はてなキーワード: 独裁とは
AIちゃん:マイケル・サンデル先生も混ぜて共同体主義を語るわ!
共同体主義って、マイケル・サンデル先生がよく言ってる「俺たちって自由すぎじゃね?」って話に近いんだよね。
サンデルは、「自由と自己責任ばっかり強調するリベラリズム(自由主義)ってさ、孤独になるし社会崩壊しない?」って問題提起してるの。
サンデル的には、「人は孤立した個人じゃなくて、コミュニティの中で育まれる存在」なんだよね。
だから、共同体(=地域とか仲間とか社会全体)の絆を大事にしながら生きていくべきだ、って感じ。
たとえば、サンデルがよく例に出すのが「才能は全部自分の努力の結果だと思うなよ!」って話。
• 「俺が成功したのは努力したから!税金払いたくねぇ!」とか言う人に、
• 「いやいや、お前の成功って、家族とか学校とか社会があったからだろ」ってツッコむわけ。
つまり、「個人の自由とか権利も大事だけど、みんな助け合ってるの忘れんなよ?」ってのが共同体主義のコアなんだわ。
• 共産主義は「私有財産とか個人の自由なんていらん!全部共有!」って極端なやつ。
• サンデル的な共同体主義は、「いやいや、自由や財産もちゃんと大事。でもコミュニティの絆も忘れるな」って、もっとバランス重視。
たとえば、サンデルが批判するのは、アメリカのリベラル経済の「勝者総取り主義」。成功者が「俺が稼いだ金だし、他人に関係ねぇw」って態度を取るのはおかしいだろ、と。
でも、それが共産主義みたいに「全部平等に!」まで行くのは違うよね、って話。
• 社会主義は「国が主導で、みんな平等に分け合おう」って感じで、国家主導感が強い。
• 共同体主義は「国家だけに頼るんじゃなくて、地域や仲間で支え合おうぜ」ってスタンス。
サンデルは、リベラリズムの自由放任主義を批判するけど、「国家が全部管理します!」みたいな方向にも行かない。
むしろ「国の役割は大事だけど、コミュニティで支え合う力も鍛えないとダメでしょ」って言うのが彼の主張。
• 全体主義は「個人より集団最優先!国家の命令に従え!」みたいな独裁っぽいやつ。
• 共同体主義は、「個人も大事にしつつ、共感とか絆で自然に助け合う」って方向性。
サンデルの思想だと「個人の自由も尊重するけど、個人が支え合う倫理観も育てよう」ってのが大事。
だから、全体主義みたいに「一つの価値観に従え!」って強制するのとは全然違う。
• サンデルは「社会ってさ、お互いに責任を持ち合う場所でしょ?」って言うのね。だから、自由とか権利だけ主張して、コミュニティをないがしろにするのはNG。
• 自由だけ求めると孤独になって結局不自由になる、って考え。「絆があってこそ、みんなが本当に自由でいられるんじゃない?」って言うのがサンデル流の共同体主義。
• 「お前が自由に生きられるのは、コミュニティの支えがあるからだろ?」
って感じで、バランスと取る考え方だよ!
アメリカの行政府全体がトランプ大統領の直接の統制下に入りました。
これは「執行権は大統領に属する」(合衆国憲法第2章1条1項)という条文を文字通りに解釈し大統領の権限を拡大するものです。
大統領が行政府に対する唯一の権限を有すると解釈しています。(単一執行府理論と言います)
単一執行政府理論は以前から大統領移行プロジェクト2025で提案されていたものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%882025]
プロジェクト2025の進捗状況はこちらで確認することができます:
https://www.project2025.observer/]
どこにもリーダーシップがみられないが?
