はてなキーワード: ゼミとは
私はこの約十年間、市町村議会選挙・知事選挙・衆参院選挙を問わず、あらゆる選挙の投票先を、ランダムに決めている。
文字通りサイコロを使って(候補者が七人以上の場合はちょっと複雑になるけど)、とにかく自分の意志であるとかを介在させないようにやっている。
(一方で最高裁判事国民審査は全部バツを付けているがちょっとこれは別の話にしたい)
なぜこのようなことをしているのかの発端は、前の自民民主の政権交代劇の際に、「無党派層」というものの存在というか意義?について、考える機会があったからだ。
私は大学のゼミで、戦前の男子普選の時代に「無党派層」というものは勢力としてあまり認知されなかった、と学んだ。
(↑かなりはしょっているが、つまりそれらが育つ前に社会が硬直化し戦争に突入してしまったのと、地域社会や院外団活動の関係で○○党の支持をやめたら××党の支持者になるしかないみたいな短絡さがあったらしい。これも本題じゃない)
選挙権を行使する機会を得たばかりの私にとって、「無党派って一体、どういう立場なのだろう?」と常々考えていた。無党派って、本当に「党派」じゃないのか?みたいな。
報道、職場や労組、近所付き合い、フットサルやジムのサークル……もろもろの影響を受ける中で「無党派」というのはただ「選挙に行く気がないか、投票所の門をくぐった瞬間何かの党派に空気で入った人」を指す言葉でしかない。
党名を隠して政策だけでアンケートを取ると、共産党が一位になったという結果がどこかであったらしいが、しかしその結果を知ると、「共産党?うーんやっぱり自民党」みたいな行動を取る人がいるわけである。
あるいは単に「負ける候補者に入れたくないから都知事選では石原に入れるし、2009年の選挙では民主党に入れる」みたいな人もいる。
筋金入りの、自党が優位であろうが劣勢であろうが投票し続ける支持者をのぞいて、選挙に本当に「意志」を見出せるのか?その様な選挙が何十年と続いて日本は良くなっているのか?
良く分からない。その分からなさを理解するために、試しにやり始めたのがきっかけなのだ。
やり方は前述の通り、本当にランダムである。私の場合は選挙公報に番号振ってサイコロを使い決めるだけだ。
具体的な党名は出さないが、泡沫というか「無党派層」が入れなさそうな党に「入れることになった」(ランダムなのでこういう表現ができる)こともあれば、勝ち馬の議員に入れることになったこともある。
私の選挙区は、勢力があまり拮抗しておらず、ある党や議員が優位を保っている。この勢力を基準に考えると、数万票単位の優位さに、私の「ランダムな一票」が加勢するのか・抵抗するのかみたいな問題になってしまっている。
つまりランダム投票行動は選挙区によっても意義がかなり変わってくる。
日本ではなくアメリカになるが、前の大統領選挙でも、カマラとトランプの双方の選挙パフォーマンスを見るたびに支持候補を変える人々や、「隠れトランプ」(おそらく「隠れハリス」も)支持者など、
選挙活動にほぼランダムと言っていい影響を与える人が・・・言ってしまえば、「選挙に行く日の朝、最後にテレビかネットで見た顔の候補者の方に入れる」人が何百万人といるのだ。
私は個人的に、皆さんには、制度的に意味のない白票であるとか、「支持政党なし」のような党名ハックではなく(ランダムな投票先であれば仕方ないが)、
自分の意思を介さない、何か人為的ではない要素や乱数による「ランダム投票活動」をお勧めしたい。この活動が何万票という力を持った時に、はじめて「選挙」の意義や「無党派層」の価値というものがわかってくると思えるからだ。
そして議員が、「自分の存在が乱数の上の存在でしかない」ことを意識すれば、よりマシな政治活動を行うようになるのではないかとも思っている。そう考えながら、私は今後の投票にも臨んでいく。
大学のゼミで"差別とは何か"という話になった時に、でかい男子が提唱した
「筋肉モリモリの大男に対しては取らない威勢の良い・あるいは嫌味な言動」
という答えは、ざっくりながら中々良いラインだと思う。
映画とかで
「これはこれは。こんなに可愛らしいお嬢さんが⚪︎⚪︎だったとは」
また友人を失うかもしれない。
原因ははっきりしているのだけれど、それの帰責性が自分にあるのか相手側にあるのかが分からず(もちろん自分では自分に責めを負うべきところがないと思っているのだが(あれば治すし))、また、失いそうになっている。まァ帰責性の存否にかかわらず関係の維持は可能だとは思うが、これは後で検討する。
はてな匿名ダイアリーを初めて利用するのは、決してアドバイスや共感を得たいわけではなく、ただ文章に直す作業がしたかっただけなので、この文章に関しては一切の責任を負わないし、二度と思い出すこともない。
筆者は2002年生まれの現役の大学生で、一年、浪人している。関東出身。男。彼女はいない。いたこともない。最近オナホを買って心底がっかりした。冷たかった。東京の山手線の内側の狭い部屋で一人暮らししてる。社会科学系。専攻している分野が世間的にはマニアックなので、人との交流は少なく、一週間で会話することがあるのは先生(教授)と、バイト先の生徒や関係者など、片手で数えられる程度の人数しかいない。それでも、社会性を失いたくない(社会にアクセスするハードルを上げたくない)から身だしなみも整えてはいる。年がら年中オフィスカジュアルみたいなものを着て、いい酒が飲める店にいつでも入れるくらいの格好しか持っていない。もしかしたら自分がおかしい(もしや統合失調症でも発症しているのか!)のかと思い、精神科や家族に相談してみたものの、極めて正常ということらしい。彼らと相談する際によく耳にしたワードとして「時代だから」というのがあり、いささか疑問がありつつも、自分にもそう言い聞かせ、またそうするようにしている。なぜなら、理由は単純な方が良い。だけど、友人と自分は同じ時代を生きているし、同じ時代で育ち、同じ地域で、同じ中高で、同じ部活で過ごしたはずなのに、なぜ?
友人Aの場合
Aとは、本来であれば今年で10年超えの付き合いになる。Aは旧帝に落ちて私立大学に現役で進学した。たまさか、学部は違うけれど同じ大学に所属している。彼女はいない。チー牛という言葉が出始めた頃、漏れなくチー牛を自称していたが、そんなことはなく、月並みかそれ以上だろう。Aは、サークルに所属しており、友人と先輩と後輩がいる。Aが大学に入ってからは、「ちょっと変わった」先輩(男)のお世話をしていることを嬉しそうによく話していた。「ちょっと変わった」先輩の話というのは、おかしな行動や、服薬している薬の名前、就活の動向や、就労後の話など。確かに、「ちょっと変わっ」ていた。
書いていなかったけれど、筆者は大学院に進むので就活はやっていないし、大学院のあとにもその技能を評価してくれる機関があるので、レールは敷かれている(ただしそのレールは「完全に」壊れている!)。Aはそのことをあまり良く思っておらず、酒が回ってくると「お前はいいよな」といった風な言葉をかけてくれる。じゃあお前も俺と同じ孤独を大学の6年間とその後の人生をもって味わえ、とは言わない。分別があるから。
おそらく、Aには特殊な技能はない。英語も普通、スペイン語は自己紹介も忘れ、ゼミでは経済?に関してやっているらしい。人当たりもよく、声もデカいし、健康な、世間の求める「普通」が服を着たような大学生だ。そのため、「普通の就活」が必要だった。ただ、彼はそれをしなかった。
さっきの「ちょっと変わった」先輩の真似をして、大手とベンチャー合わせて10社くらい?しか受けず、結局小売大手に決まったらしい。この文を見ることはないだろうけど、おめでとう。体を壊すなよ。Aから聞いた話では、不動産大手の二次面接?に進んだがあえなくやぶれ、ベンチャーと大手の2つが手札にあった。そのことを聞いたのはAと今度失いそうな友人Bと、共通の友人Cが同席しているときだった。
大手は、CMでもよく流れてる企業。我々の地元だったらみんなが口を揃えて納得する企業だ。業績も悪くはないし、払いもそこそこ。いいじゃないか。
ベンチャーは、SIer派遣会社。「独自のシステム」をもとに「円滑な」派遣を行っているらしい(又聞きなので詳しくはわからない)。報酬は基本給と地域制限付きの家賃補助とボーナス代わりのストックオプションか新株予約権付きのストックオプション。新株予約権!?
悩む理由がわからねぇ~!!!マジで!!ポンジスキームもいいとこだろ!
仮に上場できたとして流通価額の低いゴミ株なんか持ってたってなんの役にも立たねぇし、最終的に株式合併して希釈されるのがオチだ。しかも持株会で買わされるのは目に見えてる。人材派遣会社の株式の価値が上がる要因ってなんなんだ、このAI時代に。
もちろん、Aを引き止めた。大手に行ったほうがいいともそのまま伝えた。が、彼は納得しなかった。彼の言い分は、「社長の人格に惚れた」、「成長する見込みはある」、「自分を認めてくれた」、「頑張りたいと思ってる」など。
今は、頑張れるのかもしれないし、きっとできる。でも1年後は?3年後は?10年後30歳を超えたお前はなんの技能も持たずに転職して別の業界に身を投じたいと「現時点で」考えているのか(そういう趣旨のことを言っていた)?という言葉がでてしまった。言ってしまった。
ああ、言ってしまった。言っちゃだめなのに。本当のことは話しては、いけない。
Aはしばらく考え込み、我々は、楽しい話をし、酒をたくさん飲むことになった。
そのあと電車で各自帰路につき、帰り道が同じAと筆者は散歩がてら話をした。桜の良い季節だった。
そして、AからAの意中の女子と上野に行く計画を聞いた。西洋美術館かなにかに初デートで行くとのことだった。桜の季節の上野の初デート?コロナ解禁のタイミングだったため、混むのは目に見えている。だから、助言をした。
「絶対混むから展示が終わったら速やかに上野を離れろ。飯を上野で食おうと思うな。歩かせたら文句が出る。散歩しながら店を見つけようとするな。地下鉄で移動しろ。バスっていうのも悪くないな」と。さっきも言った。これは、言ってはいけない。言っちゃいけなかったんだ。言い方が悪かったのか?それも、そうだ。とにかく、悪かった。
Aは怒ってしまった。曰く、筆者の「正しい価値観(原文ママ)」を押し付けてくれるな、ということだった。本当に、そうだろうか。
別に、筆者の助言を聞くのはAの義務ではないし、また、それをAが実行に移さなかったところで、筆者は何も思わない。聞き入れられなかったのか、と思うだけで、しかもそれは筆者の自由だ。Aの気にすることではない。さらに言えば、仮に筆者の予想が的中したとしても、それはそれで初デートかくあるべきというやつなのだろうから、それも、味かもしれない。苦みかもしれないが。
Aは筆者に怒りながら言い訳を始め、筆者はそれに真っ向から対応してしまった。いかんせん、二人共酔っていた。Aはそれを認めなかったが(己の適量というやつを知らんのか?)。
そうして小一時間ほど深夜の野外で大声で話し合ったが、トイレに行きたくなった。当たり前だ。春の夜は、寒い。
筆者が「俺、帰るから。もしまた同じことを聞きたくなったら電話してくれ。必ず同じ内容をもう一度言ってやる。何度でも、だ。今日はもう、寒くてトイレの限界だ。」と言ったら、Aは「これは喧嘩別れじゃないんだ!もういい年なんだし!」と漫画で見たような捨て台詞を吐いて帰っていった。
その後、彼からの連絡はない。こちらからも、電話はしない。きっと、恥ずかしいだろうから。風の便りで、行方は知っている。
