はてなキーワード: 悪夢とは
でも、ある時期からポリコレに全振りし始めて、どんどんおかしな方向に進んでった。
最初のうちは「多様性の尊重」とか言って、キャラの人種や性別をいじるくらいだった。
まあ、それくらいならまだ許せた。
でも、そのうち「白人男性は悪」「既存の名作をポリコレ的に改変」とかやりだして、さすがに観客も「は?」ってなったわけよ。
「白雪姫」の実写版では、主演女優が「原作は時代遅れ!」とか言っちゃうし、もう何がしたいのか分からん状態になった。
観客が求めてるのは夢と冒険であって、ポリコレの説教じゃないんだよ。
「ストレンジ・ワールド」とか「マーベルズ」とか、信じられないくらいの赤字を叩き出して、ディズニーはどんどんヤバい状態になっていった。
株価も暴落、テーマパークの集客も低迷、もはや「夢の国」どころか「悪夢の国」だよな。
で、ようやくディズニーも気づいたらしい。
「ウィッシュ」はポリコレ臭が薄れて、ちょっとマシになったし、マーベル映画も「政治的メッセージ控えめ」にする方針になったとか。
ポリコレにかぶれる前のディズニーって、ちゃんと面白い作品作ってたんだから、そっちの路線に戻ればまた復活できるはず。
ここで変な欲出してまたポリコレに手を出したら、本当に終わるかもな。
昔からオンラインゲーで姫プしてるし、様々な場所で女アピしてうざがられてたし、同人屋は、DTP屋さんやら、CAD屋さんやら、IT屋さんやらの、PC触る人が多いかったからな
とりあえずADSL開始以前(2000年以前よりも前)から騒がれていた
はてなの文字リンク (コレ)→ 押し掛け厨 を順番に押すだけで飛べるぞ
最終的にはここへ導かれるはず
http://yoriyori.k-server.org/04_947_1.htm
947 名前:名無しさん@どーでもいいことだが。 投稿日:2000/10/06(金) 10:40
押しかけ厨房で尽くしたところで悪いんですがもう一話愚痴書かせて・・・。
今年の夏コミの悪夢です。夏コミ前にね、コピー本やる友達の手伝いをしに家を開けてたんですよ。私。翌日は楽しいコミケ、ペーパーも終わったし、張り切って行くか、と。
時間は夜の8時だったかなあ。駅から歩いて戻って、自分のアパートとマンションの間の子のような自宅へいそいそ歩いて来ました。私の部屋、三階の端なんですが、窓が明るいんですよ。電気消して行ったはずなのに、なんで?と思って慌てて部屋に向かったら、なんか・・・ドア越しに人の気配があるじゃないですか。気が動転しつつも慌てて鍵を開いたら、そこには見知らぬ四人の厨房が人の部屋で寛いでやがりました。・・・・ど、どうして部屋の中に勝手に入れたのよう・・・・。
12 名前:947 投稿日:2000/10/06(金) 11:22
有難うございました。では頑張って続けてみます。いやなお話ですが・・・。
混乱する頭を抱えながらとにかく私は部屋に戻り、電話をかけました。実家にです。
そしたら開口一番母に言われましたよ。「いやあ、あんたにもまともな友達がおったんねえ。○さん丁寧でしっかりしてて安心したわ」とかなんとか、心づけまで送ったらしく、完全に私が悪者です!どんな話を母にしたのかは、多分言わなくても皆さん想像がつきますでしょう(涙)。同人を快く思ってない母だったからなおさら。それでも「こんな勝手な話ってないよ」と電話を切り、私は後ろでたむろする厨房5人とその○を見て言いました。勝手なことをされたって泊める気はない。自分で散らかしたものを片付けてさっさと出て行って!!と。すると決り文句です。
○は○で心底分からないといった顔で
「友達にそんなこと言うの?まあ、あなたが言うなら彼女たちは出て行けばいいんでしょうけども」
・・・・あんたもよ!!彼女のわけのわからない理屈に眩暈を覚えながら
と言うと、彼女はむっとした顔で振り向き、打って変わって恐ろしい形相で彼女たちに凄んだのです。
「あんたたちみたいな子供と付き合うとどうなるかの証明よね。さあ、出てきなさい」
・・・って、あなたどっちの味方なんだろう。そして、今度は彼女と厨房たちの戦いになったんですよ。どういうこと!?