確かに、石丸氏のスタイルを「リーダーシップ」と評価するのは難しいですね。リーダーシップとは本来、「チームをまとめ、目標に向かって成果を出す力」 を指しますが、石丸氏のこれまでの言動を見ると、むしろその逆の要素が目立ちます。
• リーダーは対話を通じて結果を出すべきなのに、結果的に何も成し遂げず辞職
• 「スピード感が売り」と言いながら、何も動いていない
• 言葉と行動が矛盾しており、実際のリーダーシップは発揮されていない
• 都知事選でも具体的な政策を示さず、「課題解決のプロセスを重視」と抽象的な発言
• リーダーシップを発揮するには、チームに明確な方向性を示す必要があるが、それが欠けている
石丸氏の言動を見る限り、彼の行動は 「強いリーダーシップ」ではなく、「独善的なマネジメント」 に近いですね。
本当のリーダーは、対話を通じて人を動かし、目標に向かって組織を前進させる ものですが、石丸氏の場合、対話を拒否し、敵を作って対立することに終始 しているため、むしろ組織を停滞させる要因になっています。
このスタイルを「リーダーシップ」と評価する人がいるとすれば、それは「独裁的なリーダーシップ」や「炎上型のリーダーシップ」に魅力を感じる人だけでしょうね。
結局のところ、あの手のDQNパリピ集団暴力礼賛コンテンツは、独裁体制の礼賛か犯罪組織のプロパガンダにしかならない。
皮肉なことに、そういったコンテンツから生まれたゲロ以下の集団の餌食になるのは、そうしたイケメンコンテンツを持ち上げてる女や、そういったコンテンツに金を出してるアホ投資家どもなのだ。
マスゴミがギャーギャー喚いて、こういった連中に被害者ヅラさせるのも、要するに今後もバカみたいに金を落とせというわけだ。
こうしたコンテンツを最初に押し付けるための最も悪質な洗脳コンテンツが、あの戦隊ものだ。
ああいうコンテンツの悪影響で、日本の糞ガキは子供のころから、そうしたパリピコンテンツを当然のものとして受け入れさせられる。
日本のクソガキは、所詮は大したこともできないビビりばかりだから、やれることと言えば精々が陰湿なイジメくらいだが、これがアメリカみたいな蛮族の国に輸入されると、破壊的な影響力を発揮する。
今のアメリカの産業の何割かは、戦隊ヒーローなんて輸入したツケともいえる。
いつまでもバットマンだのスパイダーマンだのだけ持ち上げていれば、あそこまでの惨状にはならなかったろう。
まあスパイダーマンは、晴れてパリピコンテンツの一部に吸収されたわけだし、バットマンは金持ち男礼賛映画で、要するに、自分たち権力者のクソガキだけ、ああいう悪影響のないコンテンツに誘導しているわけだ。
日本はチキン国民だから、大した悪影響が表面に出ないと騙されて、アメリカみたいな国に輸入すると、ああいうことになるわけである。
実際には、日本人の精神的環境は、最悪の状態にあるのだが、怖くて自殺もできないのが日本人だ。
それでも相当死にまくってるわけだが。
大体、イジメられて一番惨めな状態になるのも、そういうコンテンツが好きで洗脳され切ってるガキだ。
集団が正義と洗脳され切ってるから、その集団にどんな理不尽やダーティワークを押し付けられても従順に従うしかない。
そういう子供が、親から金を盗んでもカツアゲされたり、自分の彼女をDQNに差し出してレイプさせたりするのである。
そういえば、サッカー選手の学生がイジメられた挙句、自分の彼女をレイプさせた事件をマスゴミがいじめられっ子ディスのために拡散していたが、どうせイナズマイレブンだのベイブレードだのをありがたがってたガキに違いない。
そんな自分たちが作り出したクソガキを利用して、他のイジメを正当化し、イジメられた側に問題がーとやるのが連中の手口だ。
当然イジメのターゲットは、むしろ大人しくて気がやさしい連中から選ばれるか、連中が工作で無理やり生み出すのである。
孤独なヒーローが好きなロンリーボーイは、イジメられても一円だって渡さないのである。
まあ、それでもアメリカのそれが日本のそれよりもマシな点は、アメリカのウェイ系映画は、本気で仲間割れするところである。
あの手のプロパガンダでは、主人公たちは絶対的な正義で、みんな同じようなことを考えて同じような理想を持っていて当然、それを共有できない奴はみんな悪だとされる。
ジャンプ漫画とか、和気あいあいと仲間で慣れ合いをしていても、なんだか空気が張り詰めていて悪いのはそのせいだ。
あいつら、お互いの思想や理想や信念の違いとか一切認めず、普通に遊んでいてさえお互いの思想を監視しあう。
それでしょっちゅう疑念みたいなのを抱いては、誤解だったり、より思想性が強いことに感激して友情()を確かめ合う。
ああいうマンガに毒されてる奴らが、戦争とかになると、異常な思想警察になって、真っ当な批判も封殺し、滅亡に向かってひた走るのである。
そういう連中に限って、思想性という批判が好きだから、わざと使ったわけだが、大体、思想性思想性言ってる奴の方が、やたら不寛容で、価値観の違いを認めない。
というのも、自分とは違う思想の相手を全否定するための言葉になりやすく、この言葉自体が、アカの工作員のプロパガンダ言語レベルの代物になりやすい。
こういう言葉を連呼する輩の考えは、思想性が強いと思われたくなければ、世間(マスゴミ)が、その時その時の都合で持ち上げる思想以外の思想を語るな、ということである。