もう分かっていると思うが、筆者は伝えてしまうのだ。論理的に考えれば当然の帰結や、大人かくあるべき社会人かくあるべきという規範から導かれる「正しい価値観」に基づいてした思考を、伝えてしまうのだ。言い過ぎてしまうというよりも、簡潔に伝えてしまうのだ。言ってはいけないのに。
もちろん、言わずに流すこともできる。今っぽく「へぇ~ そうなんですね~なるほど~いや~わかんないです~笑」みたいに言うのも可能だ。ただ、それは可能だ。友人が痛い目に会おうとしているところに、なぜ、助言してはならないのか。痛みに慣れるのは、あまりよくない。余計なお世話だろうし、たしかに、余計なお世話だ。でも、友人である俺が言わなければ誰が言うんだ?親か?上司か?先輩か?それとも後輩?はたまた八奈見さんみたいなマニック・ピクシー・ドリーム・ガールか?八奈見さんだったら言ってくれる。ケアも、ある。でも、八奈見さんは、現実には、いない。そう、いない。
きっと誰も、言わない。なぜなら、波風が立つから。
彼らからすれば、筆者は「不和を生み出す存在(原文ママ)」らしい。これを居酒屋で言われたときは泣いちゃうかと思った。もう、22の大人なのに。酒が入ってなかったら泣いてたんじゃないかな。それくらいに、悲しい。嘘は、つかない。
多分、彼らからすれば人から何かを言われることそれ自体が、加害性を含むものなのだ。そして筆者は、その意図がないにも関わらず、きっと加害性に溢れている。それは怒られることとか褒められることとかは一切関係ない。自分の世界とそうじゃない世界の区別が全然ついていない。自己免疫性疾患みたいなもので、感受性と言う名のレセプターが過剰に反応しすぎるんだろう。ガラス症みたいな若者で現代は溢れている。そしてそうじゃない奴は、加害性を一見伴わないフェードアウトをされて(実際は加害そのものだ!)、彼らの社会から排除される。確かに、彼らからすれば筆者は脅威で、筆者からしても彼らは異常な世界に住んでいる。関わりはなくても良い。でも、同じ時代を生きているし、同じ時代を生きていた。
「過去に見捨てられたのではなく、過去を見捨てたのだ!」という悪役のセリフがあったような気がするが、筆者は明らかに過去に見捨てられている。過去を捨てはしないが、過去が筆者を排除しており、またそうせざるを得ないのだろう。筆者は過去を懐かしむこともできず、自分の頭の中で改変されたナラティヴを都合のいいように楽しむ不誠実なことを実行する直前のところまで来ている気がする。防衛反応だったとしても、やっちゃだめなことはやってはいけない。でも、やるしかないかもしれない。やってはいけないんだけど、やるしかないかもしれない。許してくれなくてもいい。自分を許す権利は自己にしか存在しないし、また、そうあるべきだから。いや、そうでなくてはならない。俺は俺自身を許す。必ず、必ず
恥の多い生涯を送ってきました。
私には「女性の性欲を満たすセックス」というのが全くわからないのです。
私は大手ガス会社の子会社に勤務する父親と、大手ガス会社の子会社元社員で専業主婦の母親の間に長男として生まれました。
私は幼少期から歯並びが悪く、歯科医にて歯列矯正をすすめられたのですが、その際に上下4本の抜歯の必要があることを告げられました。
母親は「せっかく生えた歯を抜くなんて…」「どうせ歳を取ったら抜けるのに子供のうちから抜くなんて…」と難色を示し、最終的に「歯並びなんか気にならないくらい可愛いのよ」という言葉により私の歯列矯正は立ち消えになりました。
また、私は父方の祖父母と同居する三世帯家族であり、祖父が建てた家に住んでいました。
モダンな住宅と異なり、木の柱、畳、古い土壁で暮らす私は幼少期から鼻炎に悩まされました。
この鼻炎と歯並びの悪さにより、私の顔面は女性の子宮を刺激しない造形となりました。
思春期になると「成長期」という男の人生の第三の分岐点があります。
ちなみに第一分岐点は顔の造形、第二分岐点はドッジボールやサッカーなどの学校でのスポーツです。
第一分岐点、第二分岐点とloser に分類された私は最後の逆転ポイントでも敗北しました。
I am a loser.
ちなみに、第一分岐点、第二分岐点でwinnerだったイケメンでスポーツのできる同級生が第三分岐点でloserとなり現在でも独身という事象は男の人生の厳しさを体現しているでしょう。
私はそれ以来、ちんちくりんで華奢な身体に口ボゴな顔面の頭部を乗っけて生きてきました。
「大東亜帝国群の大学」から大手ガス会社の「子会社」に就職した微妙なスペックの冴えない男の息子ということもあり、私は容姿以外の能力も低かったのです。
中学受験に失敗し、都立高校から一橋大学を受験するも不合格だった私は冴えない容姿の早稲田大学の学生となりました。
話が逸れたのでセックスに戻りましょう。
私は高校1年の終わりに初めての彼女ができ、高校2年へ進級する春休みに初めてのセックスをしました。
2人目のセックスの相手はサークルの同級生で、大学1年の秋ごろに付き合い、付き合い始めた数日後にセックスしました。
3人目の相手は社会人になってから付き合ったゼミの後輩で、付き合ってから最初の土日に行った小旅行でセックスしました。
現在の妻です。
やはり付き合って最初の週末、私のアパートに泊まりに来た際にセックスしました。
私は風俗に通ったことがなく、今まで述べた4人の女性としかセックスをしたことがありません。
お分かりでしょうか。
私のセックスは女性にとって「パートナーとの関係性を継続するためのセックス」でしかなく「性欲が満たされ女性としての悦びを感じられるセックス」ではないのです。
私の大学時代の学部の同級生に、身長が179cmで歯並びが綺麗でキリッとした二重瞼が特徴の男がいました。
彼は東京花火というよさこいサークルに所属する真面目で明るくセックスが大好きな健全な大学生でした。
私の3人目の彼女は私と付き合う前、この男と飲み会で出会ったその日にセックスをしました。
この男には彼女がおり、その飲み会でも彼女の話をしていたそうです。
それなのに、彼女は付き合ってもいない彼女持ちのこの男とセックスをしたのです。
私と彼女の関係が破綻したのは、付き合ってしばらくしてからそのことを私が知ったからでした。
彼女は私と付き合う前、「付き合ってない人とはセックスしない」と言っていました。
しかし、実際には付き合っていない先述の男にセックスを許していたのです。
私には「付き合っていない状態でのセックス」を許さず、件の男に許したのはそれが「性欲が満たされ女性としての悦びを与えられるセックス」だったからです。
私に許さないのは、私とのセックスが「関係を継続させるための義務」であり自発的なものではないからでしょう。
そうであるなら「付き合っていない時にするセックス」は意味を持たない苦痛なだけのものです。
私はよさこいイケメンの下賜品に時間と金を無駄にしたのでした。
それ以来、私は妻含め多くの出会った女性と「付き合っていない状態でセックスする」ということに心血を注ぎました。
しかし、私はグッドジーンズではなくグッドダッドと見做されたので、その努力は水の泡と消えました。
しかし、その幸せは砂で作った細い柱の上に立っている脆いものなのです。
妻は私に「付き合っていない状態でのセックス」を許しませんでした。
もし、それにもかかわらず妻に「付き合っていない状態でのセックス」を許した相手がいたとしたら。
私の最愛の妻は「どこかのイケメンの下賜品」「セカンドストリートで買った型落ちの家電製品」になります。
私は処女厨ではないので。付き合った状態でセックスをした相手(元カレ)が何人いようと構わないのですが、付き合っていない状態でセックスをした相手(倫理や貞操を突き破るイケメン)がいたことを許すことはできないのです。
妻が学生時代の話(特に大学)をすると私は会話を濁して話題を変えます。
妻が学生時代の同性の友人との食事や飲みに私を誘ってきても、私は絶対に行きません。
それは、私の最愛の妻がどこかのイケメンの下賜品であるということを匂わせるあらゆる瞬間を人生から排除したいからです。
ちなみに、タイプではないが性格や安定性に惹かれたパートナー男性のことを女性が嫌う瞬間があるそうです。
それは排卵期。
排卵期になると女性は自身の性欲を満たすようなグッドジーンズに惹かれるそうです。
悲しいですね。
私は女性にとって一番大事なタイミングで女性から愛されない男なのです。
話が長くなりました。
何が言いたいかと言うと、私は「千葉真一の息子」になりたかったのです。
私の両親の嫡出子ではなく、千葉真一の100番目の愛人の非嫡出子になりたかったのです。
なぜなら、男として女性から愛され幸せになるには私の両親の待望の嫡出子より、千葉真一が顔も名前も覚えていない100番目の浮気相手の息子に生まれた方が良いからです。
今はまだ生成AIが使い物にならないので大丈夫だが、概ね1年半後に地獄が訪れるだろう。
出力と理解度がチグハグなので卒論指導に困る、というのは非常に上澄みの意見だと思う。インフルで熱に浮かされていてもわかる。良い環境だよ。
大切なことなので強調しておきたいが、この悩みが出るということは、とても良い環境で研究されている、真面目で真摯な方なのだろう。頭がさがる。
こういった研究室やゼミに所属できた人は幸運だと思う。その幸運を活かすことなく、ただ漫然と生成AIを使うのはとても勿体無いことだとも思う。
https://anond.hatelabo.jp/20250203224000
とはいえ、地獄が訪れるのはこれからだ。今から準備しておきたい。
現状の生成AIは「(嘘を嘘と見抜ける人でないと)使うのが難しい」からだ。
数学の問題がどれだけ解けるか、というのはベンチマークとして使われているからで、実用的とは言い難い。
また、何が欲しいのかがよくわかっていないまま曖昧な内容を入れて、欲しい出力物が得られるほど、コーディング能力も高くはない。
話題沸騰中のDeep Researchも、何をどう調査したくてどんな限界があるのかわかり、かつ、それが正しいか確認できる人にしか使えない。
卒論指導の話題も、ある意味で「どうやってググればお目当てのソースコードが探せるか」だけに特化した学生が増えた、と類似の話題で現状の延長線上と言える。
(逆説的に、卒論レベルのコーディングで詰まる学生が出るということは、生成AIはまだ使い物になっていない、ということだ)
今の生成AI界隈で猛烈に進んでいることは、「アインシュタインにタイプライターを打たせるな」という状況だ。
アインシュタインの方がタイプライターを早く打てたとしても、秘書にタイピングさせた方が良い。
(絶好調なら)自分の方が絶対に上手くやれるが、まあ生成AIでもそこそこやるやないか、という人は今でも十分使えている。
その代わり、タイピングみたいに頭空っぽにしてやれていた息抜きの仕事がなくなって、常に自分にしかできないことを要求されるようになるわけだけど……
生成AIが使い物になり出してからが地獄だ。性能的には半年〜1年程度で到達すると思う。
そして、日本企業は予算のつかないポッと出のものに即応できるほど柔軟な裁量を持っていないので、導入が決定された次の半期からスタートになる。
(多くの日本企業の次の上半期に話題になり、下半期に検証が行われ、次の上半期に根回しが行われて、その次の下半期からスタート)
場合によっては、ソフトバンクのパッケージ導入、という形がとられても何ら不思議ではない。
そこで見られるのは、繰り返し繰り返し現場が苦渋を舐めさせられてきた、コンサルタントへの対応だ。
コンサルが有効に機能する現場を見た人もいると思うが、共通するのは「外部の権威を導入することで、スムーズに物事を運ぶ」ではなかっただろうか?