私は本当に暫くの間、罵倒し合う・・・というか、うお~んと泣く厨房よりも彼女が怖くて凍り付いてました(泣)。私に、301さんの元彼のような知り合いがいてくれたら・・・・。でも、いないし自分でなんとかするしかないんです。
1990年代半ば、九州大学病院(九大病院)は病院情報システムの全面刷新を計画していた。従来の断片化したシステムを統合し、最先端のオブジェクト指向技術を全面採用した次世代システムに生まれ変わらせるという大胆な構想である
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。入札条件にも「純粋なオブジェクト指向技術で実現すること」を掲げ、業界内でも前例の少ない大規模プロジェクトに挑むことになった
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。この計画に応札した日本IBMは、開発言語にSmalltalkを採用し、社内外からオブジェクト指向開発の専門家を総動員する。日本IBM自身のチームに加え、Smalltalkの豊富な経験を持つ多数のシステムインテグレータ各社が協力企業として参画し、一時期は約200名もの技術者が開発に従事する巨大プロジェクトとなった
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。医療現場からは「21世紀を先取りするシステムになる」という期待の声が上がり、IBM側も「国内最高峰の病院に最新技術を投入できる」と意気込んでいた。誰もが、この試みに大きな希望を抱いていたのである。
プロジェクトは1996年、本格的に動き始めた。九大病院の情報システム担当者たちは、院内各部門から新システムへの要望をヒアリングし、「新システムへの要望リスト」を作成して日本IBMに提示した。しかし、その内容は具体性に欠けていたと言われる。「実現したい業務の全体像がはっきりしていなかった」のだ。病院側は約1,400床を擁するマンモス病院ゆえ、部門ごとの意見をまとめ上げ全体方針を打ち出すことが難しく、提出された要件定義書は「中身はほとんどなかった」と関係者は振り返る。一方の日本IBMも、その不十分な要件定義を十分詰め直すことなく開発を進めようとし、この問題を放置してしまった。プロジェクト序盤から、実は大きな不安の種が芽生えていたのである。
それでも当初の計画は極めて野心的だった。フェーズごとに順次システムを稼働させる計画で、第1次カットオーバー(最初の稼働開始)は1997年1月と定められていた
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。限られた時間の中、日本IBMと協力各社の開発チームはオブジェクト指向の新手法に挑みつつ、多数のサブシステムを並行開発するという難事業に取り組み始めた。しかし要件の曖昧さは各所で影響を及ぼす。開発メンバーの一人は後に「実際にはオブジェクト指向の入り口にさえたどり着けなかった」と語っており、肝心の新技術を活かす以前に基本事項の詰め直しに追われる状況だったという。
1997年初頭:見えてきた遅れとすれ違う思惑
年が明けて1997年になると、第1次稼働予定の目前になっても開発は難航していた。結局、日本IBMは1996年10月末になって九大病院側に「当初予定の1997年1月にはシステム稼働が間に合わない」と突然伝えることになる。これは病院側にとって青天の霹靂であった。代替策として「一部機能に範囲を絞れば1月稼働も可能」といった提案すら無く、一方的に延期が告げられたことに、病院担当者たちは強い不信感を抱いたという。プロジェクト・マネージャー同士の密なコミュニケーションも欠如しており、延期決定前から両者の意思疎通は十分でなかったようだ。これが最初の綻びとなった。第1次稼働時期は当初計画より9カ月遅れの1997年10月へと大幅に後退する
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。