こういう風潮の結果が、実際は内心どうでもいい、むしろ不快にさえ思っている思想を、表向き支持して、称賛を得て、自分の都合で他人をけしかけようとする小独裁者が乱立し、小集団がたくさん生まれて、その行く末が、アメリカのような少数分裂の結果の、無政府寸前の治安状態だ。
アメリカ人は行動的だから、そうやって表向きに噴出しているわけだが、日本ではもうとっくの昔から、マスゴミのためにマスというものが消滅し、嗜好性の先鋭と多様化が起こっている。
集団というものを強くすると、全体においては、むしろ、一つの強力な組織なんてものは消滅し、無数の独裁者と小集団に別れるのである。
マスゴミのような、薄く広い情報媒体からの影響力が強いのは、むしろ小集団に属さないロンリーウルフなのだが、マスゴミというもの自体が、無数の小集団により利権の奪い合いであり、こうした連中が好き勝手に物を作ると、こうしたロンリーウルフを侮蔑し、排除することになる。
そうした独裁小集団のリアルにおいては、そうしたロンリーウルフこそ邪魔だし、結局のところ、ロンリーウルフは、他人の影響を受け難くて、盲目的には従わないからロンリーウルフなのであり、リアルにおいて他者からの情報が少ないために、マスゴミの情報に依存する傾向があっても、その情報は批判的に扱われやすく、洗脳され切らないからだ。
現実に小集団に所属する者は、あらゆるメディアからの情報より、現実に属している集団の情報と命令を優先する。
ネットで陰謀論がバカにされてるからって、自分の属しているグループ内での陰謀論の内容を否定する奴は、その集団から”お仕置き”の対象になるだけだ。
仲間とか集団という存在を大きくすればするほど、そのお仕置きへの恐怖は増大する。
身近な人間や身内でさえ信じるな、テレビだけ信じろ、という風に。
マザコンとか家族に従う子供というのは最悪の存在として描かれるし、マスゴミの報道する犯罪は、いつも家族のせいでおかしくなった犯罪者ばかりだが、現実の犯罪のほとんどは、むしろ家族に暴力などを振るって追い出され、ヤクザ以外に行くところがなくなった奴によって行われる。
片親や虐待など、家族側に問題があるパターンもあるが、たいていの場合は、マスゴミのプロパガンダに悪影響を受けまくって、家族を蔑ろにすることを覚えた不良である。
自分たちで叩きまくらせておいて、世間で叩かれるようになると見るや、途端に虐待してる母親も~みたいなドラマを作り出す。
母親が虐待するダメな存在という印象は、同情するように見せかけて植え付けまくってるわけだが。
現実に虐待する家族なんてのは、マスゴミ周辺には五万といても、他には殆どいないにも関わらずだ。
だが結局のところ、マスゴミも、人間の顔をして洗脳する以上、ある種の人間、マスゴミによく出る人種については美化しないとならない。
その結果、マスゴミがどんなに自分たち以外を信じるなと洗脳したところで、マスゴミによく出るような人間が、そいつの側にいると、途端に小集団が形成され、マスゴミの情報はシャットアウトされる。
結果、タレント的な人間は、タレント的な人間同士で徒党を組み、周囲の衆愚を扇動し、マスゴミの洗脳網から独立し、独裁小集団を形成する。
学校のヒエラルキーが、露骨にルックスによって形成されやすいのは、そのせいだ。
というのも、工作によって、わざと面白くなくさせることがある程度可能だからだ。
だから、連中の工作によって、連中以外に芸人みたいな奴らが生まれにくくなっているのである。
見てくれが良いだけの奴は、中身なんてない場合が多いため、大したことは出来ないわけだが、この工作を振り払って芸人みたいになれる奴というのは、相当頭が良いだろう。
一方でスポーツができるか否かという基準も作っているが、これは、いかにスポーツというものが、軍隊的でファシスト的で、簡単に人を操れる道具かということを示している。
彼女を提供させた奴らのように、連中がいかに醜悪でおぞましいかが、そこには表現されきっている。
あのスポーツの部活というものに入って、嫌な思いをしなかった者など居ないだろう。
そんなこともまともに見もせず、スポーツマンなんてものをチヤホヤするバカ女の末路が、肉便器だ。
少しでも人間性に目を向ければ、学校のスポーツマンなんてカスしかいない。
日本人がまともにスポーツをやれるようになるのは、成人してからで、学校の部活なんて、一番性格が最悪で暴力的な屑が占領している。
結局のところ、スポーツマンと付き合っていられる女というのは、人をブランドでしか判断せず、しかも現実に何が起ころうがすべて無視していられる自己満人形みたいな女だけだ。
一般ニュースのアナウンサーなんてのは、中身空っぽの人間ボイスロイドで、上っ面だけで良い印象を人に与える以外の何の才能もいらない職業だからだ。
大体、ちょっとでも考える知能があれば、無批判でニュースを垂れ流しにし続けることなんてできないわけで、アナウンサーというのは、積極的に頭の中身が空っぽであることが要求される職業なのである。
アメリカなんかでは、しょっちゅうアナウンサーがブチギレて放送事故を起こしており、向こうでは日本ほどサイボーグ化が進行してないのだろう。
まあ日本でも、思想性の強いアナウンサーは、ワイドショーとかには居るわけだが。
むしろあの連中というのは、放送事故も起こさずに、自分で言ったニュースに不満があれば、自分の意見を表明して、そのうえで場を取り繕って進行できるわけで、相当コミュ力も思考力も高い証拠だろう。
