はてなキーワード: 直視とは
日本の戦争犯罪の記憶そのものを無かったことにしようとしている人たちはいて、それは国家の過去の罪まで自分たちが背負う必要が無いと考えるもの(無責任派)や、過去の罪を直視することのストレスに耐えられないもの(繊細派)、過去を忘れることの方が前向きで望ましいと思っているもの(健忘派)などがいるんだろうけど、やられた側はいつまでも覚えていたりするので、忘れましたってわけにはいかない
あれ、フェミニストでも何でもない一般女性から見ても違和感半端ないから叩かれてるんだけどね
そういう情報も「フェミの攻撃!」と一括りにしちゃう所が、自分と異なる他人の意見に耳を貸さない人間丸出し
夜中に映画観てボロボロ貰い泣きしたままカップ麺食べるような女性が、あんなおっとりゆっくりした仕草するって普通にあり得ないんだよね
・食事中耳に髪をかけるなんて面倒な仕草は、外出時に他人と食事する時ぐらいしかやらない
自宅ではヘアバンドやヘアゴム、ヘアクリップなどで髪が顔にかからないようにまとめる
・涙ボロボロ貰い泣き中は鼻水も大洪水なので、ティッシュ常備で頻繁に鼻をかむ
・「んしょ」「んっ」なんて謎の可愛らしい掛け声を出しながら一人で食事する女性なんていません
総じて、あのCMの女性像は「一人でくつろぐ一人暮らしの女性の様子」というより「彼氏、もしくは好きな男性と一緒に過ごしてる時に、相手に可愛く見られたい女性の様子」なんだよね
もしあのCMが、「可愛い女子が可愛くカップ麺食べてる様子」を見たい男性をターゲットにしてるなら、こんなに炎上などしなかったと思う
でも、男性版・女性版のCMがそれぞれ男性・女性の購買層をターゲットにしているという事なので女性たちがざわついてるんだよ
女性版CMのターゲットのはずの「一人暮らし女性」の解析度がここまでお粗末では、そりゃ炎上しない方がおかしいよねとしか
このCMを全力で支持している男性層は、男性向けの漫画やアニメなどで「男性が可愛いと思う理想の女子」像ばかりを見慣れて
それが世の中の一般女性のリアルな姿のはずだと勘違いしている人たちだろうね
そういう男性の方々は自分の理想を相手に押し付けたり相手の意見を頭から否定する事なく事実を直視する理性があるという点で、人間としての成熟度が高い人たちだなと思う
日本語読めない子かーとおもってたらタイムラインにわかりやすいいい絵がながれてきたから貼っとくね
https://x.com/yumi_vill/status/1891714049861198011
ついでにこれも
生まれた土地を捨てて都会に出ること自体は、個人の選択だし、生活や仕事を求めて移動するのは悪いことじゃないよ。だけど、そこには大きな責任が伴うってことを忘れないでほしいんだよね。
なぜなら、自分が生まれ育った土地から離れるってことは、その地域の社会や経済を支える大切な“担い手”のひとりがいなくなることを意味してるんだ。過疎化が進む地域では、一人ひとりの人口減が致命的なダメージになる。若い人が出ていくほど、地元に残る高齢者だけじゃ地域を維持できなくなるし、学校が統廃合され、商店街もシャッターが下りっぱなしになる。自分たちが子どものころ当たり前にあった風景が、気づけばボロボロになっていくんだよね。
それを「東京のほうが便利だから」「都会で夢を叶えたいから」といった理由で出ていくのは自由かもしれないけど、その選択の裏で誰かが困っている可能性も想像してほしい。そもそも都会が発展し続けるのは、地方から人も資源も奪い取っているからだし、その構造を支えているのは、地元を離れると決めた人たちの行動でもあるわけ。結局、その積み重ねが地方をどんどん衰退させて、東京や大都市ばかりに人口が集中してるんじゃないの?
もちろん、地方に残る選択がすべて正しいわけじゃないし、都会に出なきゃ仕事がないって現実もある。でも、「生まれた土地で生きる」ってことを放棄するなら、そのぶんの責任は負うしかないよね。自分たちの選択が、地元を弱らせているかもしれない、地元を見捨てる結果になってるかもしれないって事実は直視しなくちゃいけない。
もし「地元の将来なんてどうでもいい」「自分が良ければそれでいい」って思っているなら、そういう考えで地元を出る人が増えれば増えるほど、地方は確実に崩壊していく。その現実から目を逸らして「日本は一極集中がひどい」「地方創生がうまくいっていない」なんて批判しても、いやいや、その一端を担ってるのはあなた自身でしょうよ、って突っ込みたくなるよね。
結局、「生まれた土地を見限る」って行動には、快適な生活や高収入と引き換えに、地元を追い詰めるリスクを加速させる責任がセットになってる。地元を捨てた結果、あとから「戻る場所がない」と嘆くことにならないように、本当は一人ひとりが「自分の出身地や地域社会をどうしたいか」をもう少し考える必要があるはずだよ。
その重みを理解していれば、たとえ都会で暮らす選択をしたとしても、地元をどう応援するか、どう関わり続けるかを考えたり、何らかの形で還元したりできるんじゃないかな。そういう意識を持つことこそが、「生まれた土地で生きることを放棄した」人が負うべき責任だと思う。
例えば趣味のお笑いではラジオも聞くし好きな芸人のYoutubeの個人チャンネルとかも見るしもちろんM-1は毎年リアタイで見る。
ただ、これが本業になると話が変わってくる。
本業で第一線を走っている人を見ると嫉妬やらなにやらで直視できない。
本当は本業こそ色々なところを研究し勉強するべきなんだけど、本気になればなるほどその分野のことを見聞きするのが辛くなる。
キャリア的には大学までは第一線を目指せる経歴だったというのはあるだろう。
同期や後輩が華々しいキャリアを歩んでいるし年下の人が大成しているのを見聞きもする。
可能性があっただけにそういうのが本当に辛い。
野球選手が大谷選手の活躍を直視できないと言っていたり、COWCOWのよしがM-1を素直に見れないと言っていた気持ちがわかる。
きっとそういうのと同じ感覚だ。
周りの友達にも地雷発言多いし、フェミ馬鹿にし始めてきたし終わりやな
昔は何がフェミニズムなのか、説明を理解していた。理解する知能はある。だから自分を馬鹿とは思ってないんだよな。
ただ理解する理性よりも欲に負けるスピードが早い。SNSで手軽に流れてくるデマ記事にすぐ影響され、深く考えるよりも、深く想像するよりも、性的な妄想や面倒臭さ、自分が下だと認めたくない心、自尊心をくすぐる娯楽にすぐに屈している。
性的妄想はアドレナリンが出るらしく、それもまた抜けられない依存行為となっているから、ツイフェミで抜いたなどかなり倒錯している。
元から教養があるわけじゃなく、人の話を聞いただけの付け焼き刃なので、どの方向にも応用が効かない。
違うとこちらが説明した話については洗脳が解けるけど、日々新たな題材を拾って毎回洗脳されてくるからエンドレス
俺はフェミニストはいい事してると思ってるよwツイフェミが頭悪すぎて無理なだけw
他の話題でなら「自分は社会運動も何ひとつしていないのに頑張ってる他人を批判できるような立場には一切ない」を理解できるけど、
SNSのアンフェ記事をよく流し読みしているので、そのコピペのように、ツイフェミだけは腐すことに抵抗がないらしい。
正直、ご本人の方が頭悪いし、見た目は下の下の下だし、性格もすぐ欲に負ける高潔さのない人物だし、年収は工事現場で働いてるから悪くはないがいつまで続けられるかわからないし、
たぶん多くのツイフェミは彼から見たら全くバカにできるような相手ではない。
本当は、彼は、自分が、世の中の多くの人には逆立ちをしても勝てないということに気付いたんじゃないだろうか?
