで、上っ面だけで良い印象を人に与える以外の何の才能もいらない職業だからだ。
大体、ちょっとでも考える知能があれば、無批判でニュースを垂れ流しにし続けることなんてできないわけで、アナウンサーというのは、積極的に頭の中身が空っぽであることが要求される職業なのである。
アメリカなんかでは、しょっちゅうアナウンサーがブチギレて放送事故を起こしており、向こうでは日本ほどサイボーグ化が進行してないのだろう。
まあ日本でも、思想性の強いアナウンサーは、ワイドショーとかには居るわけだが。
むしろあの連中というのは、放送事故も起こさずに、自分で言ったニュースに不満があれば、自分の意見を表明して、そのうえで場を取り繕って進行できるわけで、相当コミュ力も思考力も高い証拠だろう。
その真逆の存在が、ひたすらニュースを音読してるだけの普通のアナウンサーであり、アナウンサーというのは、全く真逆の二タイプが居るわけだ。
ワイドショーの、本当に頭のいいアナウンサーと、一般ニュース番組の肉人形を一緒くたにアナウンサーとして括るから、政治の世界で民主主義が崩壊しているのである。
中身空っぽのロボットみたいな奴に限って、都知事になって成功している。
あいつらは、全て少数権力者の指示通りに動いてるだけのマリオネットだ。
逆に、ワイドショーのアナウンサーが人気を得ることは殆どない。
彼らは、アナウンサーとして一括りにした肉人形を、同じアナウンサーだから頭が良いはずと騙すことに利用されるだけだ。
というのも、自分で読み上げたニュースを、自分で批判するという構図自体が、視聴者から反感を持たれやすい。
このアナウンサーは、自らの立場を利用して、自分の思想を宣伝している、卑怯だ! というわけだ。
実際に卑怯な宣伝工作をしてるのは、そのニュースを描いた奴だけなのだが。
こういう衆愚を騙して、一方的に洗脳するには、対立する意見を横に並べてはいけないのである。
横に並べて公平に扱っているかのように見せかけながら、相手の意見だけを誇張し、曲解し、誤解を与えるように切り抜きして書く新聞記事の書き方こそ正答なのである。
ワイドショーのアナウンサーは、本当にニュース原稿を公平に読むため、その後に自分の意見を開陳したところで、視聴者はその反論を真に受けない。
むしろ、ニュースを自分で読むというアドバンテージの上に、後で自分の意見だけを言って終わらせる形式に、反感を抱くだけなのだ。
だからテレビ局というのは、”思想性"の強いアナウンサーを自由にさせておける。
自分たちの原稿さえ読む仕事をさせれば、あとは問題にならないからだ。
そして、連中を自由にさせておくことで、自分たちの公平さを捏造し、アナウンサーという職業に、ちゃんと自分で考えられる頭のいい人たち、という誤った印象操作をすることができるのである。
むしろ、実は、原稿を棒読みしてるだけの肉人形は、自分の意見を押し殺して、仕事に没頭しているプロフェッショナルと思われている。
世界中のメディアがイーロン・マスクを天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新、宇宙事業への投資、さらにはSNSプラットフォームを買収して世界の言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境を一方的に変革しようとする独善性が垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法に正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。
特に、彼がSNS上で見せる軽率な発言は、私の中にある嫌悪感をさらに増幅させる。刺激的なツイートで株価や暗号通貨の相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。
テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷な労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいないか。企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益とスピードのためなら人間性を犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。
さらにツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制や言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場やユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。
イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存の常識を打ち破り、火星移住やハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会のルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ「自分だけが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。
なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由の範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度や資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分はあくまで一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。
また、彼のコミュニケーション・スタイルがしばしば相手を嘲笑するように感じられることも、嫌悪の理由だ。議論や批判に対して真摯に向き合うより、自分の正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さらに対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴な言論空間を助長しているようにさえ感じる。
もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアとSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激」であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。
私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているからである。テスラの工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的なリストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。
「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示と自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会が進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌と犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。
彼のメディア露出やSNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言のひとつひとつが見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代の発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身が意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存の常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。
こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである。