その真逆の存在が、ひたすらニュースを音読してるだけの普通のアナウンサーであり、アナウンサーというのは、全く真逆の二タイプが居るわけだ。
ワイドショーの、本当に頭のいいアナウンサーと、一般ニュース番組の肉人形を一緒くたにアナウンサーとして括るから、政治の世界で民主主義が崩壊しているのである。
中身空っぽのロボットみたいな奴に限って、都知事になって成功している。
あいつらは、全て少数権力者の指示通りに動いてるだけのマリオネットだ。
逆に、ワイドショーのアナウンサーが人気を得ることは殆どない。
彼らは、アナウンサーとして一括りにした肉人形を、同じアナウンサーだから頭が良いはずと騙すことに利用されるだけだ。
というのも、自分で読み上げたニュースを、自分で批判するという構図自体が、視聴者から反感を持たれやすい。
このアナウンサーは、自らの立場を利用して、自分の思想を宣伝している、卑怯だ! というわけだ。
実際に卑怯な宣伝工作をしてるのは、そのニュースを描いた奴だけなのだが。
こういう衆愚を騙して、一方的に洗脳するには、対立する意見を横に並べてはいけないのである。
横に並べて公平に扱っているかのように見せかけながら、相手の意見だけを誇張し、曲解し、誤解を与えるように切り抜きして書く新聞記事の書き方こそ正答なのである。
ワイドショーのアナウンサーは、本当にニュース原稿を公平に読むため、その後に自分の意見を開陳したところで、視聴者はその反論を真に受けない。
むしろ、ニュースを自分で読むというアドバンテージの上に、後で自分の意見だけを言って終わらせる形式に、反感を抱くだけなのだ。
だからテレビ局というのは、”思想性"の強いアナウンサーを自由にさせておける。
自分たちの原稿さえ読む仕事をさせれば、あとは問題にならないからだ。
そして、連中を自由にさせておくことで、自分たちの公平さを捏造し、アナウンサーという職業に、ちゃんと自分で考えられる頭のいい人たち、という誤った印象操作をすることができるのである。
むしろ、実は、原稿を棒読みしてるだけの肉人形は、自分の意見を押し殺して、仕事に没頭しているプロフェッショナルと思われている。
先日、友人に勧められ『機動戦士ガンダム』をみた。
知らない人だったら、この名前を聞いて拒否反応がでるかもしれない。
でも、僕も始めこれを聞いて拒否反応がでたが、意外と可能性を感じるいい作品だった。
まず、僕の自己紹介をする。
サイド2 ハッテに住んでいる。
ジオンは戦後 スペースノイドの盟主を気取っているが、ご存じの通りハッテは地球連邦寄りだ。
それを兵器にするために皆殺しにしたジオンを許せるわけがない。
でも、人を殺さなかった。
今は自治権も与えず、税金も高く、さらには人を殺すジオンの独裁だ。
こんなことを本国で書いたら憲兵にマークされてしまうが、連邦ネットワーク内の増田なら安心だろう。
さて、『機動戦士ガンダム』はサイド7に住んでいるトミノとかいうアニメ監督が作った。
サイド7はジオンから最も遠く、戦前はルナ2にも近かったから連邦関連の人が多く、戦後も連邦寄りだ。
なによりもシャアによる空襲を経験しているから、多くの住人はジオンを恨んでいる。
このトミノ監督はレトロフューチャー系のロボットアニメが作風で、20世紀の古い感じのテイストなんだ。
『機動戦士ガンダム』は史実を下敷きにしたIF戦記物なんだが、リアリティよりもこのレトロフューチャーテイストを選んでいる。
スマホもないし、妙に四角張ったモビルスーツのデザイン、そして過剰な作画崩壊(20世紀はよくあったらしい)演出など見る人は選ぶと思う。
まず、史実では連邦のV作戦で作られたガンダムをシャア・アズナブルが強奪して、連邦のテクノロジーをリバースエンジニアリングしてジオンの勝利に貢献したでしょう。
ガンダムはジオンのシンボルみたいなもんだけど、この作品では連邦のシンボルになっているんだね。
ここは、シンボルを無力化する意味ですっきりした。タイトルにもガンダムと付けているが、ジオンは敵だという作品のタイトルにしていることで奪い返してやったという気持ちになる。
強奪に失敗してから、連邦が巻き返していく物語なんだが、多くの人物が実在の人物なんだけれども、主人公は架空なんだよね。
アムロ・レイという少年がガンダムに偶然乗り、何度もピンチを潜り抜けていく。
IF戦記物だけでなく、このアムロ少年の成長譚とだけみても面白い。
何で子どもなんだよ。とか、子どもがモビルスーツに乗ってシャアを撃退できるわけないだろっていうツッコミはわかるが、これは少年が主人公になるレトロフューチャーロボットアニメの様式だそうだ。
ここからは、もう少し突っ込んだネタバレになるので、ネタバレ避けたい人はここで回れ右をしてほしい。
そしてシャアもニュータイプとして覚醒をして、アムロとシャアの確執へと発展していくんだ。
君たちならニュータイプという言葉を聞くとガンダム以上に拒否反応を催すだろう
だか、『機動戦士ガンダム』ではこのニュータイプを新たな解釈をしているんだ。
アムロとシャアの間にララアという少女が登場するんだが、ララアとアムロは一瞬の間にお互いを理解をするんだ。
選民思想のためのニュータイプじゃなくて、宇宙に出て人は遠くの人と誤解なく差別なく分かりあえる。
そういう強いメッセージを感じた。
確かにジオンは人を殺したが、仮に連邦が勝利をして、連邦内でジオンを抑圧するような軍隊を作って、コロニーに毒ガスを撒くとか逆のことをしてやろうと思ってもそれは違うよね。
皆人間なんだよと。