今までは若い子として沢山褒められてきたのに、今後の人生は、キモい金のないおじとして、かつて自分がキモい金のないおじを「おっさんきめえw」と蔑んできたように、蔑まれる存在になると無意識にリアリティを感じ始めたから、
ヒガミっぽくなって、
可愛くて人生が充実している存在に、妬みを感じるようになった心の穴を、ツイフェミ叩き記事が埋めたんじゃないか。
男っていいな、は、自分の無能を直視することにしかならないから心が物凄く痛い。
女っていいなコンテンツは、女を下に見るミソジニー文がもれなくついてきて「俺は無能」という痛みを緩和してくれるから、痛みなく妬みを振り回すことができる。
そういった無意識の心の動きが、暇アノンにぴったりハマったのだろう。
彼は、歳をとってきて自分の年収や将来の天井がリアルに見え始めたこと、
このままウダツの上がらない、キャリアもない、人からちょっとキモいと思われるオジサンになる未来にリアリティが生まれたこと、
似たり寄ったりの彼女ができて、彼女からイケメンとか褒められており、それを本当に信じ込んで自分を客観視できなくなったこと、
世の中の女はブスばかりだけど俺は結構いけてる(多分彼女がそう言っている)と思ってること、
付き合った彼女が性欲ブーストで世界一可愛く見えていること(世界一可愛いし一生大事にする、穴が無くなったらポイ捨てするけどね、もう要らないもん、と言っていた)
実際は普通
底辺男はモテないし結婚できないしどうしようもないということを実体験として実感していながら、
(彼女より可愛くないブスで性格悪くてヤバそうな)底辺女はなんでみんな付き合ってるんだ?
と思ってること
この辺がキッカケにはなっていたのかもしれないな。
仲間内のすげえ男を尊敬する文化はあるのに、女を尊敬する文化は弱いこと(定規がホモソ軸に強く歪んでいること)もあるかもしれない。
レジェンドの女、しごでき女、天才女がいても、その人は何らかの男(セクハラ、厄介ファン、嫉妬、無自覚破壊おじ、顔面採点おじ、愛人誘いおじ、関係薄ガチ恋チー牛、無料キャバクラ男、カスハラおじ、チャラクズ男、ナンパ男、中身は色々)がウザすぎるという理由で、
大体、男化するか気配を消すか女臭を強く脱臭している。才能があればあるほどそうなるようだ
だから「できる女を尊敬する」よりは「あの人を尊敬する」になっている。
女も、仲間内での人を尊敬する軸の中に「男を尊敬する」が自然に含まれてはいないと思う。
「スポーツできる男」は、本人が相当のスポーツ好きorスポーツやってない限りはなかなか尊敬する人には入ってこないだろう。
しかし例えばお金を儲けようとしたら、女の世界にも「仕事のできる男を尊敬する」が入ってくる。
女の尊敬は、男社会に染められるが、男の尊敬は、女社会に染められることがない。
男社会は金銭的利益に強く結びつくが、女社会は今の自分の欲求に直接必要になってこない。
そういったことも原因だろう。
まず、男性の方が加害行為に及びやすいという統計データは存在していて、これを指摘すると「男を悪者にするな!」と言う人がいるけど、事実を直視しないでどうやって問題を解決するというのだろう。
それに、データというの実際にあったことの積み重ねで、一人ひとりの男性からの被害体験があって、それらは否定できない事実で、それが積み重なることで主張が形成されてる。
誤解しないでほしいのは、問題としてるのは男性ではなくジェンダーだってこと。暴力的な男が「男らしい」とされ、感情を見せる男は「弱い」とされる。こうした価値観が加害を生む土壌になっている。そしてこの圧力は、男性自身をも苦しめている。「男は強くなきゃ」と抑圧され、マウントやパワハラが横行する。この構造を変えなきゃ、誰も幸せになれない。
また、「女性も加害する!」という反論もズレている。もちろん女性の加害も問題だけど、それが男性加害の話を否定する理由にはならない。
「全ての男性が加害者じゃない!」というのも、言われなくても分かってる。問題は、「俺はやってない!」と自己防衛することじゃなく、加害を生む社会構造をどう変えるか。一緒に考えられる男性が増えれば、それだけ社会はいい方向に向かっていくと思う。
自分としては、はてなで男性の加害性について論じたり体験を共有したりするのは有意義なことだと思うので、理不尽な批判は無視して継続していってほしいと思う。
はじめに
不動産売却を検討する際、無料で複数の不動産会社に査定を依頼できる「一括査定サイト」は便利だと認識されている。実際、売主が利用する分にはコストがかからないため、多くの人が「不動産の相場が上がってるらしいし、売る気はないけど使ってみるか」と軽い気持ちで使いがちだ。しかし、その裏側では、不動産会社が抱えるコスト負担や業務効率の低下が進み、場合によっては売主自身を含む社会全体に負の影響が広がる可能性がある。
いわゆる「バタフライエフェクト(些細な出来事が巡り巡って大きな結果を生む現象)」である。本稿では、この不動産一括査定サイトの構造を多角的に分析し、その副作用がどのように広範囲へ波及しうるかを論じる。
従来の一括査定サイトは、売主が査定を依頼すると1件あたり数千円〜数万円が不動産会社へ請求される「送客課金」を基本としている。売主は無料だが、査定依頼があればあるほどサイト運営側が収益を得るという構造である。すると、サイト側はとにかく多くの査定依頼を獲得することを至上命題とし、