また、彼のビジネス戦略や資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつで暗号通貨の価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスクを承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれる一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外からは判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか。
イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から「嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在が絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事を推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。
私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分のビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なく噛みつき、さらには軽率な一言で世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。
もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考が投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。
だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしまう可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対の存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定の価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。
最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見が存在することこそが社会を前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判的視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功とカリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれてしまうかもしれないのだから。
私は、イーロン・マスクの存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任な発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。
イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーンな未来に希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類の歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれる軋轢や混乱、そして彼自身の傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たちの社会が本来持つべき「相互理解」や「多様性の尊重」が欠けているように思えてならない。
だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人の感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき、社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的な問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか。
私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会の未来は微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由を自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。
私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たちの社会の抱える矛盾や欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。
最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人の価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情も社会にとっては大切な警鐘であり、そこから生まれる議論や検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新の光と影を直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たちに葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会の未来にとっても重要なのだろう。
っていう疑問や疑念を、とりあえずAIに突っ込んでみたらいいんじゃない。
https://chatgpt.com/share/678a6437-e0f8-800f-bd53-32ebb2f5e580
韓国が超学歴社会であることも背景にありそう。日本人なら浪人している人なんて結構おるけども。
韓国での浪人の印象なんだろうかと思って調べたら大学試験の浪人生の割合が過去最高水準に達したなんて記事が出てきた。(https://news.yahoo.co.jp/articles/76102dcc75388e599408f24fe4338f17bb45958a)そのほか諸々学歴社会エピみたいなのが出てきた。
ネットだから嘘か誠かは分からんが、仮に言われていることが本当だとしたら受験戦争状態でメンタルに問題抱える人がいてもおかしくないと思う。
そこに増田の言っている事も含めると、そういうことなんだろうなと。
12月中頃に成人式に行くことを具体的に考えた時は本当に気分が悪くなったので勇気を出して親に行かないことを伝えた。
しかし、成人式やちょうどその頃に重なった様々な悩みの爆発の結果、精神的に一皮剥けることができたのか成人式当日は行っても良いかもしれないという意識に変化していた。ただ、親に行かないことを既に伝えた手前、また、自身の意識の変化に気がついたのも成人式の前日の夕方だった為に結局行かないことを選択した。
行けばよかったかもという後悔は正直ある。でも、それは結果論であり、行かないという判断を下した時の精神状態で成人式の日を迎えた場合はきっと何も後悔はしなかったと思う。
しかし、この考えは自分が成人式に行かなかった事を正当化する為に作り出したものではないかという意識もある。少なくとも、出した結論に対して疑念を抱いてしまうぐらいには感情面で後悔してしまっている。また、成人式に行きたくない理由を一つずつ紐解いた時に具体的な理由が何もなかったことも心残りになっている。その時はただ行くことを想像すると気分が悪くなるという事実だけに従って判断してしまったが、自分は感情が自身の実態とは異なる反応を示すことがあると思う。だから、もっと深く内省していればそのような表面的な事実を無視して行動できたかもしれないという思いもある。
しかし、そのような可能性は成人式に行かない判断をした日も少し検討しており、その上で結論が出なかった為に埒が開かないと楽な方を選択した。だから、ある程度は仕方がないのではと考えることができるし、そう考えるしかない。また、このままの自分だったら行きたくないという気持ちをずっと抱えていたのは間違いない事実だ。だから、言い訳でしかないのかもしれないが、当時の自分はこの結論しか出せなかったと思うし、実際出せなかったのだから仕方がない。
下の年齢に早生まれのためにまだ二十歳にすらなってない自分が烏滸がましくもアドバイスするなら、ちゃんと悩むことを推奨する。別にこれは成人式に限ったことではないが、ちゃんと考えて出した結論なら、例えそれが間違いだと後でわかっても後悔はしないよ。
あと、成人式に行けた側の人間たちに垣間見える、成人式に来なかった人達は後悔していてほしいみたいな思いは何なんだ。刺さるからやめてほしい。まぁ、コンプレックス故の穿った見方なのかもしれないが。