この延期表明を境に、現場は混乱に陥る。病院側は日本IBMだけに任せておけないとの思いから、一部の協力会社と直接組んで独自にプロトタイプ開発に乗り出すなど、プロジェクト体制は分裂気味になった。一方、日本IBM側の士気も下がり始める。ある協力会社メンバーは「これほど求心力のないプロジェクトも珍しい」と当時を振り返り、リーダーシップ不足だったIBMの姿勢に驚いている。複数の外部企業(延べ10社以上)が関与する巨大プロジェクトでありながら、日本IBMは1997年10月頃まで一貫して主導権を握れずにいた、と多くの関係者が指摘する。誰がハンドルを取っているのかわからないまま巨艦だけが突き進む――そんな不安定な状況であった。
事態を重く見た九大病院と日本IBMは、1997年2月から6月にかけて要件定義のやり直しに着手する。一度作成した要件定義書を更地に戻し、業務フローも含めてゼロから整理し直す作業だ。しかしこのリカバリーにも時間を要し、プロジェクトの遅延はさらに広がっていった。「ようやく問題点に光を当て始めたかに見えたが、時すでに遅し。気づけば頭上に厚い雲が垂れ込めていた」と語る関係者もいる
。プロジェクトは先の見えないトンネルに入り込み、関係者の心にも次第に不安が募っていった。
1997年春:一筋の光明 – オブジェクト指向データベースの導入
混迷を極めるプロジェクトに光が差し込んだのは、1997年春のことである。要件定義の立て直しと並行して、日本IBMはシステムの技術基盤を強化すべく重大な決断を下した。従来のリレーショナルDBではなく、米国GemStone Systems社のオブジェクト指向データベース(ODB)「GemStone」を採用する方針を固めたのだ
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。GemStoneはSmalltalkとの相性が良いことで知られ、オブジェクト指向開発との親和性が高い製品である
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。この採用決定に伴い、GemStone社から複数名のコンサルタントが来日しプロジェクトに参加。停滞していた開発体制の再整備が行われた
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。経験豊富な専門家の助言により設計も見直され、チームはようやく開発の目処を掴み始めたのである
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。
病院側もこの動きを歓迎した。長引く遅延に業を煮やしていたものの、最新のODB導入で性能や拡張性の課題が解決されるならばと期待を寄せた。協力各社の技術者たちも「ようやくトンネルの先に光が見えた」と胸をなでおろした
。現場には久々に前向きな空気が漂う。遅れを取り戻すべく、再結集した開発チームはスパートをかけた。システム全体のアーキテクチャをGemStone前提に再設計し、失われた時間を埋めるため懸命な努力が続けられる。巨大プロジェクトは今、再び軌道に乗ろうとしていたかに見えた。
しかし、その光は長くは続かなかった。1997年7月初旬、プロジェクトに再び試練が訪れる。日本IBMとGemStone社との契約交渉が突如決裂し、参画していたGemStone社コンサルタント陣が全員帰国してしまったのだ。肝心のGemStone製品も利用不能となり、頼みの綱を断たれた開発チームは一瞬にして暗闇に放り込まれた。まさに「悪夢のような出来事」であった。
7月20日になって、日本IBMはようやく協力各社を集め緊急説明会を開いた。日本IBM側の説明によれば、「GemStoneとの交渉決裂は企業(日本IBM)の根幹に関わる問題による」という。詳しい理由として、契約書の条項に**「システムのユーザー等が何らかの理由でGemStone社を訴えた場合、メイン・コントラクタである日本IBMが全ての法的対応を負わねばならない」といった内容が盛り込まれており、日本IBMはこの重い責任リスクを受け入れられなかったのだという。さらに料金面でも折り合わず、3カ月間におよぶコンサルタント8名の派遣とソフトライセンス料などに数億円近い費用**を要求されたことも判明した。法的リスクとコスト高騰――企業として譲れぬ一線を越える契約条件に、日本IBMは最終的に「ノー」を突きつけた形だ。だが、それは即ちプロジェクトの生命線を断つことを意味していた。