これ、「実現したいことは明確だけど社内政治でうまく行かねえからゴリ押ししたい」って、社内に主導者が居た場合で、コンサル主導ではなかったはずだ。
コンサル主導で迷走するのは、そもそも何をしたいのかも良くわかっていないし、何ができたらゴールなのかも定義できないからだ。
今後、何のビジョンも専門性もない数多くの管理職やゲートキーパーが、生成AIという専属コンサルタントを盲信するようになる。
現時点では「Grokはこう言っていた」とか「ChatGPTはこう言っている」という指摘の仕方をするのは馬鹿扱いされている。
情報が古いし、間違いもあるし、そもそも幻視(作話)するから適切な使い方ができない人にとっては使い物にならない。
でも、もう人類の大半よりは賢いし、コーディング能力も高く、辻褄を合わせるのも上手だ。
そして残念ながら日本企業の管理職は専門性が最も優れた人がなるわけではないので、管理職よりも専門性に優れて間違えない生成AIは生まれてしまう。
彼ら彼女らにとって、自分よりも賢く正しいことを言うのであれば、そこを区別するのは出力物の量だけになる。
今でも専門性を軽視し、人頭いくらでしか計算しない管理職は山ほどいる。
コンサルの意見を鵜呑みにし、まずはやってみようという軽い言葉で、大量の今後使わない仕事が生まれるのも良く見る光景だ。
それでもまだ現場が耐えられたのは、概ねコンサルもどブラックで、ゴリゴリ書類やらパワポやらを持ってくる超馬力を見ていたからだ。
あれだけクソミソに叩かれた電通が(叩かれる理由は同意できるし擁護はできないが)現場で一定の信頼が置かれるのは、彼らは絶対にケツを持ったからだ。
認めたくないが、そこには超人的な仕事量をこなすサラリーマンに対する畏敬の念があった。
それが、低コストかつ(人間に比べれば)即時回答する、コンサルタントが常に横につくようになるわけだ。
管理職は今後気軽に言い放つようになる。
「これ、生成AIが出してきたアイデアなんだけど、それぞれ資料ちゃんと作ってきてよ。Geminiにやらせればすぐでしょ。明日までね」
ある朝出勤前に、調査検索系の生成AIに「XX業界における現在のトレンドと、今後の展望、注力すべき事業分野についてまとめて」と指示を出す。
日経新聞では私の履歴書だけ読んで、職場についてコーヒーを淹れて自席に戻ったら、生成AIの結果に目を通して、事業分野の気になった点をピックアップする。
そして、部下にこう言えば良い。
「XXという事業分野が有望そうで、アイデア3つほど選んでおいたから、事業計画と取れそうな市場の規模、売上高と黒字化までのストーリー作ってきて」
何の誇張もなく、今でもそういうベンチャーは大勢あるが、極端に増える。
人当たりが良くどんなに酒を飲んでも酔わず、あたかもすでに儲かっているかのように皮算用をしてみせる資金調達兼ビジョナリーと、
生成AIを始めとするあらゆる自動化ツールを使って事業を形にするワンマンアーミーとのタッグでのベンチャーが急増すると思う。
(実際には「バグだらけだけど一応動くプロトタイプ」を生成AIで作って資金調達に成功し、そこに群がるギークたちがAIが書いたコードを延々メンテ&デバッグする光景だと思うが)
でも、既存の日本企業はそんなに組織体系を大きく変えない(変えられない)ので、それを実施するのは部下になるのだ。
日本企業では不思議なことに、資料作成者が資料に対して責任を負う。
その資料を採用した人も、その資料を採用して方針を決めた人も、その資料を採用して決めた方針にGOを出した人も、責任を問われることはない。
だから、生成AIが作成した資料を取りまとめて上司に提出する人間が、常に最終的な責任を負う。そう、キミやワタシだ。
いやいや、俺らだって業受とか派遣とかに資料作ってもらったりするじゃん。そうだね。
でも彼らの責任を問うても無駄だ。だって俺たちが率先して切ったりするじゃん。今更責任だけ負えとは言えない。
まともな人間であれば、レビューはきちんと行うし、レビュー漏れはレビュー実施者の責任だと理解している。
そういう常識的な上司がいれば理想的だ。でもそんな理想郷ばかりじゃない。
より一層、言質をとって記録に残すのが重要になる。
大学のゼミの先輩がフジとNHKに入社したけど、まあそういう人もいなくはないよね、みたいに言ってるしなあ
そりゃあんなに見目麗しい芸能人とか女子アナとがいればそんな要求が発生することや、要求を断り切れない権力関係はあり得るでしょとしか思えない
うちの学科は各研究室の4年生が持ち回りで謝恩会の幹事となっており、自粛するか決行するか含め、4年生のゼミ長会議で謝恩会の計画が決まるシステムになっている
しかし、もはや通常の飲み会、パーティがはばかられるものでなくなった現在も、謝恩会は行われなくなった
「パーティの企画?いやだ面倒くさい」というのが理由のようで、別にそれはそれでいい
でも、かつての学生は、そういうパーティの企画、会場となるホテルとの交渉、余興の動画作り、などなど、そういう経験を前向きに楽しんでいた気はする
今の学生は完全にお客様気質、コミュ障気質ばかりなので、わざわざ自分たちがお客様ではなく主催者になり、あまり知らない人と一緒にパーティするということのどこに存在意義があるか本当にわからんのだと思う
別に彼らの考え方そのものはどうでもいいことだしやる必要はないんだけど、本当にこういう精神がわからないまま社会に出ていくのはなんとなく不憫な気もしている
私には、小さいころからずっと憧れの存在がいる。それは、私より五つ年上の兄だ。兄のことを「お兄ちゃん」と呼ぶと、もう年齢的には少し恥ずかしいのかもしれない。それでも私は、昔からずっと「お兄ちゃん」と呼ぶのが当たり前だったし、その呼び方だけが私の素直な気持ちをいちばんよく表してくれるように思う。兄は細かいことを気にしない性格だから、「もういい加減に名前で呼んでくれ」と言われたこともない。むしろ何気なく「お兄ちゃん」と呼ぶたびに、少しだけ照れくさそうに笑って、「なんだよ」と返事してくれる。そんな兄の仕草が、私にとっては子どものころからの宝物のような思い出になっている。
私が物心ついたときから、兄は私を守ってくれる騎士のような存在だった。どんなに小さなことであっても、「大丈夫か?」と声をかけてくれて、一緒に悩んでくれる。小学校に入りたてのころ、友だちができなくて不安だったときも、兄は私の話をちゃんと聞いてくれた。「そっか、じゃあお兄ちゃんが放課後に一緒に遊んであげるからな。元気だせよ」なんて言いながら、一緒に公園に連れていってくれて、近所の子たちとも自然に遊べるように声をかけてくれた。あのときの兄の言葉や気遣いがなかったら、私はあの時期を乗り越えられずに、さらに内向的になっていたかもしれない。私の世界を少しずつ広げてくれたのは、ほかでもないお兄ちゃんだった。
そんな兄は、私よりはるかに行動力があって、友だちも多かった。学校のことから部活、さらには部活の大会や文化祭の準備まで、何でも積極的に参加していた。だけど家に帰ってくれば、私が宿題に苦戦しているときはいつも手伝ってくれた。特に理科の自由研究なんかは、兄が実験装置を手作りして一緒に試行錯誤してくれたのをよく覚えている。兄は私と同じ道をたどるように見えて、実はまったく違う場所を走っているようなところもあった。彼は勉強だけじゃなくてスポーツや音楽、さらに学校行事の運営のような活動にも興味を持ち、どんどん成長していくのだ。いつの間にか背も高くなり、どっしりとした声で話すようになった。そのころから、私は兄を「かっこいい」と思うようになっていた。家族や友人に言うのは少し気恥ずかしいけれど、「兄としての優しさ」に加えて「一人の人としての魅力」を感じ始めたのは、ちょうど私が中学生のころだったと思う。
しかし、中学生になると私も少し反抗期を迎えていた。別に兄が嫌いになったわけではない。ただ、いつも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とくっついてばかりの自分から、ちょっとだけ抜け出してみたくなったのだ。兄が何かと手伝ってくれようとしても、「いいよ、自分でできるから!」と口調を荒くして突き放してしまうことが増えた。そのたびに兄は少し寂しそうに眉をひそめるけど、それ以上は何も言わず、そっと距離を置いてくれた。子どものころは、すぐに私の手を引いてくれたのに。わざわざ私のために遊びを提案してくれたのに。今思えば、あのとき私は自分の世界を広げようと必死で、兄の優しさをないがしろにしていたのかもしれない。
そんな中学時代のある日、私はひどい風邪をこじらせて、高熱を出して寝込んでしまった。両親は共働きで忙しく、どうしても仕事を休めないタイミングだった。ところがその日、兄は学校の大事な行事を休んでまで家に残り、私の看病をしてくれたのだ。最初は「こんなことで大丈夫なのかな。お兄ちゃん、学校行かなくていいの?」と気遣い半分、苛立ち半分の気持ちでベッドの上から見ていた。しかし兄は、薬を飲むタイミングを覚えていてくれたり、氷枕を定期的に取り換えてくれたり、ポカリスエットをいつでも飲めるように用意してくれたり、とにかく何から何まで面倒を見てくれる。私は熱で朦朧とした頭のなかで「ここまでしてくれるんだ…」と申し訳なさと感謝で胸がいっぱいになった。気づいたら、ベッドの脇で眠ってしまった兄の寝顔を見つめながら、こっそり涙を流していた。
そのときに「やっぱり私、お兄ちゃんのことが大好きだ」と、心から再確認したのだ。反抗期真っ只中で、「兄の存在をうっとうしく感じたい」自分と、「兄を素直に好きだと言いたい」自分がせめぎ合っていたけれど、看病されているときに露わになった兄の優しさに触れて、私の中で答えがはっきりと見えた気がした。高校生になるころには、私はもう少し素直になろうと決心し、兄に対して必要以上の反発をしなくなった。そしてこれまで通り「お兄ちゃん」と呼んで、何かあれば一緒に笑って語り合う関係に戻っていったのだ。
高校生活が始まったばかりのころ、私は部活をどうするか迷っていた。兄は高校時代、サッカー部に入りながら生徒会の副会長も務め、さらに文化祭ではバンドまで組んでいた。とにかく「何でもやってみよう」と挑戦するタイプだったらしく、周囲からも頼りにされていたと聞く。そんな兄を近くで見てきた私は、「新しいことを始めるって、すごくエネルギーがいるけど、きっと楽しいんだろうな」とぼんやり思ってはいた。でも、私自身は見た目ほど行動的なタイプでもなく、どの部活に入るのかさえ決められずに日々が過ぎていった。兄に相談してみると、「やってみたいものがあるなら、迷わず挑戦してみなよ。すぐには決められなくても、とりあえず見学に行ってみるとかさ」と笑った。それまで頭でっかちになっていた私は、「そうか。とりあえずやってみればいいんだ」と目の前がパッと開けた気がして、週末にいくつかの部活を見学して回った。
結局私は合唱部に入った。そこには、中学の合唱コンクールで歌っていた自分自身の楽しさの記憶があったからだ。最初はそれほど力を入れるつもりもなく、「軽い気持ちで続けられればいいな」と思っていた。だが、合唱部の先輩はみんな本気で歌と向き合っていて、練習も厳しかった。気がつけば私も音楽室で遅くまで居残り練習をしたり、ボイストレーニングの動画を見ながら自主練したり、一生懸命になっていた。そういう自分に戸惑うこともあったが、同時に「こんなに打ち込めることがあるんだ」とわくわくしている自分もいた。