など、見込み度が低いユーザーまで大量に集める方向へ動きやすい。
さらに、アフィリエイト報酬を目的にマ⚪︎ナビニュースやダ⚪︎ヤモンド不動産などの大手から弱小メディアまで「おすすめ一括査定サイト⚪︎選」といった記事が乱立しており、とにかく査定依頼に申し込むことを煽るような環境が構築されてしまっている。「できるだけ多くの不動産会社に査定してもらうために、複数の一括査定サイトを併用すべきだ」などというふざけた言及も散見される。
売主は「無料だから使ってもノーリスク」と感じがちだが、不動産会社側の負担増という目に見えないコストが確実に発生している。結果として、「誰もが一括査定を申し込む→不動産会社が膨大な数の“微妙な”リードに対応→営業コスト爆増」につながる。このコストは巡り巡って、社会全体に転嫁される危険性がある。
1.成約するわけもない高い査定額を提示し、媒介契約をまず取ろうとする(→ 売主を釣って契約し、“ダメだったら後で値下げすればいい”)
2.売主に対する営業や訪問を無理やり増やす(→ しつこい電話・営業でストレス大)
このような行動へ走りやすくなる。すると、売主は一見「高く売れるかも!」と舞い上がるが、実際には売れずに長期在庫→値下げのルートになりやすく、結果的に売主の不満も増大。
更に、不動産会社からすると「明らかに冷やかし」や「いきなりスパム連絡のようなリード」に課金されるのはたまったものではない。
•課金除外(営業しても成約見込みが低すぎるリードは請求を取り消してもらう交渉)
•内部でのリード精査
など、無駄な工数が増え、不動産会社の生産性は大幅に下がる。このコストはやがて不動産会社の人件費増大を招き、手数料などに上乗せされるリスクがある。
特に都市部の人気エリアなど、不動産会社が少しでもチャンスを逃したくない地域では、「一括査定サイトを介した高値合戦」が繰り広げられ、実際の市場価格を反映しない相場の混乱を引き起こす可能性がある。根拠の薄い高額査定や媒介契約の値下げ合戦→やっとの思いで媒介契約→結局査定額で売れない→時間だけが経過…というスパイラルが進行すれば取引が停滞し、市場に悪影響を及ぼしかねない。
不動産会社が“質の低いリード”に追われて疲弊すると、本来注力すべき顧客(本気の売却希望者や地元住民)へのサービスが手薄になる。
•対応の遅れ
結果として、地域の不動産流通がスムーズに進まず、空き家問題や老朽化物件の放置などに拍車をかけるかもしれない。
また、一括査定サイトの利用料を回収するために両手取引を試みて囲い込みするといった不誠実な対応も生じかねないと言えるだろう。
「相場から20%も離れたチャレンジ価格を提示され、こんなに高く売れるなら住み替えたいな」という過度な期待が、実需と乖離した価格帯に物件が溢れかえる状況を引き起こす可能性がある。これによって不動産市況全体の透明性が損なわれる。
売り出し価格を見誤った結果、買い手が見つからず値下げ、値下げ、また値下げで売り止め。誰も幸せにならない。無知な買主を謀ってチャレンジ価格の物件を紹介する不動産会社が出てくると、消費者の資金繰りや資産形成に影響を及ぼす。マクロ的には消費意欲の低下や不動産市場の停滞を招き、国全体の経済成長にもブレーキがかかるだろう。
経済学的観点から見ると、「売主が負担しないコストが不動産会社や他のステークホルダーに押し付けられている」 という構図は、外部不経済に近い。誰もが「自分だけなら大丈夫だろう」と思って無料サービスを利用し続けると、全体としては取引の非効率化や本来必要ないコストの発生がどんどん積み上がる。
そもそも諸悪の根源は、高値で売れると誤認するような広告を行う運営やメディアではあるが。
4-2. バタフライエフェクトのメカニズム
ほんの小さな「売主1人の冷やかし査定依頼」が、不動産会社の人件費増→業績低下→売却に失敗した顧客の不満→相場混乱…と、複雑な経路を通じて社会的コストを膨らませる。一括査定サイトの仕組みは、それが“拡散しやすい環境”を作ってしまっているわけだ。
おわりに
不動産一括査定サイトは、一見すると「売主無料でお得」「手軽に査定依頼ができる」という魅力的なサービスだ。しかし、“無料”の裏側にあるビジネスモデルが引き起こす過剰な営業コスト、高額査定の乱発、さらには市場の歪みや社会的損失に至るまで、問題の連鎖は決して小さくない。
このように、些細な“無料査定依頼”が不動産会社と売主、さらには不動産市場全体に負の波紋を広げるという点こそがバタフライエフェクトの恐ろしさである。本来は誰もがハッピーになるはずの「ネットで気軽に査定」の仕組みが、構造的な歪みを生むことを直視し、より健全な課金モデルや運営方針へシフトする必要がある。“無料神話”をただ享受するだけでなく、その背後のコストと影響を理解することが、すべての当事者に求められているのだ。
仰々しく書いたけど、諸悪の根源はやっぱり一括査定(というか、それを運営する会社やアフィリエイターの広告手法)だと思う。業者に失礼な反響しか寄越さないんだから、優良誤認を招く広告はやめなさい。国交相も広告規制した方がいいんじゃないか?"売らない主"も、一括査定の仕組みぐらい多少調べてから使ったらどうだい?査定申し込んだのにイエウーラナイなんて失礼じゃないか!