この報に接した開発現場は騒然となった。GemStoneを中核に据えて進めてきたアーキテクチャ設計を一から練り直す必要が生じたためである。ある協力会社の関係者は「この時点でプロジェクトの失敗を覚悟した」とまで語っている。大黒柱を失ったチームには動揺と失望が広がった。折しも夏本番を迎え、福岡の空は照りつける日差しに覆われていたが、プロジェクトには再び厚い雲が垂れ込め始めた。
GemStone脱落という非常事態に対し、日本IBMと九大病院は必死のリカバリーを図る。1997年8月上旬、急遽代替のODB製品としてフランスA.D.B社の「Matisse」を採用する決断が下された。Matisseは国内では知名度の低いODBだが、日本でも過去にSmalltalkアプリケーションのデータベースに採用された実績があり、「何とか使えるめどは立つ」と判断されたのである。
しかし代替品とはいえGemStoneとMatisseでは機能に大きな違いがあった。GemStoneで可能だったサーバ側でのSmalltalk処理実行がMatisseではできず、セキュリティ機能も貧弱だったため、開発チームは不足分を自前で作り込む必要に迫られた。この結果、システム全体の設計をクライアント中心処理へ大幅に変更せざるを得なくなり、再び設計の手戻り作業が発生した。炎天下での再出発である。エンジニアたちは寝食を忘れ、懸命にコードを書き直した。
その甲斐あってか、1997年9月末の時点で第1次開発の主要部分を年内に実現できる見通しが立ったという。一度は暗転したプロジェクトにも、わずかながら光明が見えた。病院側も「何としても年内稼働を」という思いで支援を続ける。だが、このとき水面下では別の動きが進んでいたことを、現場の多くは知らなかった。
1997年10月9日、事態は最終局面を迎えた。この日開かれた会議で、日本IBMはSmalltalkによる開発断念と、マイクロソフト社のVisual Basic(VB)への全面的な方針転換を突如宣言したのである。晴天の霹靂とも言えるこの決断に、現場は凍りついた。幾多の苦難を乗り越えようやく目指してきた最先端技術での構築を諦め、当時広く普及していたVBという「オブジェクト指向ではない」開発ツールで作り直すというのだ。九大病院が当初求めた**「純粋なオブジェクト指向」**という条件にVBが合致するかは議論の分かれるところだが
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、病院側ももはや背に腹は代えられない。最優先すべきはシステム稼働そのもの――この苦渋の転換を受け入れる以外になかった。
実はこの決断に至る伏線は存在した。日本IBMは1997年4月頃から密かにVB採用の可能性を九大病院に打診しており、さらに8月頃からは段階的にSmalltalk担当エンジニアを現場から引き上げ始めていたという。ある協力会社のメンバーは「裏ではVBによる開発をすでに進めていたようだ」と振り返っている。つまりGemStone交渉決裂後、表向きはMatisseによる巻き返しを図る一方で、日本IBM本体は別動隊でVB版システムの構築に乗り出していた可能性が高い。振り返れば、日本IBMにはSmalltalkに固執しない理由もあった。同社は翌98年2月の長野冬季オリンピック向けシステムをSmalltalkで構築しようとして失敗し、結局VBで作り直したという“前歴”もあったと伝えられる。アトランタ五輪(1996年)では自社Smalltalkツール(VisualAge)を投入したものの、国内の大型案件では苦戦が続いた経緯があった*4。豊富な人材がいるVBなら「最後は人海戦術で何とかできる」という計算も働いたようだ。GemStoneとの契約不成立も、IBMにとっては結果的にSmalltalkを断念する良い口実になったのではないか――協力会社メンバーの一人はそんな憶測さえ口にする。