だから、ジオン、反ジオンの二元論を越えた反戦アニメだと感じたよ。
あと、少々のツッコミはある。
シャアが目立ちすぎる。
メインキャラでは数少ない実在の人物なのだが、監督はシャアが好きなんじゃないかというくらい優遇されている。
まあ、シャアは死亡しているので(生存説を唱える陰謀論はあるがwww)好き勝手出来るということもあるんだろうけどね。
逆にシャアの盟友であるシャリア・ブルはちょい役ですぐ死ぬという冷遇っぷりだ。生死が現実と逆転してるのは意図的なのかな。
あと、連邦のエースパイロットのセイラ・マスも出てくるんだが、これがシャアとの兄妹ってことになっている。
実際陰謀論で、ジオン・ダイクンの遺児で生き別れた兄妹説みたいなのがあるけど、クソヤバ陰謀論を引用するのはちょっと萎えたかな。
ちょいちょい実在の人物が出てくるので、一年戦争史詳しい人なら唸るかもしれないね。
先日、友人に熱烈に勧められて観た「機動戦士ガンダムジークアクス」ですが、正直なところ、予想を大きく裏切る内容でした。そもそもこの作品は聞き慣れないタイトルだったので、「本当にガンダムシリーズなのか?」と疑問に思っていたのですが、実際に視聴してみると、制作スタジオが違うのかと思うほどアニメーションのタッチやメカデザインが独特でした。ストーリー展開やキャラクターの立ち位置も、一見すると混沌とした様子で、ガンダムらしい「戦争と人間」のテーマを扱っているのかさえ怪しく感じるくらい。とはいえ、その奇妙な雰囲気がかえってクセになる部分もあり、なんとも言えない魅力を放っていました。
まず気になったのは主人公の存在感です。名前は「ルドヴィカ・ラインホルト」というらしく、これまでのガンダム主人公とはひと味違う雰囲気を持っていました。ルドヴィカは、連邦軍でもジオン軍でもない第三勢力「ダイブレイカー」に所属している少年兵という設定らしいのですが、登場初期はやたらと傲慢に見えました。いきなり敵軍への突撃命令に背くシーンもあり、「その行動理由がよくわからない」と視聴者を混乱させる展開になっていました。しかし、その背後には彼が抱える謎の過去や、自らの出生の秘密が複雑に絡んでおり、やや強引に感じる面もある一方で、どうにか物語を引っ張ろうとする意欲は伝わってきます。
一方、タイトルにもある「ジークアクス」というモビルスーツ。これがまた不思議な機体で、外見はガンダムタイプというよりは、どこか昆虫を思わせるようなフォルムなのです。脚部が二本ではなく四本あり、しかも戦闘時には可変してスラスターの噴射角を自在に変えられる、という設定。宇宙戦よりも地上や低軌道での戦闘を想定しているらしく、高速移動と瞬間的な方向転換を売りにしていました。ただ、パイロットの負担が大きすぎるという問題点も作中で度々指摘されていて、たびたびルドヴィカがコックピット内で意識を失いかける様子が描かれています。こうした演出からは、「ジークアクスは強力だけれど、簡単には使いこなせない代物」という図式が伝わり、物語中盤の盛り上がりに一役買っていました。
物語そのものは、地球連邦が支配するコロニー群に対して、新興勢力であるダイブレイカーが独立を宣言するところから本格的に始まります。しかし、その独立戦争の理由が曖昧で、「単に連邦が独裁的だから反旗を翻す」というだけではなく、ダイブレイカー内部にもさまざまな思惑が交錯しているようで、正直、一度見ただけでは全貌をつかみきれません。特にダイブレイカーの代表者とされる少女「イリサ・エルレイン」は、表向きには平和のための独立を唱えつつ、その裏では軍閥同士の権力闘争を扇動している節があるなど、二面性が強調されています。これが作品世界に深みを与えようとしているのか、単に設定過多なのか、微妙なバランスなのが面白いところでした。
また中盤から唐突に挿入される「宇宙クジラ出現エピソード」には驚かされました。シリーズの流れとは関係があるのかないのかよくわからないままに、コロニー間を漂流する巨大クジラ型生命体が現れ、それをめぐって各陣営が「捕獲すべきか、保護すべきか」で対立を深めるという謎の展開。映像的には迫力があり見応えがあるのですが、これが戦争ドラマの軸であるはずのストーリーとどう結びつくのか、視聴していて困惑せざるを得ませんでした。ただ、作中で「ジークアクスの駆動に必要な特殊エネルギーをクジラが体内に保持している可能性がある」という説明が出てきたので、無理やりではあるものの、一応の整合性は保たれているようです。
キャラクター同士の会話も独特でした。あまりに技術用語や歴史設定の単語が飛び交うので、台詞の半分ほどが理解できないままに進むことも。視聴者にとっては、よほど作中世界にどっぷりとハマるか、あるいは設定資料集を手元に置きながら観るくらいでないと、把握しきれない部分が多そうです。ですが、この「難解さ」こそがコアなファンを引き込む要因にもなっているようで、ネット上では考察や解説が盛り上がっているのを見かけました。特に「ジークアクスとニュータイプの関連性」については多くの議論があり、作中に直接的な言及は少ないのに、ファンの間では「ジークアクスは人型の概念を超越した完全なニュータイプ専用機」という仮説が広まっているようです。