と、某所からの反響で腹が立った次第です。最近は成約課金のところもチラホラ出てきましたが、初期費用だけ取られて査定は来ないとかも聞きます。
自分の業界のことだから自分にとっては当たり前だけど、一般の人にはわからない無料サービスのデメリットってのはきっといろいろあるよね。完全成功報酬の仲介手数料ってのは中々シビアだなと改めて思いました。
結婚はしようと思っていた。けど、貯金0です。すぐにでも結婚してくれる相手はいます。でも貯金0です。
当時30歳。貯金0です。情けないですね。
貯金はない。なんならマイナスでもある。だから結婚したいけど、結婚できるかわからない。
まぁなんて魅力のないプロポーズなのでしょう。こんなんで結婚してくれた奥様は女神だと思いますよ。
まぁ金はないけど結婚はしたい。年齢的にももうこれ以上遅くできないなということで、色々腹をくくったわけです。
まず会社に相談。大ボスと話す機会を作ってくれ、その時なかった決算賞与ということで引越し費用に目処をつけてくれました。
中小企業であった弊社では、まぁそういう相談もあるだろうということで、その分のお金を常に用意していたそうです。
次に結婚式について。
まず予算をたてます。結婚式、披露宴。誰をどこまで呼ぶのか。お土産はどうするのかなど。
結果200万くらいなわけです。
まぁ当時見たこともない数字です。今でもあんまり見ない数字です。
次に、それぞれの親に相談です。
親族のみの結婚式をやろうと思う。ここであっておかないと、今後不幸事でしか合わないから、めでたい席でも用意したい。
席は用意したいのだけど、お金はない。ほんとない。
あてにするのも違うと思うけど、もし用意があるなら教えてほしい。そうじゃないと計画がたてられない。
ということで、各家から100万ずつ出してもらいました。
次に出産です。
今は色々支援があります。追加でお金が必要になることはあんまりなかったんじゃないかな。
無痛分娩希望だったから、42万の一時金じゃ足りなくて、20万円位追加になりましたけど、そこは大人の強い味方※クレジットカード
これは妻実家(お義母さん一人暮らし)ということもあり、立て直して一緒に住むということで、
相変わらず貯金は数百万円をうろちょろしていて全然増えては行きませんが、
なんとかなっています。
今の若者がお金がなくて結婚ができないということは多く語られていますが、
どちらかといえば、お金がないことで自信がなく、行動に移せないのだと僕は思っています。
僕はそうでした。
どうにもならないのは、相手であり、時間であり、つまりは年齢です。
ゲームも漫画もアニメも結局のところ強いやつが暴力で活路を切り開いて正義を主張するものなんだよ
暴力を完全に避けたら夢想家になるし、暴力を最小限にしたいのなら効率よく大衆を扇動し印象を操作しなきゃならない
以下、池澤夏樹の文学全集には出ていないが、重要な物や自分が読んだものについて書く。
川村裕子・訳注で読んだ。著者は藤原道綱母で、夫である藤原兼家に対して激しい執着が描かれている。当時の僕は報われない愛情を扱ったフィクションにどっぷりとハマっていたので、かなり共感的に読んだ。男性が通ってくるのを待たされる側だった女性の立場が見えて、あちこちに通う相手がいる光源氏に対しては「お前、お前お前お前!」以外の感想しか出てこなくなる。というか、藤原兼家みたいに、手紙やLINEはそこそこまめなくせに、会いに来ない言い訳もやたら細やかで、会ったときも会ったときで真面目な話をせずこちらをからかうばかりという男性、結構いるよな。モテる奴ってこんなのばっかってイメージがある(偏見)。
こういう時に面白いのは別の人の感想で、田辺聖子は先に書いた百人一首の本で、道綱母は夫を愛しているくせに、何をされても怒るかわいげのない女なのだと言っている。確かにせっかく通って来たのに寒空の下待たせちゃうんだけれど、つれない人に対してはそれくらいしてやりたくならないか。
田辺聖子と考えが違って面白かったのは、「儒教道徳は男女の色気のあるやり取りも批判して世の中をつまらなくする」って発言だ。「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」の解説で述べていたことだ。コンプライアスに厳しい時代の子である自分としては首をかしげるが、彼女にそういわせたのは、おそらく彼女の青春と重なった第二次世界大戦の空気だろう。
後半は道綱のなかなかうまくいかない恋路が出てくる。
余談だが、平安時代の著名人は大抵何らかの親戚関係がある。だから因縁話は大抵どこかとつながっているし、それなら言い出せない思いが積もり積もって怨霊や生霊の類が出てもおかしくない気持ちになってくる。
話を戻すと、どうしてモテたり権力を持った人ってどんどん嫌な奴になっていくのだろう。これは推測だが、人間が何か行動をしたとき、多少なりとも権力、少なくとも力を行使するのが理由だろう。力を行使して何かがうまく行くのは喜ばしいが、そのたびに堕落ポイントが蓄積される気がする。つまり、政治家であれ社会活動家であれ、世の中を良くしたという実感が少しずつ慢心に繋がっていく。かつては理想に燃えて清廉に悪を糾弾していた人が、どんどん人の話を聞かない・フィードバックを受け付けない傲慢な人になっていく。まっとうな批判を受けても、自分が正しいから叩かれるのだと思い込んでいく。そうやって晩節を汚していく。具体例がたくさん浮かぶと思う。
なので、自分が一番偉いわけじゃない、権力も何もなくて謙虚にならざるを得ないコミュニティに所属しないと、どんどんダメになっていくのではあるまいか。趣味も含めたコミュニティがたくさんないとおかしくなる。
人の話を聞かないことをテーマにしているのがカズオ・イシグロで、読むたびに嫌な気持ちになる。これは褒め言葉である。
元カレの弟(帥宮敦道親王)からアプローチされて、「手枕の袖」というフレーズで和歌を交換してイチャイチャして、遂に宮廷に迎えられるんだけど、巻末に帥宮挽歌群を持ってくるこの構成よ。悲しい。近藤みゆき訳注。