文化祭のステージでは、合唱部のメンバー全員で、思い切り歌声を響かせた。練習以上に声が震えてしまって、正直ベストコンディションとはいかなかったかもしれない。それでも、ステージを終えたときの達成感は大きかった。観客席を見渡すと、校舎の外からわざわざやってきた兄の姿があった。卒業生として招かれたわけでもないのに、私の初ステージを観に来てくれたのだ。「休みが取れたから、ちょっとだけ覗きに来た」とのことだったが、たぶんこっそり私の頑張る姿を見届けるために来てくれたのだろう。ステージを降りてから兄と目が合うと、彼は少し照れくさそうに親指を立ててくれた。その仕草を見た瞬間、緊張していた私の頬は、一気に熱くなった。
私は「これがお兄ちゃんなんだよな」と思った。大きな舞台に立つときであれ、苦しい状況に陥ったときであれ、兄はさりげなく私を見守ってくれる。困ったときには手を差し伸べてくれるし、何も言わなくてもただそばにいてくれる。それだけで、私は安心して挑戦したり、失敗してもまた立ち上がったりできる。兄の存在は、まるで日の光のようだ。直接私を照らしつつも、押しつけがましくはなく、ただ自然にそばにいて見守ってくれる。その温かさが、いつでも私を優しく包んでくれるのだ。
兄は高校卒業後、地元の大学に進学した。私が高校二年生のころだった。大学に入った兄はさらに多忙になったようで、ゼミやアルバイト、サークル活動などに時間を割くようになった。しかし家に帰ってくるときは、私が「合唱部でこんな苦労があってさ」と愚痴をこぼすのを、いつだって真剣に聞いてくれた。大学の勉強やアルバイトで疲れているだろうに、決して邪険にはしない。私が練習でうまくいかなくて落ち込んだときには、「悔しいなら、もうひと踏ん張りしろ。お兄ちゃんはお前の歌が好きだし、もっと上手くなると思う」と背中を押してくれる。簡単に「大丈夫」と楽観視するのではなく、どうすれば乗り越えられるかを一緒に考えてくれるところが、昔から変わらない兄の優しさだ。
そして私が高校三年生になるころ、兄は一人暮らしを始めることになった。大学の研究室に通うのに便利な場所へ引っ越すというのが理由だ。私としては、「お兄ちゃんが家を出るなんて、ちょっと寂しい」と本音では思っていたが、反対するわけにもいかない。兄が未来に向かって歩みだそうとしているなら、私は応援したい。きっと、私はもう以前のように一緒にゲームをしたり、兄の部屋に入り浸って話し込んだりはできなくなるのだろう。しかしだからこそ、「離れていても私たちはきっと大丈夫だ」と自信を持って言える。私と兄の間には、血縁という絆だけではなく、「お互いを信頼し、助け合ってきた記憶」がしっかりと刻まれているからだ。
兄が家を出てから、私たちはしばらく連絡が途絶えがちになった。私が大学受験で忙しくなったのも大きな原因だ。それでもLINEや電話で声が聞きたくなったら、いつでも連絡してくれと言われていたので、私はたまに短いメッセージを送っては近況を報告した。すると兄は、「いつでも聞くから、困ったら言えよ」と返してくれる。相変わらず、頼れるお兄ちゃんのままだ。私がセンター試験で失敗して意気消沈していたときも、さりげなく「次のチャンスがあるなら自分を信じろ。終わったことはくよくよしても仕方ない」とアドバイスをくれた。画面越しだったけれど、その言葉を聞いた瞬間、胸があったかくなったのを覚えている。
大学合格が決まってから、私は真っ先に兄に電話をかけた。メールやメッセージではなく、声で伝えたかった。電話の向こうで「よく頑張ったな。おめでとう!」という兄の声を聞いたとき、私は涙が止まらなくなった。今までなんとか踏ん張ってきた受験勉強の疲れが一気に噴き出したのもある。でもそれ以上に、「この喜びをいちばん分かち合いたい人が、誰よりもお兄ちゃんだったんだ」ということに気づいてしまったからだと思う。友だちに報告する前に、両親に言う前に、私は兄に連絡していた。それほど私のなかで兄は大きな存在で、どんなときでもまず伝えたい相手なのだ。
いよいよ私は春から大学に入学し、新しい生活が始まる。兄がいる町へ引っ越すかどうかは、まだはっきり決まってはいないけれど、同じ都内に通うことになるので、これまでよりは少し気軽に会えるだろう。「兄妹で仲が良すぎる」なんて冗談めかして言われることもあるけれど、そんなのは気にしない。お兄ちゃんと私は、長い年月をかけて共に成長しながら、お互いを支え合ってきた。私が自然と「お兄ちゃん大好き」と言えるのは、それだけの歴史があってこその言葉だからだ。
もちろん、これから先の人生で、兄と私の道が大きく別れる瞬間がやってくるかもしれない。結婚するにしても、仕事のために遠くへ行くにしても、人はそれぞれの未来へ進んでいく。だけど私が歩む先にいつでも兄の姿が見えたように、兄の歩む道の先にも私の姿が小さく映っていると嬉しい。物理的に離れていても、心が通じ合っていると感じられるような、そんな兄妹でいたいと願う。だからこそ、日々のなかで「大好きだよ」と面と向かって言えるのは、いまだけかもしれないと思い、恥ずかしさはあっても声に出して伝えたい。後になって「あのとき言っておけばよかった」と後悔したくないから。
思えば、妹としての私は、ずっと兄に何かをしてもらう立場だった。小さな頃は、けがをすれば助けてもらい、泣いていれば隣に座って肩を抱いてくれた。宿題でわからないところがあれば教えてくれたし、進路に迷えば「やってみたいならやってみろ」と背中を押してくれた。今度は私が、お兄ちゃんの力になりたいと思う。まだ何もできていないかもしれないけれど、少しずつでも兄にとって頼れる妹になりたい。もし兄が苦しくて立ち止まってしまう日が来るなら、私が「大丈夫、きっとできるよ」と笑顔で言ってあげたい。そして、いつか心底困ったときには、私がまた彼を助けてあげられるようになっていたいのだ。
でも、もしかしたらお兄ちゃんは、そんな私の気持ちをとっくに見抜いているのかもしれない。だって彼はいつも私より先を見ているようなところがあるから。私が高校の合唱部で頑張っていたときも、実は自分が忙しい中、ライブハウスでアルバイトをしてボイストレーニングの動画を集めたり、声の出し方に詳しい知り合いに助言をもらったりして、それとなく私にヒントを与えてくれたりもしたらしい。そんな話を本人から聞いたことはない。私が後から友人づてに聞いたのだ。そういうところが、本当に優しくて、かっこよくて、私が世界でいちばん尊敬している兄の魅力だと思う。
これまでも、そしてこれからも、私のなかで「お兄ちゃん」はずっと特別だ。自分が子どもっぽく感じられるときもあるし、「こんなに人を好きになるって、兄妹だからこそなのかな」と考えるときもある。でも、家族という形を抜きにしても、私はきっと同じように兄を大切な存在だと思うだろう。どんなときでも私を認めて支えてくれたあの瞳と声と背中は、私が人生のなかで何度も思い返すであろう宝物なのだ。
今日も私は、兄にメッセージを送ろうか迷っている。大学のオリエンテーションで少し戸惑うことがあったから、軽く相談したい気分なのだ。けれど、また忙しい思いをさせるのではないかと気が引けてしまう。それでもきっと、兄は「そんなこと気にすんな」と言って笑ってくれるだろう。だって私がお兄ちゃんの立場でも、きっと同じように思うから。困っているなら、何も言わずに助けたい。それが家族だからとか、妹だからとかいう理由だけじゃない。私にとって、お兄ちゃんはそういう存在であり、私自身もまた兄の力になりたい。そんなふうに自然に思えることが、嬉しくて仕方がない。
大人になったら、もっとお互い別々の生活を送る時間も増えると思う。だけど私の心の真ん中には、いつでも「お兄ちゃん」がいて、私はいつでも「お兄ちゃん大好き」と思っている。その気持ちを言葉にするのは、やっぱり少しだけ恥ずかしいけれど、それでも私の素直な思いだ。だからこれから先、何十年たっても、私にとってのいちばんのヒーローはお兄ちゃんだし、私はその事実を胸を張って言える。小さかったあの日からずっと変わらない、私の本当の気持ち――
「お兄ちゃん大好き。」
2020年に大学生になった。もう入学した頃にはすげーコロナ禍で、せっかく見つけた下宿に、ただ家賃を払う半年間が続いた。
授業は全部オンデマンドかZoom。誰かと話す時間はなかった。
半年経って後期が始まると、週に1回だけ対面授業ができた。その1回だけのために下宿に住んだ。すげーバカバカしかった。内容は論文とかレポートの書き方とかだけで、よく話す人こそいれ、友達はできなかった。
サークルは、運良くとあるサークルに入ることができたが、自由参加自由退出みたいなサークルだったので歓迎会とかもなかった。2年になったとき、別のもっと密度のあるサークルに入ったけど、結局変わんなかった。どこに入っても、誰も歓迎会を開こうとか言わなかった。
2年になって、そこそこ対面の授業が出てきたから本格的に下宿に住んだ。まあ第二外国語の授業が一個増えただけだったけど。
3年になって、恋人ができた。でも別に大学で知り合ったわけじゃなくて、もともとフォロワーだった人が、たまたま京都に住んでただけだった。ゼミが始まって、友達らしい関係の人はできた。
3年の1月、バイトで倒れた。うつだった。1年間休学した。やっと出来た友達らしい関係の人たちはみんな卒業した。恋人とは別れた。恋人がうつの一因になっていたことを否定しきれなかったからだった。恋人は、端的に言えば、交通機関がお得になる手帳を持っていて、自分に対する当たりが不安定で、終いには怖くなってしまった。
せめて次の年に一つでも楽をしようと、卒論だけ書いた。大変だったけど、もともと何かを書いたり作ったりするのは嫌いじゃなかったので、いいリハビリになった。うつじゃねえかよと言われるかもしれないが、単位をとれるだけ学校に出席する余裕はなかったし、実家から遠く離れた下宿で一人暮らしは無理だった。スーパーに入るだけで動機がした。卒論のために机に向かうのは、せいぜい週に1時間が限度だった。だんだん回復はしていいたが、1年かけて1万字。それまでの自分は、レポートをだいたい1時間で1000文字書いていたから、相当なスローペースになっていた。
でもパソコンをするのは好きだった。YouTubeとかニコニコに曲を投稿して。全然有名にはなれなかったけど、ハネたときは嬉しかった。マイクラでも無心で作業してた。
4年になって、就活をした。前の年までうつになっていたとは思えないくらいハードスケジュールをこなした。でも自分を認めてくれる会社はなかった。ガクチカなんてない、友達もいない、意味わかんない理由で1年休学。休学中にがんばった作曲も、「再生数少なすぎ、そんなんじゃガクチカにならない」って否定された。少なくともオマエ様の企業の説明動画よりは再生されてたぞ。ずっと吐きそうだった。周りを争うのは、自分より一年早く生まれてきただけで、自分よりも経験豊富で、サークルの歓迎も受けて、ガクチカも十分にある人たち。2001年に生まれたことをあれほど呪った日々はない。なんとか内定を1つだけとって、そこに決めた。決めざるを得なかった。
ただのアホだと思ってくれてかまわないが、単位の制度を勘違いしていて、4年の今、楽とかできないめちゃくちゃギリギリの状態だ。今季で落とせる単位は1個だけ。誰も相談に乗ってくれないから、単位についてずっと勘違いしていたし、学校のサポート組織みたいなものの存在も知らなかった。だから、4年の後期にもなってテスト2つ、レポートも4つくらい抱えてる。
今も学校に話せる相手は誰もいない。たぶん、抗うつ薬をもらってる薬剤師のほうが自分のことを理解してる。
自分の大学生活について思うところはないかと言われれば嘘になる。じゃなきゃこんなの書いてない。でも、これを見てる高校生、受験生の増田がいれば、これだけは言っておきたい。どれだけ大学デビューってバカにされようと、大学でしかできないことをやったほうがいい。自分はそれが出来なかった。出来なかったことをものすごく後悔してる。だから、サークルに入れ。軽音でもなんでもやれ。ヤリサーはたぶんもうない、しらんけど。