方針転換の発表とほぼ同時に、Smalltalkで開発を担っていた協力会社の大部分はプロジェクトから撤退することになった
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。10月中旬には、多くの外部技術者が病院を後にしている。自ら招いた転換とはいえ、日本IBMにとっても苦渋の決断であった。投入したリソース・費用は莫大で、一からVBで開発し直すのは会社としても大きな後退だ。しかし背に腹は代えられない状況まで追い詰められていたことも事実であろう。IBMの現場責任者は病院側に深々と頭を下げ、「必ずや残された方法で間に合わせます」と約束したという。九大病院の担当者も沈痛な面持ちで頷き、「形はどうあれ、患者さんに影響を及ぼす前にシステムを動かしてほしい」と絞り出すように告げた。
以降、日本IBMは自社内のVB技術者や、自社が持つ病院向けオーダリングシステムのパッケージ製品*5などを総動員してシステム構築を続行した
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。データベースも、当初IBMが提案していながら見送っていた自社のリレーショナルDB「DB2」を採用する公算が高まった
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。もはやオブジェクト指向の夢を追う余裕はない。現実的かつ確実に動く仕組みを、一刻も早く届ける――プロジェクトはその一点に向け再編成された。かつて200名近くいた開発陣は大幅に縮小され、構成メンバーも一変する。病院の看護師スケジュール管理など一部のサブシステムは、撤退しなかった協力会社が細々とSmalltalk開発を続けていたが、その姿はもはや主流から外れた存在となっていった
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。ある古参の協力技術者は去り際に「全力を出して戦う前に、白旗を上げてしまったという感じがする」と寂しげに語ったという。こうして九大病院プロジェクトの第1フェーズ――オブジェクト指向技術による野心的挑戦のフェーズは幕を下ろしたのであった。
VBへの方針転換後、九大病院の現場には複雑な空気が流れていた。病院スタッフにとってシステム刷新は長らく待ち望んだ悲願だったが、その中身は当初聞いていた「最新技術の結晶」から一転して、従来型の技術で作られるものになってしまった。「結局、夢物語に終わったのか」という落胆の声も一部にはあった。しかし同時に、「多少古くてもいい、とにかく業務を改善する仕組みを早く動かしてほしい」という切実な声も強まっていた。目指すゴールは変われど、一日でも早く新システムを稼働させ、慢性的な業務負荷を軽減することが現場の切実な願いとなったのだ。プロジェクトチームは日夜作業を続け、簡易な操作研修なども始めながら、年明けまでの稼働に向け突き進んだ。
そんな中、1997年11月3日付の西日本新聞朝刊一面にこのプロジェクトに関する記事が掲載される。タイトルは「九大病院システム未完 巨額費用に批判」。内容は「九大病院はシステムが未完成にもかかわらず日本IBMに月額4,250万円を支払い続けており、税金の無駄遣いとの指摘が出ている」という衝撃的なものだった。同日、このニュースは地元RKB毎日放送(東京ではTBS)のテレビニュースでも報じられ、九大病院プロジェクトは社会問題として一気に世間の注目を浴びることとなった。院内では「患者そっちのけで何をしているのか」といった批判も耳に入るようになり、大学本部や所管官庁からの問い合わせも相次いだ。追い打ちをかけるように外部からの視線が厳しくなる中、病院とIBMはただひたすら開発を前に進めるしかなかった。
結末:プロジェクトの結末と残された教訓