注釈者の解釈の精度と深さがすごいので、やっぱり自分は文学を研究することなど到底できまいと思わされた。どの節で和泉式部の感情がどう深まったかなどといった、字面を追ってしか読めない自分にはとても気づかないポイントが多数ある。所詮、自分は楽しむことが主である素人である。生活の種には到底できまい。
あまりにも気に入ったため、メモをした和歌が膨大である。いつか深い悲しみに沈んだときに読み返したら、喪失の痛みにグサグサに刺されながらも慰められるだろう。和歌集は読んでいて面白いのだろうが、短い解説文で背景が説明されているよりも、こういう物語の中に和歌が含まれているほうが、著者と長く付き合ってきた分だけ、心に来るものがある。古典は知を刺激する部分と情緒を刺激する部分があるが、これはかなり後者に寄っている。
やはり文学が好きだが、近頃はあまり読みたいとは思わないのである。久しぶりに三島由紀夫を手に取ってパラパラとめくっていたら、感情を揺さぶられて過ぎてしんどくなってきた。これは好きすぎで苦しいということなのかもわからない。好きすぎて近づけないとこじらせ文学オタクになってしまっているのか。三島由紀夫のことは、近頃は文章が人工的過ぎると思って遠ざけていたのだが、やっぱりこの人、マッチョな肉体の中の繊細な精神がいつもピリピリしているよ。好きだけれど、読み返したくない。でも、生きているうちに「豊饒の海」を読みたい。
ところで、僕はどうも女性の手による日記文学が好きらしい。ドナルド・キーンは日本人の日記好きを注目すべき事項だとしていたが、僕もその例に漏れない。日記を読み返すのは自己愛だが、いがらしみきおもぼのぼのの人生相談で「世界で一番面白い本は自分の日記」という趣旨のことを言っている。実際、何が自分に刺さったかを振り返ると、将来傷ついたときにどこに戻ればいいのかが見えてくる。
思うのだが、本を読む男性が文学少女に憧れるのにも、自己愛という側面がある。もちろん、同じ趣味を持っている人に親しみを持つのは当たり前だけれども、陽キャのような押しつけがましさがないと勝手に期待してしまうのだ。そういう風に、実際に相手がどんな人かを見ようともせずに、活字が好きだという相手の属性ばかり見ている。挙句の果てにそんな相手と深い理解に達し、イチャイチャしまくることに憧れる。そういう人間の恋がうまくいかないのは、今になって振り返ってみれば、残念ながら当然であろう(それでもうまくいく恋愛があるという指摘は無視する。認めないぞ、そんなものは)。だから、本は読むけれど優しくないタイプの女性に片想いをして、勝手に傷ついてきたことが何度もある。以下、自分の片想い歴や、彼女たちからされた非常に失礼な仕打ちを延々と書いたが、阿呆らしいのですべて削除した。客観的に見れば、当時の僕も結構痛い奴だったんだろう。わかっているが、恨みの気持ちはゼロにはならない。
やれやれ。こうしたひがみっぽい、すべて主語が「自分」になっている感覚をすべて卒業してしまいたい。こういうわかったような口のきき方も気に食わない。だからこうして、匿名でしか書けないような感情をあえて言語化し、脳内から叩き出す。こんな青臭い感情を二度と思い出さなくてもいいように、放流してしまう。
困ったことに、他人に批判的なことを書いている時にはやたらと楽しかった。悪口は依存性のある娯楽だとよくわかる。なので、この悪癖にハマらないよう、かなりの部分を削った。リクエストがあったら出すかもしれないが、原則としてお蔵入りにするつもりだ。そう、恨みつらみなんていくらでも反芻できる。やめよう、やめよう。
実際、これでもまだ意地悪な記述が多い文章だ。すっきりするけれど、かっこ悪いのでそうそう頻繁にやるべきことじゃない。
確かに、見苦しい愚痴をこうして捨ててしまうのが増田の使い方の一つではあるのはわかる。すべて吐き出せば身軽になれる。だから、こうして好きなことと嫌いなことをないまぜにした混乱した文章を書いてしまった。ひがみも怒りもドロドロした感情も、一度文章にすれば冷静になって振り返れる。
なんてみっともない文章だろうと思うのだけれど、書いていてこれは私小説の真似事なのだとわかった。かつて書いていた小説は、過去を変形して書き直し、つらい出来事に直接向き合わないようにするための緩衝材にしていた。あるいは、こういう恋がしたいという、ただの感傷マゾだった。だが、ここで過去を直接吐き出してしまえば、自分の感情と筆をコントロールできるようになり、新しく真っ当な小説が書けるのではないか。そんな夢想に浸りたくなる。
実際、今は過去の出来事よりも、今は自分の中の荒々しい本能や暴力衝動をどう扱うかに関心が移りつつある。あるいは、欲望や執着についてだ。読みたい本もこういうテーマの物に近づいている。混乱していた十代と二十代から、三十代を終えそうになって、好みが変化しているのが明白だ。今こそ、良いものが書けるときではないか。
最終選考の電話がかかってきたのに、そして編集者と話ができたのに、結局は小説家として芽が出なかった悔しさは、ときどき自分をこんな夢想の中に閉じ込める。だから、発作的にこういう長文を書きたくなる。
だが、若い頃は創作によって自分の感情を整理できたのは確かだけれど、ある時点で、僕はこのまま創作を続けてもどこにもたどり着けないのではないかという疑いにさいなまれるようになった。それよりは、虚構で変形されない事実を直視したほうがいい。事実を日記に断片的に書くことでさえ、ひがみ根性を薄れさせてくれる。小説に限らず、何かを言語化して分析するって本当に救済なんだ。
「結構読んできたな」と思いながらも、まだまだ読んでいない作品もかなり多い。大学時代から少ない年でも年に一冊か二冊くらいのペースで古文を読んできたので、そのペースなら生きているうちにもうちょっと読めるだろう。直近で気になっているのは(「カンタベリー物語」のように海外文学は別として)、池澤夏樹のリストにあったもの、神話物語、歴史書、それから江戸時代の物語だ。