あと未成年飲酒はするなよ。周りがどんだけ未成年飲酒してても流されるなよ。ちゃんとハタチになって飲む酒が一番美味いぞ。タバコはもっての他だ。大麻は論外だ。噂が聞こえてきたら離れろ。
千切れかかった薄曇りの空の下、木造の古いアパートの部屋で、川端賢介(かわばた・けんすけ)は頭を抱えていた。狭い部屋の隅には紙くずが散らばり、机の上にはペットボトルとカップ麺の空容器が乱雑に転がっている。アルバイトのシフトを週に四回こなすだけでも精一杯で、残りの日は家に引きこもって何もしない。部屋のカーテンは閉め切られ、部屋の中はやや薄暗い。壁の向こうからは近所の子供が走り回る音や、誰かがテレビを大音量でつけている様子が聞こえてくる。その些細な音ですら、賢介には自分の存在を嘲笑する響きに思えてくる。
かつては夢があった。大学に入った当初は、弁護士になりたいと思ったのだ。しかし理想と現実のギャップにすぐ打ちのめされ、受験勉強も中途半端なまま途中退学。就職活動もうまく行かず、今のアルバイト暮らしをしている。自分が「社会の落ちこぼれ」になってしまったことは認めざるを得ない。一方で、大学時代に同じサークルで出会った女性がいる。彼女の名は比嘉優里子(ひが・ゆりこ)。彼女はサークルの中でもリーダー的存在で、いつも自信に満ち溢れ、まるで何でも手に入れることができるかのようなオーラを放っていた。
優里子は、その明るい性格と優れたコミュニケーション能力を武器に、大企業の総合職に入社し、今や順調にキャリアを積んでいるらしい。SNSを覗くと、華やかなパーティーに参加したり、出張で海外を飛び回ったりしている写真がいくつも投稿されている。彼女の姿を見るたびに、賢介は胸の奥に黒い感情が渦巻くのを感じていた。「なんで俺ばかり……」という思いが、日に日に大きくなっていく。かつてサークルでほんの少し仲良くなった時期があったため、彼女の成功が余計に妬ましく思えた。
そんな折、ひょんなことから賢介は、SNSに投稿された優里子の写真を見て、あることを思い出した。大学2年の頃、サークルの新人歓迎会で二次会のカラオケにみんなが行くときに、なぜか自分だけが「ごめんね、席もう埋まっちゃったみたい」と断られたことがあった。当時は「仕方ないか」と思っていたが、あのとき中心になっていたのが優里子だった。後日、別のメンバーから「あのとき、優里子が“あの人いると空気が重くなるから外していい?”って言ってたよ」と、笑い話のように聞かされた。そのときは、ただ恥ずかしさと悔しさで頭が真っ白になり、「そうなんだ」と笑って流すしかなかった。その記憶が、今になって鮮明に蘇る。
――人の心を踏みにじり、自分の快楽や満足のためだけに周囲を利用している。
――だけど表面上は、誰にでも優しく礼儀正しく接する。だから多くの人が騙される。
自分もその一人だったのかもしれない。無邪気に笑う彼女の姿が、いつの間にか脳裏で黒く塗り替えられていく。嫌悪感と羨望、そして劣等感が入り混じったやるせない感情。それが「復讐」という形で凝縮されていくまで、そう時間はかからなかった。
その日もいつものようにアルバイトのシフトを終え、コンビニで半額弁当と缶チューハイを買って帰宅した賢介は、スマートフォンの画面に映る優里子のSNSを眺めながらひとり考え込んでいた。
「どうやって復讐すればいい……?」
彼女に危害を加えるなど現実的には難しいし、そもそも暴力を振るう勇気すらない。だが、何らかの方法で“彼女から大切なものを奪う”ことができないか。彼女に対して「仕返し」をする手段はないだろうか。
そのとき、ある記事が目に入った。ある企業のSNS炎上に関するニュースだった。社員のプライベートな発言が切り取られ、誹謗中傷が集中して、当事者が退職に追い込まれたという事件。SNSを使えば、世論を簡単に操作できる。もし優里子のスキャンダルを世に広めることができれば……と、賢介は思いついた。
しかし、彼女のスキャンダルなど何も知らない。そもそも本当に「悪いこと」をしている保証もない。しかし、賢介にはひとつだけ心当たりがあった。大学3年の頃、仲の良かった友人から、あの優里子がゼミの教授と不倫関係にあるらしいという噂を聞いたのだ。証拠もない、ただの噂話だった。だがもしそれを“事実”としてでっちあげることができたら……。
その日は深夜まで、賢介はインターネット上での炎上事例やフェイクニュース、SNSの拡散の手法などを徹底的に調べ上げた。何度も缶チューハイを口に運びながら、脳内で“彼女を社会的に抹殺する”シナリオを組み立てていく。いつしか空が白み始め、鳥のさえずりが聞こえるころになってようやく、賢介は“準備”を整える決心をした。
翌週、賢介はまず複数のSNSアカウントを作成した。男でも女でもない、あるいはビジネスマンを装ったり、女性OLを装ったり、学生を装ったりと、プロフィールを細かく設定した。次に、大学時代のサークルやゼミの仲間をフォローし、タイムラインに溶け込めるように少しずつ発言を増やしていった。彼らがシェアしている記事に対してコメントを残したり、ニュースや流行りのトピックに無難な意見を書き込んだり。
一方で、別のSNSでは大学の裏アカウントを探し回った。そこには学生時代のうわさ話や、卒業後の同窓会の噂などが色々と書き込まれていた。優里子のフルネームで検索すれば、過去に撮られた写真や些細な情報が断片的に出てくる。その断片を拾い集め、賢介は少しずつ“フェイクの積み木”を組み上げていった。
そしてタイミングを見計らって、複数のアカウントから「あの優里子って、大学時代に教授と不倫して単位もらってたって噂あったの知ってる?」と囁くように書き込み始めた。直接的な断定は避け、「らしいよ」「誰かが言ってた」「本当かは知らないけど」という曖昧な言い回しで、火種をポツリポツリと落としていく。最初は誰も相手にしなかったが、何度か同じような書き込みが異なるアカウントから行われるうちに、少しずつ噂が広がり始めた。
さらに、賢介は裏アカウントを使って、まるで「元ゼミ生」を名乗る人物が優里子と教授の決定的な写真を持っているかのようにほのめかした。もちろん実際にはそんな写真など存在しない。しかし曖昧な文章で「以前、優里子さんが教授とふたりで深夜に研究室を出てきたところを見た」という“目撃情報”を投稿したり、他のアカウントから「そういえば卒業旅行をキャンセルしてたのは、教授と旅行に行ったとか?」とコメントをつけたりして、複数の証言があるように見せかけるのだ。
噂というのは恐ろしいもので、火種を絶やさない限り、どこかで燃え広がる。次第に、フォローの数が少ない裏アカウントでも、その書き込みを目にした人がリツイートやスクリーンショットで拡散していく。やがては大学のOB・OGグループにも届き、少しずつ「あの優秀な比嘉優里子が、実は……?」という疑惑が生まれていった。
数週間後、賢介は満足感に浸りながら、アパートの部屋でSNSのタイムラインを追っていた。匿名掲示板でも「比嘉優里子は不倫で単位を取った最低女」というスレッドが立ち、心ない言葉が書き連ねられている。その勢いはとどまるところを知らず、“噂が噂を呼ぶ”状態が加速していた。
「ざまあみろ……」
内心でほくそ笑んだ。かつてパーティーでもSNS上でも脚光を浴びていた彼女が、今や不名誉な噂の的になっている。それは賢介にとって、大学時代に味わった屈辱を晴らすささやかな“仕返し”だった。優里子の正義感あふれる投稿に、「説得力ゼロ」「偽善者」「自分のことは棚に上げて」などとコメントがつく様を見て、賢介は自分が強くなったような錯覚を覚える。
しかし、いくら噂が拡散しても、実害がなければ彼女は痛くも痒くもないだろう。気の強い彼女なら、「そんなデマに動じないわ」と宣言し、むしろ毅然と反論するかもしれない。実際、優里子のSNSアカウントはしばらく更新が止まっていたが、新しい投稿が上がったときには、たくさんの応援コメントも寄せられていた。結局、噂に踊らされず彼女を信じるファンも多かったのだ。
「このままじゃ、まだ足りない……」
賢介は次なる一手を考え始める。実害――たとえば、会社での信用や顧客との関係に亀裂が入るように仕向ければ、彼女のキャリアは深刻な痛手を負うだろう。そこまでやるのかと自問しながらも、頭の中には「どうせやるなら徹底的に」という声が沸き上がっていた。
それからというもの、賢介は優里子の会社名を調べ上げ、その会社の名前とともに「以前、不倫スキャンダルが噂されていた社員がいる」という書き込みを、ビジネス系SNSや就職活動系の掲示板に投下した。もちろん優里子の名前は直接出さない。あくまで「ヒント」をばらまき、興味を持った人たちが「調べてみよう」と思うように誘導する。
さらに巧妙なのは、賢介がわざと別の人物を示唆するようなフェイク情報も織り交ぜたことだった。「〇〇商事の女性社員でM・Hという人だ」など、デタラメな名前をいくつか挙げる。その後になって「あれは誤情報らしい。本当は比嘉優里子という社員」という流れを作ることで、最初にあった偽情報が訂正される形になり、逆に“本当の情報”だという信頼感を高めるのだ。
噂はSNSからまとめサイトへ、まとめサイトから大手ニュース風の匿名ブログへと伝播していく。その過程で誇張や憶測が混ざり、いつの間にか「社内不倫で昇進している」「上層部を篭絡した悪女」などと書き立てられていた。もはや当初の大学教授との噂すら混線し、「彼女は昔から男を利用してのし上がってきた」という筋書きまで付け足されている。
賢介はその様子を見届けながら、もはや半ば狂喜に近い感情を抱いていた。自分の言葉が誰かを巻き込み、誰かがそれを信じ、さらに多くの人に伝えている。“弱者”だった自分が、こうして“強者”に打撃を与えられるという実感。それが彼の孤独な心を満たす唯一の悦びになっていた。
やがて、SNS上では優里子を名指しする投稿が急激に増え始める。誹謗中傷のコメントが飛び交い、会社にも問い合わせが相次ぐようになったらしい。それを示すように、優里子の個人アカウントには「会社に電話したけど?」「逃げんなよ」「暴露してやるからな」といった執拗なメッセージが送りつけられていた。賢介は「ここまで来たか」と、どこか他人事のように画面を見つめる。
するとある日、優里子のSNSアカウントが非公開になった。続いて、彼女の友人たちが「優里子が精神的に追い詰められてるらしい」「病院に行った方がいいかもしれない」と心配する投稿をしているのを発見した。ここで初めて、賢介は自分がやっていることの重大さを痛感した。もはや噂を広めるとかいうレベルではなく、ひとりの人生を破壊する行為に手を染めているのだ、と。
しかし同時に、賢介の心の奥には「彼女が苦しんでいる」という事実への暗い快感が芽生えていた。「俺があの強気な彼女を追い詰めているんだ」という優越感が、胸の中をぐつぐつと煮え立たせる。
――俺にだって、これくらいの力があるんだ。
――ずっと惨めだったけど、今は違う。俺の言葉ひとつで、あいつは奈落に落ちていくんだ。
ある晩、賢介がいつものようにネットの反応をチェックしていると、見覚えのある名前を見つけた。大学時代に同じサークルだった友人・小峰だ。小峰はSNS上で「これはさすがに酷い。優里子に直接連絡を取って確認したけど、全部事実無根らしい。彼女は名誉毀損で訴えることを検討している」とコメントしていた。
名誉毀損――訴えられたらどうなるのだろうか。賢介の背筋に冷たいものが走る。自分がやってきたことは当然、罪に問われる可能性がある。しかし同時に、「誰がやったか特定できるはずがない」という妙な自信もあった。複数のアカウントを使い分け、匿名で投稿してきたのだ。しかも、あくまで「らしいよ」とか「噂だよ」と書いたにすぎない。そこまで簡単には追跡できないだろう、と。