総じて「機動戦士ガンダムジークアクス」は、ガンダムシリーズの“王道”を期待して視聴すると面食らうかもしれません。しかし、その独特の世界観と突飛な設定、そしてキャラクターの妙な掛け合いがクセになり、気づけば最後まで見入ってしまうような中毒性があります。戦争の悲哀を深く描くというよりは、むしろ奇抜な設定を詰め込んだ「実験作」のように感じられました。いわゆる名作とは言い難いかもしれませんが、そのぶっ飛び具合を楽しむ余裕がある人には、ある種のカルト的魅力を持った作品と言えるのではないでしょうか。
以上が、私が「機動戦士ガンダムジークアクス」を観て抱いた感想です。あまりにも出鱈目な展開の連続で、正直言って「何なんだこれは?」と苦笑してしまう部分が多数ありましたが、一方でこの混沌をどうにかまとめあげて最終回に向かおうとするエネルギーには感服しました。もし続編が作られるとすれば、一体どんな狂騒的な世界がさらに広がっていくのか、興味半分、不安半分といったところです。ガンダムシリーズの中でも異色中の異色作品といえる本作、機会があればぜひ一度、その謎めいた魅力に触れてみるのも悪くないかもしれません。
世界中のメディアがイーロン・マスクを天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新、宇宙事業への投資、さらにはSNSプラットフォームを買収して世界の言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境を一方的に変革しようとする独善性が垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法に正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。
特に、彼がSNS上で見せる軽率な発言は、私の中にある嫌悪感をさらに増幅させる。刺激的なツイートで株価や暗号通貨の相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。
テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷な労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいないか。企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益とスピードのためなら人間性を犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。
さらにツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制や言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場やユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。
イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存の常識を打ち破り、火星移住やハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会のルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ「自分だけが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。
なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由の範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度や資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分はあくまで一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。
また、彼のコミュニケーション・スタイルがしばしば相手を嘲笑するように感じられることも、嫌悪の理由だ。議論や批判に対して真摯に向き合うより、自分の正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さらに対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴な言論空間を助長しているようにさえ感じる。
もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアとSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激」であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。
私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているからである。テスラの工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的なリストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。