まず、他のところでも述べた通り、「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」がある。特に「日本霊異記」はKADOKAWAが現代語訳を出している。それから、神話物語でいえば「風土記」がある。これも角川ソフィア文庫で出ているので読みたい。
歴史ものでは「大鏡」「栄華物語」がある。それから「吾妻鏡」も気になっている。この並びからは大河ドラマを想起するだろうが、あまり関係はない。とはいえ、自分は「ニンジャスレイヤー」が流行っているときにもまず「ニューロマンサー」に手を伸ばすような人間なのである。ただし、めっちゃ長い。
あとは「東海道中膝栗毛」。パラパラとめくったら、原文でもギリギリ読めそうな、しかし読むのには時間がかかりそうな、近い時代であるが故の厄介な文体であった。そう、なんでもいいので月に十冊は必ず読むという漠然とした目標など放棄して、精読したほうが良い読書ライフが送れるのだが、手を出すかどうか迷ってしまう。というか、これも含めて、原文で読むか現代語訳で読むかは迷う。なるべく原文に当たりたいのだが、池澤夏樹の日本文学全集の現代語訳が訳者の個性も含めて面白かったのと、意地を張って原文にこだわって、中身を浅くしか読めなかったら嫌なのとで、迷っているのである。
「好色一代男」「春色梅児誉美」もそのうち。寛大な気分のときになら、色男の生涯につきあってやっても良い。他の近松門左衛門とかも。
あとは、時間をかけて和歌を楽しむ。「万葉集」とか「新々百人一首」とか。
読書ログをたどりなおすと、自分がその時に何を感じていたのかを想起できる。読んだときの喜びも、読んだ当時感じていた閉塞感も、どちらも生々しく想起してしまった。だから、卒業したはずの怨念に対して、こんなに愚痴ってしまっている。
同時に、自分の感受性がゆっくりと時間をかけて変化してきたのもよくわかった。一つの強迫観念に凝り固まっている時には、何を読んでも同じ感想を持ってしまうのだろうけれど、十年かけていろんな本を読んでいくと、自分に起きた変化が見えてくる。これからも古典を読み続けるだろうし、さらに十年経ったらどんな感想を持つかが楽しみだ。
そして、自分にどんな変化が起きたか、いつかこれらの本を読み返して、確かめてみたい。
確かに、かつて読んだときほど心惹かれなくなってしまうことも多いだろう。現にあらすじを振り返っただけで、「なんでそんなにハマったんだ?」と感じるものあった。これは寂しいことだが、既に興味を失った作品があるということは、自分が変化したことを意味する。むしろ、生きていくにつれて成長していくのなら、興味がなくなる物が出てくるのが当然だ。この寂しさは歓迎すべきものだ。実際に、ある作品に心惹かれていた理由が、既に卒業してしまった不安だとしたら、当の作品が色あせて見えてしまうのも無理はない。個人的な収穫は、叶わぬ恋の歌だけでなく、生きているが故の寂しさを歌った歌に好みが移り変わってきたとわかったことだ。
叶わない片想いをするだけが人生ではない。ただ生きていること、目の前の相手に耳を傾けて敬意を払うこと、それが文学以上に自分を幸せにしてくれる。
そして、僕を大切にしてくれる人のことだけを考えて暮らしていきたいのである。これは創作よりも遥かに尊く、最も創造的なことだ。
以上。
のっけから申し訳ないのだが、自分は「古事記」を池澤夏樹訳で読んでいない。というか、この池澤夏樹の日本文学全集で読んだ本はほとんどない。しかし、池澤夏樹にはちょっと悪いのだが、リストとして便利なのでダシに使わせてもらった。
自分が最初に「古事記」に触れたのは神代だけを扱った子供向けの講談社青い鳥文庫経由でだ。次に読んだのが確か大学生の頃になる。文芸春秋社の三浦佑之が現代語訳したもので、古老が昔話をする形式で翻訳していた。現代人にはわかりづらいところを語りで補う、初心者に親切なものだった。
さて、内容だが、神話だけでなく、それ以降の歴史時代の記述も面白い。ヤマトタケル物語だけでなく、おそらく戦前は教えられていたであろう神功皇后の朝鮮半島への進軍を知っておくと、昔の人がどんな世界観を持っていたか想像しやすい。権力者の書いた歴史書を鵜呑みにするのは危険だが、歴史の一次資料に(翻刻・翻訳されたものとはいえ)触れるのは非常に楽しい。「学校で習う歴史の出典がこれか!」という素直な驚きがある。
もちろん神話としても面白く、考えてみれば今の皇室は天の住民と海の住民の両方の血を引いているという属性てんこ盛りである。他にも、イザナギノミコトとイザナミノミコトが夫婦生活をする際に「凸を凹に入れて子供を作りませんか?」「それは楽しそうですね」というくだりが何となく好きだ。性に罪悪感がないのがいい。もちろん、最初に生まれた子供ヒルコの描写は、今の感覚では身体障害者差別なんだけれども、後にそれが恵比寿様だということになって崇拝されるようになったのが、何となく流されたヒルコが救われた感じがして、結構好きなエピソードなのだ。捨てられた存在に新しい場所を用意してあげた後世の人の優しさみたいでね。
面白かったので「日本書紀」も確か講談社学術文庫か何かで読んだ。傍論としてさまざまな説を併記しているのが、物語ではなく歴史書の体裁をとっている「日本書紀」の特徴を端的に示していて面白かった。もちろん、これだけでは日本の神話は理解できない。中世の神仏習合や近代の国学、陰陽道などの展開を追わねばなるまい。しかし、その一歩を踏み出せたのはやはりうれしい。
ところで、「記紀」の記述を合わせて池澤夏樹は「ワカタケル」を書いたようだけれど、個人的にはピンとこなかった。「記紀」の文字に書かれたことや考古学的成果の内容とは矛盾しないが、むしろ史実から離れすぎないようにしたため、想像力が少し現実に縛られている気がしたのである。あとは現代中国語の「上に政策あれば下に対策あり」って言葉が引用されていたのに違和感があった。お分かりのように、僕は面倒くさい読者なのである。