しかし、万が一ということもある。さらに、優里子が法的手段に出るとなれば、彼女の上司や会社も本気で調査に乗り出すかもしれない。「疑わしきアカウント」に対して情報開示請求がなされれば、IPアドレスから身元が割り出されることもありうる。
賢介は不安に駆られながらも、嘘だろう、そんなの上手くやり過ごせる――と自分に言い聞かせた。だが、なぜかスマートフォンを握る手が震えた。こんな気持ちは初めてだった。いつもならアルコールを摂取すれば薄れる不安が、今回ばかりは煽られて大きくなるばかりだ。
数日後、小峰から「久しぶりに話したいことがある」というメッセージが来た。学生時代はそこそこ仲が良かったが、卒業後はほとんど交流がなかった相手だ。どうやら、賢介が今どこで何をしているかは、小峰のほうも把握していないらしい。
「このタイミングで俺に連絡してくるってことは、もしかして……」
不安と警戒を抱えつつも、賢介は小峰の誘いに応じ、駅前の喫茶店で会うことにした。平日の昼間だったため、人影はまばらだった。カフェの奥の席につき、ぎこちない様子で向かい合う二人。
小峰は当初、大学時代の思い出話をするふりをしながら、少しずつ近況に話を移していった。どうやら彼は一般企業で働きながら、サークルのOB会などを取りまとめる役をしているらしい。しばらく雑談が続いた後、小峰は急に真顔になって切り出した。
「優里子の件、知ってるか?」
「……ああ、SNSで色々言われてるみたいだな」
「正直、今までもちょっとした誹謗中傷なんかはあったけど、今回のはあまりにも悪質なんだ。で、優里子が精神的に参ってる。裁判も視野に入れて動き始めてるんだよ」
そう言いながら、小峰はじっと賢介の目を見つめる。まるで「お前がやってることだろう?」と問い詰めるように。だが小峰はそれ以上は何も言わず、ただ「何か心当たりはないか?」と探るように続けた。
賢介は動揺を抑えつつ、わざと素っ気なく答えた。
「いや、俺は知らないな。そもそも優里子に昔からいい感情ないし、SNSもほとんど見てないし……。そんな嫌がらせみたいなこと、わざわざやる動機もないよ」
自分で言っていて、嘘臭さを感じた。しかし、小峰はそれ以上深追いしなかった。ただ、「そうか、もし知ってることがあったら教えてほしい。俺は、誤解や嘘で人が傷つくのは嫌だからさ」と言って、曖昧に微笑んだだけだった。
小峰と別れたあと、賢介は駅前のコンコースをぶらぶらと歩きながら、頭の中で考えを巡らせる。小峰がわざわざ自分に接触してきたのは、やはり“犯人”を探っているからではないか。しかし決定的な証拠がなければ、自分を追及することはできないだろう。そう思う一方で、不安は拭えない。
「このまま、俺は逃げられるんだろうか……」
後ろめたさと、復讐を達成するために奔走してきた興奮が入り混じり、心が不安定になっていく。
結局、賢介はその夜からパソコンを開いても、優里子関連の情報収集や書き込みをする気が起きなかった。代わりにアルバイトを休んで酒量が増え、明け方まで起きては昼間に寝るという、ますます不健康な生活に陥っていく。何もかもが嫌になった。自分でも止められないままここまで来てしまったが、“復讐”という言葉は、もはや虚ろに響くだけだった。
するとある日、いつもどおりアパートの狭い部屋にこもって缶ビールをあおっていると、スマートフォンが鳴った。画面には「小峰」の文字。嫌な予感がしたが、出ないわけにもいかない。
「もしもし……」
「俺だ。突然で悪いんだけど、優里子が入院した。心が限界だったらしい。……正直、原因を作った奴が許せない」
小峰の声は怒りで震えていた。賢介は何も言えずに黙り込む。
「でな、俺はこのままじゃ黙ってられないと思うんだ。警察に相談して、サイバー犯罪対策なんかも含めて捜査を依頼しようって話が出てる。会社も動いてるらしいから、情報開示請求なんかも時間の問題だろう」
脳がぐらぐら揺れるような感覚とともに、賢介は息が詰まりそうになった。ついに、もう逃げられなくなる。そう思った瞬間、彼は全身の力が抜けて床にへたり込んだ。
「……そうか」
それだけ呟くと、小峰は最後に低い声で「もし、何か知ってるなら、今のうちにやめておけ」とだけ言って電話を切った。
やめておけ――もう、やり続けること自体が無理だ。もはや罪悪感が勝っていて、賢介はこれ以上フェイクを撒くこともできなかった。だが、今さら何をどうすればいい? 彼女に直接謝って許しを乞う? そんなことをしても彼女はますます憎むだけだろう。
翌朝、賢介は警察からではなく、思いがけない相手から連絡を受けた。なんと、優里子本人からのメッセージだった。非公開になっていたSNSのアカウントから、突然「直接会って話したい」という短文が送られてきたのである。
「……どういうことだ……?」
半信半疑のまま、賢介は指定された場所――大学近くの駅前のカフェへ向かった。指定された時刻は夜の8時過ぎ。混雑する時間帯を外したのか、店内には数組の客しかいない。
席に着いてしばらくすると、店の入口から見覚えのある女性が姿を現した。比嘉優里子――かつてのサークル仲間で、今や“噂”の被害者。その顔には明らかに疲労の色がにじみ、かつての凛とした雰囲気は薄れていた。
「……久しぶり」
少しかすれた声で言う。賢介はどう反応すればいいか分からず、黙って会釈した。二人がテーブルを挟んで向かい合う。彼女は沈黙を破るようにゆっくりと口を開いた。
「私も気づいてた。あの噂、あなたがやってるんじゃないかって」
「……どうして」
「大学のとき、あまり話したことはなかったけど、あなたが私に抱いてた感情は分かってた。私のことをよく思ってなかったのは感じてた。今になって急にこんな悪質な噂が広がって、あのサークル関係の裏アカや書き込みを見ると、文章の癖とか表現が、なんとなくあなたに似てる気がして……。確信まではいかないけど、ね」
賢介は言葉を失った。彼女がここまで鋭く察していたとは思わなかった。冷静に考えれば、自分しか知らないような細かいエピソードが混ざっていたのだから、勘づかれても不思議ではない。
「……申し訳ない」
それ以外、言葉が出てこない。どんな理屈も通用しない。ただ自分が虚勢を張り、彼女を傷つけようと目論んだ事実は消えないのだから。
「一つ聞かせて欲しいの。どうしてここま
これまで多くの作品をはてな匿名ダイアリーに投稿してきました。
今回、このようなまとめ記事を書こうと思ったのは、よい区切りだと思ったからです。
例えば、学校というのは、概ね三年程度で卒業するのが一般的です。
私も投稿開始から約四年が経った頃、2023年の秋頃からでしょうか。ある程度のまとめを綴ってみたいと思い立ちました。が、会社員生活や副業で忙しく、時間が取れませんでした。
まとめを綴るよりも、思いついた作品を書いてみたいという本能の方が強く、書けずじまいでした。
読まれる人にとっても、到底読み切れない量であるのも悩みの種でした。
この度は、日常生活の区切りとなる出来事が間近に控えていること、今回を逃したらいい時期がさらに遠のいていくこと、皆さまにとっても時間が取りやすい年末年始ということで、いわゆる増田作品のまとめを寄稿します。
1. 作者(私)にとって"思い入れのある"作品とする。ブクマやコメント数は関係なし
3. 投稿本数は、計48本+α
4. 作品紹介文は、概ね600字以内とする
作品紹介に入る直前に、今回のまとめの一番最初のきっかけです。
【ロマンシング サ・ガ2】のsteam版です(リベンジオブザセブン)。
ここに始まるは、遥かなる戦いの詩。偉大な帝国と麗しきアバロンの詩。
そして、代々の皇帝とその仲間達の詩。
この詩をうたい終えられるよう、精霊よ、我に力を与えよ!
元々はスーファミソフト(1993)です。今年10月にリメイク。
序盤をプレイしていたところ、私にとっての『詩』と、詩人の言う『精霊』が何なのかを考えることがありました。今しか機会はないだろう、と決心しました。
作成は12月に入ってからです。年末投稿に間に合うように大急ぎで作りました。
至らない点は多々あります。飛ばし飛ばしでも、興味のある方はお読みいただけると幸いです。
(以下本文です)
なぜ、はてな匿名ダイアリー(以下「増田」とする。)に投稿しようとしたのか。
私がまだ二十代の若かりし頃、その同僚の女性が苦しんでいました。
同じ部署であり、間近で見ていたのですが、何もできませんでした。結果は悲惨でした。
その頃の後悔を、どうしても文字にして表現したい思いがありました。
結局、その子は社会人三年目で辞めました。本人にとってはよい選択だったと信じています。
でも、あの子が不幸な目に遭うのを目の当たりにして、私にも実はできたことがあって、あの子には別の道もあったのではないか、と小太りの下級管理職(ロワーマネジメント)おじさんになった今でも夢に見るのです。
この作品以外にも、彼女がモデルになっているものがいくつかあります。
この頃は精神が病んでおり、精神病質的な日記を書くことがありました。
こちらはその一つです。
私の日記のスタイルとして、実在の人物について、この目で直接見た言動を記述するというのがあります。
今回、まとめた作品のうち、他者を題材としたものはすべてそうです。
稀に完全創作もありますが、基本はノンフィクションです。私自身がその人に成り代わって書く、というやり方――私が幽霊になって、その人に乗り移って日記を書いてるイメージです。
この手法を、私は勝手にゴーストライド(Ghost Ride)と呼んでいます。
さて、この日記について。私が二十代後半の頃、京都市内にある役場に勤めていました。中途採用。
最初に配属されたのは府税事務所です。新卒世代の子と一緒に税務の仕事をしていました。
其処には善き人もいれば、反対にそうでない人もいました。
この日記で取り上げたのは、公務員人生で最初の先輩です。年は離れていましたが、公的なメンターとして指導をいただきました。
若い頃に市町村役場に採用されたのが公務員人生のスタートらしいです。公務職場で現場の仕事をしてきた経験が、その後の事務職としての府税徴収の仕事に反映されてました。
一方、はっちゃけた性格の方で、何度か処分歴があったのも事実です。彼自身から、飲み屋で何度も処分を受けた時の思い出を聞きました。本人いはく、信念に基づいた結果としての処分は……勲章らしいです笑
私が民間企業に居た頃は、公務員というのはキレイにまとまった方ばかりだと思っていました。
この先輩のことは、今でも思い出すことがあります。
こちらは、コロナウイルスが流行り始めた時期に、もし私がまだ地方公務員で、あの仕事をしていたとしたら……? という想定で書きました。
かつて、新型プリウスが流行った折に、国民全員に定額給付金10万円がもらえることがあったと思います。今から四年前とは信じられません。もっと最近だった気がします。
すでに公務員を辞めて民間に転職していた私ですが、交付事務が「失敗する」ことを予想していました。
というのも、このレベルの事務というのはエクセルなどではなく、それ専用のシステムで管理しています。
経験上、システムの運用においては、申請手順のわかりやすさとか、申請用紙の書きやすさとか、そういう点が不十分です。住民や企業の登録情報が誤っていることすらあります。
交付事務で多くの失敗が出た地方自治体というのは、国が推奨するシステムを使い、電子申請をするやり方をメインに採っていました。
旧来通りの紙申請を推していた地方自治体は、まだキズが小さかった記憶があります。
民間企業でも公務職場でも、いくら上が推奨するからといって、何が正しいか考える姿勢を忘れてはいけません。
こちらに出てくるのは、私が公務員を辞めた後、次の転職先企業で出会った『すごくモテる男性』です。