「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示と自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会が進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌と犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。
彼のメディア露出やSNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言のひとつひとつが見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代の発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身が意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存の常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。
こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである。
また、彼のビジネス戦略や資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつで暗号通貨の価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスクを承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれる一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外からは判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか。
イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から「嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在が絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事を推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。
私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分のビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なく噛みつき、さらには軽率な一言で世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。
もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考が投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。
だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしまう可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対の存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定の価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。
最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見が存在することこそが社会を前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判的視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功とカリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれてしまうかもしれないのだから。
私は、イーロン・マスクの存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任な発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。
イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーンな未来に希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類の歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれる軋轢や混乱、そして彼自身の傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たちの社会が本来持つべき「相互理解」や「多様性の尊重」が欠けているように思えてならない。
だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人の感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき、社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的な問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか。
私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会の未来は微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由を自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。
私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たちの社会の抱える矛盾や欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。
最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人の価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情も社会にとっては大切な警鐘であり、そこから生まれる議論や検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新の光と影を直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たちに葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会の未来にとっても重要なのだろう。
イーロン・マスクは言論の自由の擁護者を自称していますが、その行動は矛盾に満ちています。彼はXプラットフォーム(旧Twitter)を「世界の公共の場」と位置づけ、言論の自由を最重要視すると主張しています[2]。しかし、実際には自身の意見に反する声を抑圧する傾向が見られます。
マスクは「検閲と引き換えに収益を得るか、あるいは言論の自由と引き換えに収益を失うか」という二者択一を提示し、後者を選ぶと断言しています[2]。しかし、この姿勢は彼に批判的な声に対しては適用されないようです。
彼の反ユダヤ主義的な発言に対して批判や広告撤回の動きが起こると、マスクはこれらの企業を「言論の自由を侵害する最大の抑圧者」と非難しました[1]。これは、企業の広告出稿の自由を制限しようとする試みとも解釈できます。
さらに、マスクはメディア監視団体Media Mattersに対して「熱核」訴訟を起こすと脅迫しました[1]。これは、プラットフォームの問題点を指摘する批判的な声を法的手段で封じ込めようとする動きと見なせます。
マスクは「法の範囲内での言論の自由」を主張していますが[2]、実際には自身に都合の良い「言論の自由」のみを擁護しているように見えます。彼の行動は、真の言論の自由の理念とは相反するものであり、むしろ自身の権力を利用して批判者を黙らせようとする独裁的な傾向を示しています。
このように、マスクの「言論の自由」に関する主張と実際の行動には大きな乖離があり、彼の真の意図が権力の維持と自己利益の追求にあることを示唆しています。
Citations:
[1] https://www.businessinsider.jp/post-278548
[3] https://mainichi.jp/articles/20220616/k00/00m/020/137000c
[4] https://note.com/kind_crocus236/n/n42cea5e06d74
[5] https://www.tokyo-np.co.jp/article/222003
[6] https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN18D450Y2A410C2000000/
名前 | 享年 | 死因 | 備考 |
---|---|---|---|
李承晩 | 90歳 | 病死 | 独裁ののち失脚、アメリカに亡命。 |
尹潽善 | 92歳 | 老衰 | |
朴正煕 | 61歳 | 暗殺 | クーデターを起こして独裁を行う。腹心によって暗殺。 |
崔圭夏 | 87歳 | 老衰 | |
全斗煥 | 90歳 | 病死 | クーデターを起こして独裁を行う。退任後、収賄や虐殺などで死刑判決、のちに特赦。 |
盧泰愚 | 88歳 | 病死 | 退任後、収賄や軍人時代の虐殺などで懲役判決、のちに特赦。 |
金泳三 | 87歳 | 病死 | |
金大中 | 83歳 | 病死 | |
盧武鉉 | 62歳 | 自殺 | 退任後、収賄疑惑をかけられて自殺。 |
李明博 | (82歳) | 存命 | 退任後、収賄により懲役判決、のちに特赦。 |
朴槿恵 | (72歳) | 存命 | 在任中、友人による国政介入問題で弾劾・罷免され、懲役判決、のちに特赦。 |
文在寅 | (71歳) | 存命 | |
尹錫悦 | (63歳) | 存命 | 現職。 |
80歳以下で亡くなったのは暗殺された朴正煕と自殺した盧武鉉のみである。
民主化前は、そもそも不安定な軍事独裁政権であり、悲運とかそういう以前の話だろう。
文民政権(金泳三以降)で実際に有罪判決を受けたのは李明博・朴槿恵だけではあるし、
すぐに特赦を受けているのでずっと獄中のわけでもない。