「万葉集」は全然読んだことがない。というのも、巻数が膨大なためだ。僕は完璧主義なところがあり、読むならきちんと最初から最後まで読むべきだと感じてしまう。それに詩を読むのなら、一つ一つの詩をきちんと味わって理解したいのである。そうなると膨大な時間がかかり、そこまで詩に興味がない自分としては手が伸びない。ただし、自分にフォークナーを薦めてくれた友人は、「美酒をがぶ飲みするように、次から次へと詩を読んでいくのも贅沢でいいものだよ」とは言っていた。僕の場合、深く刺さった詩は、小説の中のぴったりした場面で引用されたときに出会っているケースがほとんどだ。やはり詩が多すぎると言葉の海に溺れてしまう。
「百人一首」は田辺聖子の解説で読んだ。それぞれの和歌や作者の背景を丁寧に、肩の凝らない文体で説明してくれているので、今でも時々手に取っている。王朝の人物史としても面白かった。田辺聖子とは評価する場所が違うところもたくさんあるけれど、脱線が楽しい。ちなみに、初めて百人一首に出会った小学校高学年のときには、もちろん恋の歌にばかり心が動かされたのである。「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。たぶん自分の感傷マゾというか、言い出せない思いをウジウジ、グツグツと自分の中で煮詰めて煮凝りにしてしまう傾向は、この時からあったのだろう。
ところで、王朝文学は世界的に見て女性作家が多かった時期だと聞いたことがあるのだが、調べてみると女性の句は二十一だった。半分くらいだと思っていたのだが、これは女性の句が心に残ることが多かったための錯覚だろう。
「新々百人一首」は未読だ。こうして記事を書こうとしていた時に調べたのだけれど、王朝の歌を二百種に絞って紹介してくれているらしいので、これはぜひ読みたい。昔ほど完璧さにこだわらなくなったし、こういうベスト盤みたいにピックアップしてくれると、きっと散文を好む自分も楽しめることだろう。丸谷才一はジョイスの翻訳で知ったのだけれど、文章のリズムが合ったから今から読むのが楽しみだ。
これらの本はすべて別の訳者で読んだのだけれど、こうして並んでいる訳者にそれぞれ馴染みがあるので、彼らがどのような翻訳をしたのか、ちょっと読みたくなってきた。ちょっと前までは「古典は原文で読んでこそ意味がある」という原理主義的なところがあったのだが、「源氏物語」や「太平記」が長すぎるあまり、開き直って現代語訳で読んでしまったため、最近はそこまで原文にはこだわっていない。今ではいい翻訳がたくさんあるので、普通に現代語訳でストーリーを味わってから、原文を楽しめばいい。このラインアップでは、個々の作家に対しても言いたいことがあるのだが、今回は省こう。
「竹取物語」は、幼いころに聞いた物語の原典を知る楽しみがあった。一番シンプルにされた絵本のバージョンだと、五人の貴公子の物語が省かれてることもあるし。そういう意味では、「御伽草子」なんかもちょっと読みたくなってきたな。
「伊勢物語」は短編集で、古典の授業で東下りを扱ったので前から気になっていた。ただのモテる男の話を読んだって楽しくないかもしれないが、一つ一つがごく短いのでそこまで嫌味ではないし、うまくいかななった恋物語もある。それに、古語で読むから現代日本語で読むのと違ってワンクッションある。僕は感傷マゾだったから、結局は恋の物語が読みたかったのだ。
だが、書かれているのは恋愛遍歴だけではない。「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしく君かな」「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため」。ほんとそれな。無理な願いだとわかっていても、大切な人には永遠に生きていてほしい。これらの歌に出会えたのは幸いだった。
なお、これを読んだ後に祖父を亡くしている。ほんとに、人間がいつまでも生きられないのは寂しいことである。なお、これも阿部俊子訳の講談社学術文庫で読んでいる。
他に当時刺さった歌を日記から書き写しておく。「思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」(そんな寂しいこと言わないで……)「心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるらむ」(それな)。たくさんあるのですべては書き写さない。
「堤中納言物語」は「虫愛づる姫君」で有名だけれども、例えば娘ではなくその祖母を連れ出してしまう話だとか、二人の男が誤った相手と契ってしまうとか、慌てて白粉ではなく墨でメイクしてしまう話とか、奇妙な話も含まれている。あとは手に入れることなど到底できないもので作った「ほしいものリスト」である「よしなしごと」とか。どうも物語に統一感がなく、どういう意図で編纂されたのかはよくわからなかった。これは笠間文庫で読んでいる。
「土佐日記」は小学生時代に塾の先生が「男のくせに女の文章で書いたのが紀貫之って変な奴」って紹介していたのでそんな印象がずっと続いていたし(子供にインパクトを与えて覚えさせるためなのと、当時は平成初期なのでこういう言い方をしていたのである)、文学史的にもそういう評価をする面もあるのだが、今は亡き子供の思い出を語る悲しい話なのである。道中の描写も素敵だし、ラストの「この原稿は捨ててしまおう」というくだりが、例え虚構であってもとっても好き。どうも僕は、一人の人間が読者を意識して書いたテキストであるという臭いが好きらしい。だからメタフィクションも好き。これは角川日本古典文庫で読んだ。図書館で借りたボロボロになった古い本だった。三谷榮一訳註。
「更級日記」はかつての文学少女が「源氏物語」をはじめとする文学への憧れを綴っているが、ラストのあたりで「自分の人生はいったい何だったんだろう」と回顧するので、僕みたいな作家になりそこなった文学少年崩れが、感傷的になりたいときなんかにオススメだ。内容をすっかり忘れているのだが、そこばかりが強く印象に残っている。