彼を主人公に据えた増田作品は、これ以外に少なくとも三点あります。それくらい特徴的な人でした。
彼は、私の数コ上の先輩でした。同じ職場の。あまり喋らないキャラでしたが、必要な場面では冗舌でした。
普段は寡黙なのですが、いざ喋り始めてみると、超然としつつもクールキャラで、堂々としているのですが……自分の話にすら興味がないのが伝わってきます。
ところで、見た目のよい方でした。藤木直人や福山雅治、山崎賢人、中村倫也、その他ジャニーズの有名どころと肩を並べても……見劣りはしないでしょう。見劣りしたとしても、ほんの僅かです。
同じ会社の事務員♀の方々からも人気でした。しかし、そっち方面の噂は聞きません。
この人と一緒に仕事をしているうち、実は猫を飼っていることがわかりました。
本人は「チンチラも飼ってみたい。山を歩いてるけど、野生のチンチラ見つからないよ」と、同じ車内で冗談を言ってました。
今では職場が離れましたが、まだ同じ会社に勤めています。未だに結婚はしていないようです。飲み会を利用して女子社員を紹介したこともあるのですが、あまり興味なしでした笑
この頃は、精神的に不安定な症状が落ち着いていました。今もなんとか。
私には子どもの時の引っ越しの関係で、地元と呼べる市区町村が複数あります。そのうちひとつが広島県福山市でした。
祖父は新卒から定年まで福山市役所で勤め上げた人間で、まさにチャキチャキの地方公務員です。
私が高校生の頃、祖父が住んでいる田舎の一軒家で、夜に食卓でくつろいでいました。すると、隣にいた祖父がいつの間にか酔っぱらっていました。管を巻くというやつです。私の実父が諫めている様子でした。
「福山はのう、採用試験を受けに来た人間をのう、個人情報をひとりひとり調べとったんよ。生まれた場所も育ちも。そのほかも。それで合否を決めとったんよ。それを、それを松永の分をのう、わしにやらせとったんよ」
「悔しかったのう。悔しいよお。なんでそぎゃあなことを、せないかんのんじゃ」
「でも上からの命令じゃけのお。当時のワシはのう、さからえんかったんよ。情けないんじゃ!! 殺してくれ」
こんな具合のことを、お酒に酔って管を巻きながら、ずっと喋っていました。
当時の私はそれを聞いていて、可哀想とか、情けないとか、みっともないとか、そういう気持ちになりました。
社会的によくない行為でも、組織の中では是となっていることがあります。ましてやそれをやりたくなかったのであれば、相当無念だったと思うのです。
その本の中で、創作でやってはいけないことがいくつか挙げられていました。
実社会のコンテンツについて、政治思想アピールとか、人権軽視とか、人間同士が傷つけあうとか、そういう方向性は受けないのだと私は認識しました。
「あ~、だから近年のプリキュア(※2019前後を意識)はネットの意見が割れているのか」と実感した記憶があります。
自分がこれまで観てきた、読んできたコンテンツで、そういった『精神的に不健康な』作品群について考察してみたいと考えて日記を書きました。マズローの『完全なる経営』を底本としています。
Twitterで、公務員試験の面接に受からなかった人が歎いていました。
公務員試験関係のネット掲示板でも、どうしても面接に受からない人がボヤキを続けています。
官民問わず、面接試験で見られていることは同じです。ありていに言うと、
「私たちの仲間になれそうか?」
ということです。自分を正直に出して、そのうえで不採用だったのであれば、お互いにwinwinということです。
しかし、どうしても入りたい組織があるなら、重点対策をするのもその人にとって大事なことです。そんな人に向けて、公務員試験の面接で重視されていることを述べました。
「構造化面接」や「試験全体の標準化」というのが長年続くトレンドのひとつです。
地方公務員試験の面接官というのは、皆素人です。一次面接だと、各部署の責任者クラスが選ばれて実施しますが、何年も面接官をやっている人は稀です。
そこで素人感をカバーするため、彼らは専門のコンサルから研修を受けます。受験者を公平・中立・平等に選考するコツを会得するために。
ということは、採点表が概ねどんなものかを知っていれば、対策は可能ということです。
「この程度のことで悩む必要はないと思う。悩んでいる人がいるなら救いたい」という思いがあって、日記をしたためました。
私が通っていた大学の同期で、任天堂株式会社の内定を取った人がいました。
彼は、特別な何かを持っているタイプではありませんでした。本当に普通の子でした。
しいて言えば、大学1回生の頃から熱中していることがありました。音楽イベントサークルの運営だったはずです。
それだけでなく、ニガテな教科やゼミ活動があったとしても、ひるまずに、毎日シコシコと学びを続けて試練を突破するような、そういうタイプの人でした。
社会人になって約二十年が経ちますが、今では地道に努力ができる人が会社員に一番向いているのだと理解できます。
その人は、任天堂を途中で退職したのですが、今は自分にとって健やかに過ごせる環境で働いています(はず)。最後に会ったのは五年以上前になりますが、幸せであることを祈っています。
当時、おたまじゃくしの人が私の日記をよくブックマークしていました。ほかの常連さんは少なめでした。
今回の増田まとめですが、Meryというテキストエディタに打ち込み始めるまでに、対象期間の日記をまとめ読みしました。コメントもすべてです。実時間で24時間以上使いました。
その中で、ブクマコメントをいただいた方々に、できるだけスターを付けて回りました。緑スターと赤スターを多めにしました。
話は逸れましたが、作品紹介に入ります。まだ学生だった頃の思い出です。道路を自転車で走っていると、二車線の車道を横断しようとするカマキリがいて、それを見守っていて……という流れです。
カマキリが車に轢かれると物凄い音がするとか、ハリガネムシが自動車にカマキリごと轢かれても死なないとか、いくつもの学びがありました。
舞台となった出来事は日記を書く約一年前。民間企業に転職してそんなに時間が経っていません。
都内の環境に慣れてきた頃、いわゆる異業種交流会に参加しました。商売メインじゃないやつです。
多くの業界の方が参加されていたのですが、その中で仲良くなった人にメルカリの方がいました。
今でこそ業界の一流ですが、当時はまだ混沌とした面があったようです。マスク転売事件の裏顛末を恨めしそうにぼやいていました。
その人と一緒に、マッチングアプリの運営会社の方もおられて、いろいろ話をすることがありました。
一次会でも二次会でも、その人達と一緒にお店を周らせてもらい、楽しい思い出になりました。
その日の夜に居酒屋でお酒に酔って、はっちゃけた人々がした話を、日記に書き留めたのです。マッチングアプリの人の話が一番記憶に残ってました。
今でも楽しい思い出です。Kさん、Tさん。その節はどうもありがとうございました。
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先ほど述べたとおり、この目で直接目撃できた(追記:または本人が喋っていた)エピソードを主に描写します。
本人特定の危険アリ、と判断したら本質に影響しない程度のフェイクを入れます。
読者である貴方が日記で読んだ人は、この世界に確かに存在しています。
※本人が書いているという設定なので、コメント返信も行います。
なぜこうなのかと言われると、「矜持」です。
オリジナル小説だと、私よりも世間一般の小説家の方が上手です。おそらく敵わないでしょう。
だとしたら、自分の立ち位置を定めて向き合いたい思いがあります。
自分の天性にあったやり方が一番正しいやり方を。
純粋に、増田の利用者やブクマカに喜んでもらいたい気持ちもあります。
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これは陽キャ陰キャ問わず知らない(知ろうとしない?)人が多いんだけど、日本の社会って実は
「普段の学校の勉強を普通にやってると、少ない労力で凄くスムーズに就活まで進められる」ようにできてるんだよね。
①周りが馬鹿ばっかの公立中で普通に勉強してると、かなり良い内申点が簡単に取れて、内申点考慮の公立進学校に楽に入れる。
②1年から勉強してる人が異常に少ない公立進学校では、普通に学校の勉強してるとかなり簡単に早慶らへんの指定校推薦が取れる。
③大学はサボる人が大半だから、ちょっと勉強やれば楽にGPAが3超えて、トップゼミも交換留学も給付奨学金も意外と簡単に取れる。
④早慶あたりで良いゼミor留学の経験があって、あとはバイト代わりに適当な長期インターンでもやっとけば、就活ではほぼ困らない。
こんな風に、適当な公立中高で普通に勉強してるだけで、かなりスムーズに有名大も入れるし就活も強くなるようになってるんだよねw
都心の教育ママやガリ勉陰キャは気づかない、過酷運動部出身で飲み会依存の陽キャも知らない、冷静に社会を分析できた人だけが実践してる勝ち筋。
「中学受験の段階から超本気で勉強させて、私立&塾漬けで何とか有名大に入れる」
「3年の夏までは部活にフルコミットして、引退後は今度は全力で受験勉強する」
暇空茜は東大院生に批判的な論文を書かれたことから、その院生のゼミ教授である田中東子に粘着している
田中東子は女オタクであり腐女子でありオタクカルチャーについての本を出している人だ
ジャニオタでもあるが、ジャニーズ性暴力が話題になった際は厳しく批判する側となった
田中東子の父親は官僚の田中征治で、櫻井翔の父親は後輩にあたる
暇空茜
@himasoraakane
ジャニーズ潰しを主導していたひとたち
が一切叩いてこなかった中居正広
(SMAPと櫻井翔だけはジャニーズ潰し関係でろくに叩かれなかった)
これがなぜか今回急に9000万円のスキャンダルが出てきて、誰の目にも明らかにどっかからリークされてる
ドキドキ
暇空は表現の自由に1ミリも興味はないが「表自」が頭が弱く感情的で煽動に簡単に乗って献金してくれる層であるから擦り寄り、
ジャニオタも似たような層だと見抜いてジャニーズに擦り寄っていたが、適当にフェミフェミ鳴いておけば心を開く表自と違ってジャニオタは御しにくいことを思い知らされる
はぁ?櫻井翔の叩かれ方ヤバすぎて彼の人権はどこに?って感じだったけど。ジャニーズ問題起こる前からずーっとね。
中途半端に首突っ込んでくるけど、わかってない。掻き乱すだけ。
嵐の櫻井翔さんは誰よりも叩かれていました
別の櫻井翔さんのことでしょうか
櫻井さんがやたらと叩かれていたのをご存知ないでしょうか
櫻井翔は酷く叩かれてましたよ。
名前を間違えたなら消してください。
影響力のある暇空さんが間違いを削除も訂正もしないなんて酷すぎます。
あれだけ叩かれてファンがどれだけ辛い想いをしてきたか想像してください。
それが理解出来ない人じゃないはずです。
櫻井翔はジャニーズで何かあると真っ先に総叩き喰らう人です、ニュースキャスターの地位が相当気にくわないアンチとネットニュースが粘着してます。無傷で賞賛記事しか無いのは中居草彅香取稲垣だけです。元SMAPでもキムタクは壮絶バッシング対象です、情報アプデお願いします
アンチジャニからはメディアに事件を揉み消させた張本人(時期的に明らかにおかしいんだけど)みたいに言われてボロボロに叩かれたのが櫻井翔なのに、今度はジャニ潰しの張本人扱いされるのか😓
申し訳ないけど、櫻井翔がどれだけ叩かれてたか本当にご存知ないのですか?
ジャニ潰しの面々に黒幕とまで言われた動画まで作られてましたよ。
名指しでわざわざフランスの1記者が書いた批判記事を持ってきて「あの仕事辞めろ!この仕事辞めろ!」って卑猥な言葉使って散々叩かれてましたよ。
櫻井翔が叩かれてない、、、?