そして、「物語なんぞにうつつを抜かすんじゃなかった」的なくだりがある癖に、内容が技巧に富んでいるのだが、それはただの未練というよりも、そうした技巧で妄念を鎮めようとしたのやもしれないし、それもまたパフォーマンスかもしれない。小説家になりそこなった僕にはグッサリと深く刺さっている。よく「更級日記」は文学少女の物語だと言われているが、文学少女崩れの物語でもあるのだ。実際、興味深いことに「更級日記」では結婚、子供の誕生、両親の死という重い事柄が、ほとんど触れられていないのである。
それにしても、文学少年や文学少女はとても欲深い。彼らは現世で得られないものを書物の中から得ようとするからだ。そして、創作に手を出すのは、自分の持っていないものを魔術のように作り出そうとする更に深い欲がある人々だ。そして、僕はその欲望を愛していた。
ああ、そうだ。ここまで書いて気づいたのだが、恋だけでない、生きていてふと感じる寂しさを和歌にした作品が、僕はとても好きなのだ。
こういうのは個人のブログでやったほうがいいんじゃないかと思わないでもないのだが、辺境のブログでやってもあまり読者は集まらない。個人のブログを読んでもらうためには、ある程度自分をコンテンツ化する必要がある。言い換えるならば、一定の頻度で、ある程度の品質の記事を、独自色を伴って、継続的に生産し続けなければならない。なかなかできることではない。それに、この動画全盛期の時代に、どれほど文字を読む人がいるだろうか? また、首尾一貫したキャラで書き続けるのも面倒である。
一方、はてな匿名ダイアリーでは、文字を読むのが好きな人が集まっている。また、内容が有益であったり面白かったりすると、きちんと読んでもらえる。虚飾と権威主義真っ盛りの時代にあって、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」だけで評価されるという意味では、非常に居心地がいい。もちろん殺伐としているし、暴言も多いが、それを補って余りある素晴らしい点である。有益なまとめを書いたときは褒められ、的外れなことを言えば叩かれ、面白くなければ無視される。残酷だが、内容だけで毎回勝負するのは、文章を書くのが好きな人にとっては鍛錬の場になる。
なお、時折こうして個人的なボヤキを書く。あまりにも古典文学の紹介という話題から逸れ過ぎて、イケメン・モテ男に関する個人的な愚痴になってしまい、読者を笑わせるよりは暗鬱な気分にさせるであろう箇所はこれでもかなり削った。かろうじて残したのは文学に関係する箇所のみだ。
恨みつらみを向けている人や、気に食わない人はたくさんいるのだが、作家以外は実名では論じるつもりはない。名前を出して作品を批判することはあるが、その人の行いに直接何か言いたくなった時はぼかしている。己の負の感情を直視したい一方で、人にネガティブなものをぶつけるのは美しくない。だからせめて、こういう妙な義理を通したいのである。
それでも長い。気に入らなければ読み飛ばしてほしい。ここに書きたいのは古典文学の紹介であり、せめて日常感じていることであり、怨念の垂れ流しではない。ただし前回のように時折脱線しては管を巻くつもりだ。
続く。
藍硯が無理すぎます
ゲームキャラをこんなに嫌いになったのは初めてです。いくら悪役の博士でもこんなに嫌いにはなりませんでした。
最初立ち絵見た時は夢女子が作った固定キャラ(いわゆるコテキャ)みたいだわちょっと苦手かもくらいでした。そういうふうに自分を美化してコテキャ作るのがそもそも無理なのでその時点で若干の嫌悪感はありました。その後嘉明の幼馴染設定とか聞いてこれコテキャ作るの好きな夢女子が運営にいるんじゃ無いかって嘉明推しでも無いのに発狂しました。もし藍硯が去年嘉明と一緒に幼馴染として実装されてたならここまで嫌いにはなって無いです。単純にぽっと出の幼馴染が苦手で今度実装される夢見月瑞希も八重神子の幼馴染と聞いてちょっと嫌悪感あります。こちらは女の子同士だからまだ良いとして男キャラにぽっと出の女キャラの幼馴染作るのって運営はどういう気持ちなんでしょうか?
友人曰く藍硯のボイス幼馴染アピやばすぎて無理と聞いたのですがそういう要素ありますか?召使1凸狙ってたら藍硯たまたま出てきてしまったけれどボイスを確認する気になれません。藍硯の声優さんが好きなだけになんで他のキャラのボイスじゃないんだよりによって藍硯なんだと思ってしまいます。
あと中国のコラボかなんかで魈と一緒に描かれていましたが何でよりによって魈にしたんでしょうか。これまた私は別に魈推しでも無いですが魈推しって夢女子とか厄介オタクとか相当数いるのに炎上させにきているんでしょうか?
性能で言えばぽっと出の幼馴染ごときがいくら条件が揃えばとはいえ鍾離のシールドの硬さ超えちゃうの普通に意味わからないし許せないです。これもそれもどれも藍硯が仙人なら許せるのにどっかの編み物職人とかいうならほんとにどんなつもりでキャラ作ったんでしょうか?
動物に好かれてるとか黒髪とか口調がふわふわしてるとかシールド硬くて強いとか嘉明の幼馴染とか中学生夢女子が考えたコテキャ感満載で寒気すらします。海灯祭も藍硯が出てくるせいでストーリー進められません。オート機能で全部放置して画面直視しないようにしたいのに蛍の発言は自分で選択しないといけないから画面見ないといけないし苦痛です。無課金なので石も無駄にしたくないです。どうしたら良いでしょうか?
周りの原神プレイヤー男女どちらも藍硯嫌いって言っている人しかいません。女に嫌われるだけじゃなくて普段原神の女の子キャラ可愛い可愛いしてる男にも嫌われるって悪役でもないのに逆に凄いと思います。
持ちキャラの画面に出さないようにレベルを1人だけ上げずに恒常石も剥ぎ取らずにしておけば1番下になるのでそれは良いとしてこれからもストーリーに出てくるでしょうか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11310288546