いやいやいや、役職に付いてた東山さんや井ノ原さん以外で叩かれてたツートップの木村さんや櫻井さんが叩かれてないは流石に無理がある。
櫻井翔は田中東子とつながっているがために叩かれずに済んでいたという説に、ジャニオタらが猛反発
2000年代前半にインカレの起業サークルに所属していた。ビタービットバレーのちょっと後、ライブドア事件の前ぐらいかな。iモードが流行り始めて一攫千金できそうだけど、1990年代のようにホームページ作るだけで数千万円とかは無理な時代。
あと無給~月5万ぐらいで学生をインターン生として数百時間働かせるブラックベンチャーや、そういった企業に学生を紹介する人財(笑)ベンチャーやNPOが跳梁跋扈してた時代。
まぁそれはさておき、当時100人ぐらい居たほぼ同期生のうち、自分が思う成功例と失敗例についてなんとなく語る。一部フェイク含むし、上場企業の社長は特定できそうだから除く。
・成功例①
新卒でITメガベンチャーに就職し、パズドラブームちょっと前にゲーム制作会社向け人材派遣業・受託開発業を創業。あっという間に数百人規模の会社にして、最終的に30代半ばで50億程で会社売却。今はエンジェルっぽいことやってる。西麻布がホームのようだが、酒の飲み方が汚いとたまに話が回ってくる(嫉妬もあると思う)。
・成功例②
就職せずに自分で広告代理店起こすも、直後にリーマンショックが来て一回倒産&自己破産。その後、オタク業界で再起。色々あって現在年商60億ぐらい。最初の自己破産の時に迷惑をかけた人には、全額返済したみたい。
・成功例③
教育系ベンチャーに就職し、30歳ぐらいに同業で独立。最初は学生を雇って個人指導塾を経営していたけど、法人教育や通信教育(ネット)に手を出してから一気に成長。年商100億ぐらい。
・失敗例①
新卒で大企業の新規事業開発部門に入社するも激務で退職。リーマンショックで再就職うまくいかずその後連絡取れなくなる。30歳前後の頃、こいつに騙されたが連絡先を知らないか、という話がFacebookで回ってきた。しばらく忘れていたが、30代半ばにふと検索したら地方で詐欺をして捕まっていた。有罪かは不明。
・失敗例②
新卒で不動産系メガベンチャーに就職し、その後、会社の同期同士で独立。しばらくは順調そうで、たまにメディアで顔を見ていた。なぜかその後、暴力事件を起こして逮捕。現在は不明。
・(余談)自分
文系だが高校時代からコミュニティサイトを運営していたこともあって、Linuxとかサーバー管理的なことを自己流でやっていた。起業にあこがれていたが、ちょうどリーマンショックのタイミングで怖気づき、結局、日系中堅企業に就職。就職時にアピールしたためか、3年目ぐらいで新規事業に携わらせてもらい、PCやネットの知識はそこで重宝された。アラフォーの現在までに2回転職し、現在は年商100億規模のベンチャーの管理職。小さいが事業部的な組織なんで、企画から実行まで全部自分の裁量で回せるのが気持ちいい。副業可な会社でそこそこ資産もたまったけど、何やっていいのか分からず日々本業に追われている。
「成功例」としては、色々な意見があると思うがとりあえず金銭的な成功を基準としてみた。もちろん会社内部は大変かもしれないし、私生活は良くないのかもしれないが、億円単位で稼いでいたらまぁ成功と言えるだろう。また逆に借金ぐらいだったらいくらでも自己破産できるし、失敗とは言えないと思う。ただ逮捕されたらさすがに他人に迷惑をかけたということだし、さすがにそれは「失敗例」と判断してみた(不起訴とかまでは知らん)。
当時のサークルの名簿があったからググってみたら、上場オーナー経営者が数人、上場企業の役員が数人、その他、親の企業継いだ人、中小企業の社長、地方議員、医者、弁護士、社労士、インフルエンサー、情報商材販売数人…みんないろんな人生送ってるなぁ。でも名前でググって出るぐらいだから、それなりに活躍しているんだと思う。
当時は渋谷の道玄坂や桜丘町、六本木とかの安居酒屋やら安中華料理屋やらでよく飲んでたなぁ。25ぐらいまでは付き合いあったけど、そのあたりから成功失敗が別れるようになり、結局離れ離れになってしまった。いまだに繋がっているのは、飲み友達になった数人ぐらいで、あとは年賀状やFacebookの誕生日メッセージで「今年こそ飲みましょう」というやり取りをしているのが数人ぐらい。アラフォーに突入し、とりあえず生きてるだけで丸儲けだな、とは感じる。青春でした。
mixiのニュース見て、当時のことを思い出して書いた記事がホッテントリ入りしてる。嬉しいm(_ _)m
色々な大学生が参加しいるインカレサークルなんでで割合は国立:早慶:MARCH:他で、1:3:4:2ぐらい。早慶多かったけど、圧倒的、というほどでも無かったかな。男女比は9:1ぐらい。あと「自己破産ならいくらでもできる」ってのは気楽に書きすぎたかもしれないけど、ちょっと上の世代の社長で借金が原因で妻子残して失踪したり、自殺しちゃったりした人がいるんだよ。それらに比べたら、借金は自己破産して人生やり直せるんだから、失敗とは言えんよなぁ、と思って。
あとホッテントリ入りで自己顕示欲刺激されたんで、もう1人成功例を上げておく。
・成功例④
自分の知っている中では、同世代一番の成功者。彼も20代でウェブサービス作って、30代で会社ごと数十億円で売却した。知名度が高いB2Cサービスで、同世代(現在30代~40代)でネット使ってる人なら10人に1人は知ってると思う。確かに便利なんだけど、俺は悔しいから使わない(笑)
そうだった!指摘ありがとう。訂正した。
id:delta-ja 2000年後期は金持ち父さんとか女子高生がドラッカーとかそういう時期だったね。氷河期の下ゆとりの上の世代はそこそこ幸運に恵まれてる世代だけど、増田周辺は打率が良いな。アフィだけ齧って撤退の連中が多かった感
はてなの起業エントリが一番盛り上がってたのも2000年後半ぐらいだった気がする。そういえば、2000年代に流行ってたものとしてSEOを忘れてたわ。pagerankが高い大学公式サイトからバックリンクをもらうために、大学の教員に頼んでゼミや学会分科会やらのサイトを無料で作ってたなぁ。そこからさらに自前のサイトにリンク貼ったりして(教員承認済み)。
id:akiat 「年商が高い=企業が儲かっている」ではないことを知っていて書いているんだろうけど、「借金しようが自己破産しようが気にしないと」いう前提があるということが分かった
年商は分かりやすい目安だからね。もしかしたら②や③も赤字や債務超過になってる可能性もあるけど、さすがにそれは外からじゃわからないし。
id:kuippa 50億100億ゆーてるけどほんまかいな。解像度1桁ちがってない? はてなで年25億。タイミーで268億。100億超えは 東証プライムでも上位1582に相当。飲み屋話真に受けてない?自社の決算書見た?
①は伝聞だけど、②と③と自分の話は裏付けあるよ。てか、B2B分野なら一般的な知名度皆無でも年商10億単位はザラだし、B2C、B2B問わず年商100億超の非上場企業もたくさんありまっせ(参考1)(参考2)。
id:gwmp0000 起業 自営業 大学の起業サークルって具体的には何すんだろ? 会社作って経営すんの? 全員自分の会社を作るのかね??
毎月、30歳ぐらいの若手社長呼んできて講演してもらって、その後、懇親会的な感じ。自分1人だと挫折しそうだから、同じ方向を向く仲間やライバルが欲しい人が多かったかな。一緒に会社作るための人を探そうって人はあまりいなかったと思う。みんな我が強いから。
id:TakamoriTarou どういう人が集まってる大学なのかそっちのほうが気になった。企業サークルなんてのがあるんか。
インカレだからいろんな大学の人がいたよ。ガチ起業勢が1/3、意識高い陽キャ系が1/3、その他が1/3ぐらい。自分はその他枠だな。悪く言うとキョロ充に近かったと思う。
id:tkm3000 40代前半で上場企業役員ってなれる?
なれるなれる。新興市場なら、今だと社長40代後半、役員40台前半って会社も多いから。あとは30代で自分の会社を上場企業に売り払って、その事業部の執行役員経て役員になるとか。サラリーマンできる経営人材は貴重。
id:by-king 失敗の定義が逮捕になってないか。夢破れて今はしがないサラリーマンやってますとかそういう話かと思った
成功してメディアに出る以外で、その人のその後を知れるのは悪いニュース(逮捕)ぐらいしかないので…。名前ググっても出てこない半分ぐらいの人は、たぶん普通にサラリーマンとか公務員やってると思う。
私には未来があると信じて疑わなかったけど、その未来は砂のように手ですくった瞬間から少しずつこぼれ落ちていた。
認めたくなかった。
友達よりも職場の同僚よりも私の人生はうまくいってるって思ってたけど、みんないつの間にか結婚して出産していった。
結婚が全てじゃないって言う人はたくさんいたけど、やっぱり私たちを囲む世界には独身か既婚かの壁が大きくてすごく辛かった。
既婚者の苦労はみんなわかってるけど独身の苦労は誰もわかってくれないし気に留められることもない。
そんな無視されてる存在でいるのがすごく嫌だったし、好きで独身でいるわけじゃないのに色々言われるのにもう疲れちゃった。
夜のティータイムが私のささやかな楽しみだけど、もう何も考えずにその時間を過ごすこともできなくなった。
もう年末だし実家に帰らなきゃ行けないなと思いつつ、お母さんやおばあちゃんに彼氏が出来たかどうか聞かれるのが嫌で帰りたくないって思ってる私がいる。
けど実家に帰らなかったら寒いワンルームに1人だし、気晴らしに外に出れば楽しそうに過ごしてるカップルを見なきゃいけないのも嫌だなぁ。
結局色々言いながら実家には帰ると思う。
小学校の時はよく男子にちょっかい出されたし、中学の時は部活の先輩に告白されたこともあった。
大学生になってからは友達より早めに垢抜けたし、年上の彼氏がいたから同い年の子達とは違う経験をしてた。
みんながサイゼでご飯食べてトリキで飲んで彼氏の学生寮のマンションに入り浸ってる間に私は色んなホテルや一見さんは入れないお店にも行けた。
キラキラしてないけど入りたい旅行会社の内定をもらえたし、同期の中では私が1番かわいかった。
大学のゼミの子達は先行と全然関係ない大手会社の受付とか事務に就職していった子が多かった。
受付とか事務って男の人にニコニコするのが仕事みたいでそういう仕事はしたくないって思ってた。女の子だからとか関係なく正当に自分の仕事を評価してもらいたかったし、
そんなに勉強をすごくする方じゃなかったし、若ハゲの教授のゼミで愛想笑いをするのも得意じゃなかった。
職場の人は良い人ばっかりだったけど、私はあの人たちみたいにはなりたくないしなれないなって感じるところもあった。
職場に入った頃はそんなゆるい温度感にすごく私は合っているな〜って思ってたんだけど、夏頃に同期に誘われて行った合コンであったベンチャー企業の人たちのポジティブさというか向上心のある感じを見ちゃうと自分の職場が急に違うなって思えてきて「ここは私の居場所じゃないかも」って感じ始めたの。
それがきっかけかわからないけど、会社帰りに夕食がてらカフェに寄ってTOEICや韓国語を勉強し始めた。
韓国トークをする友達と韓国で旅行したときは私が成長しているなって実感できたし、ニューヨークでメトロポリタン美術館に行ったときにイケメン外国人に話しかけられたときもちゃんと会話できてインスタ教えてもらえたのも勉強のおかげかなって思った。
でも、その頃からだろうか。私の中で何かが少しずつズレ始めた気がするのは。
韓国語や英語を勉強して、旅行をして、新しい人や世界と繋がるのは本当に楽しかった。そう思っていたはずなのに、いつの間にか周りの友達たちは結婚して、子どもを持って、話題が変わっていった。昔は一緒に旅行やショッピングの話をしていたはずなのに、今では子どもの習い事や夫婦の関係、家のローンといった現実的な話ばかりになっていた。
私が海外での思い出や、最近買ったお気に入りのコスメの話をしても、みんなの反応はどこか薄い。それなのに、ふとしたタイミングで言われる言葉がある。いいなぁ、自由で、とか。独身だからできることだよね、とか。そのたびに胸の奥がちくりと痛んだ。私は自由を楽しんでいるつもりだったのに、なぜかその自由という言葉が妙に重く感じられるようになっていた。
それでも私は自分らしく生きたいと思っていた。誰かに縛られることなく、自分の人生を自分で選びたいと。でも、ある日ふと気づいてしまった。自分らしくと言いながら、私が選んできた道は、本当に私が望んだものだったのだろうか、と。
年末が近づいて、とうとう実家に帰る日が来た。駅から家までの道を歩きながら、冷たい風が頬を刺す。玄関を開けると、お母さんとおばあちゃんの明るい声が出迎えてくれた。おかえり、寒かったでしょ、と言われて、一瞬ホッとしたのも束の間。食事の席で案の定、彼氏は?の話題になった。
焦らなくていいのよ、とおばあちゃんが優しく言った。でも、そろそろ考えないとね、と続けた言葉が胸に刺さる。私は無言で笑ってごまかした。
その夜、部屋に戻って荷物を整理していると、古いアルバムが目に入った。開いてみると、幼い頃の私がそこにいた。誕生日のケーキを囲む家族、学校の運動会で笑う友達たち。どの写真も明るく、未来に向かって輝いている私が写っていた。
その写真の中の私を見て、思わず涙がこぼれた。未来があると信じて疑わなかったあの頃の自分。けれど、今の私はどうだろう。いつの間にか、周りの価値観や目線に振り回されて、自分自身を見失っている気がする。
その瞬間、紅茶に入れるために買った豆乳のパックが思い浮かんだ。あれはきっと何かの象徴だった。冷たい豆乳を注ぎながら、自分の心を冷たい孤独で覆い隠していたんだと思う。
私、何してるんだろう。
そう呟いた夜、翌朝、私はひとつの決心をした。このままじゃいけない。未来は砂のようにこぼれていくけど、それをただ見ているだけじゃ、本当に全てを失ってしまう。私の人生を作るのは、周りの誰でもなく、私自身だ。
年が明けたら、何かを変えよう。大きくなくてもいい、小さな一歩でいい。でも、その一歩を踏み出さなければ、私は一生、同じ場所に立ち尽くしたままだ。
そう心に誓った瞬間、外の空が少しずつ白んできているのが見えた。新しい年は、もうすぐそこに来ている。