1998年初頭、紆余曲折を経た九大病院の新システムは、当初の構想とは似ても似つかない形でようやく一部稼働に漕ぎつけた。日本IBMは多数のVBプログラマを投入して力技でシステムを完成させ、旧来システムの置き換えを順次進めていった。最終的に納入されたのはSmalltalkでもオブジェクト指向DBでもなく、Visual BasicとリレーショナルDBによるシステムだった。かくして九大病院の「純粋オブジェクト指向システム」への挑戦は事実上の敗北に終わった。現場の医師や職員は、当初期待された華々しい先端技術の恩恵を受けることはなかったが、ひとまず業務に支障のない情報システムが手に入ったことで安堵するより他なかった。プロジェクトは当初の理念を捨てて現実路線へ舵を切ることで、なんとか沈没だけは免れたと言えるだろう。
振り返れば、この失敗の背景には最新技術への挑戦ゆえの困難もあったが、それ以上に古典的とも言えるプロジェクト運営上の Permalink | 記事への反応(0) | 21:29
いちばん古い記憶は、妹が生まれたからというので、会いに行った日のこと。5歳差だから、多分6歳の記憶なんだと思う。コットに寝転がってる妹の小さすぎる手のひらをつついてみたら、ぎゅうっと人差し指を握り返してくれた。思い出すたびに不思議な気持ちになってたけど、最近は涙が出る。わたしが家族というものを何となく理解したのはその時なんだろうと思う。
決して不幸では無い人生だった。
親は正直な気持ち引くほどの年の差で結婚して、私が小学校に上がるときはもう離婚していたけど、その後は父親と祖母が妹2人含めた私たち3人を育ててくれて、私に関しては大学まで行かせてもらえた。今だってきっと気にかけてもらえてる。祖母は歳なのに元気でいてくれているし、父もとっくに定年退職しているのに自営業を祖母から受け継いで働いている。
何不自由ない、私は幸せだ。幸せに暮らさせてもらった。そう思い続けていたけど、なにかがおかしいかもしれない、みたいなことを小学生の後半くらいから感じ始めた。
全然不幸じゃないし、不自由も無いはずなのに、なにかがおかしい。みたいな自分の問題を実感し始めて以来、過去のトラウマみたいなのが思い起こされるようになった。
父親と母親が言い合いをして、涙を流す母親がしきりにごめんなさいと言っている横で、母方の祖母が、「この子(次女)だけでも置いてって!」と泣き叫んでいる光景。
父親が私を叱るとき、「この家はお前のものじゃない」と言いながら頭を叩いてくる光景。
鍵の付いていない子供用のトイレで用を足せと言われて、その光景をクラスの人達に眺められる光景。
地震が怖くて地鳴りがする度に泣き叫ぶ私と、それを見て笑う誰かの光景。
緊急地震速報を聞くと体が動かなくて、テレビ画面をただ凝視することでしか恐怖に打ち勝てないから、涙が止まらなくてもそうするしかないと思い続けて震えている光景。
おとなたちの罵詈雑言と、子供たちのすすり泣く避難先の住まいの夜の光景。
実家の大掃除をしていたら、母親の日記に、私を妊娠したことを結婚に漕ぎ着けるために言う、なんて書いてあったような気がする光景。
あと、まあ、思い出す時は色々。
こういうものを思い出すと、いつも体調がおかしくなる。私って幸せなはずなのにどうしてこんなことを思い出して泣いてるんだろう。
もう何十年も前の話なのに。気丈なふりをしていただけなんだろうな、とようやく最近になって気づいてきてしまったのかも。
なんでこんな昔のことすら乗り越えられていないんだろう。おかしくないはずなのに。私は幸せなはずなのに。なんでこんなこと思い出して苦しくなってるんだろう。
一度家族ではない人と暮らしてみたことがあった。正確には居候させてもらってただけなんだけれど。
外の人の常識が私には無かった。知らない事ばかりだった。というか、知らない世界に住んでる人みたいだった。それを実感したらどんどんトラウマみたいな光景がたくさん思い浮かぶようになった。
夜寝ている間にふと目が覚めて、自分がどこにいるのか分からなくてものすごく取り乱して泣いてしまうみたいなことが増えた。
とりあえず目を瞑ってみれば休んでることになる、と言われたけど全部気休めだった。でも普通の人はこんなことにならないって知らされた。私が異常なんだと思った。こんなに恵まれてるのに、こんなに幸せなはずなのに、そんなふうに振る舞えない私がおかしいんだと思った。わたしが変なんだと思った。
そんなことを思ってたら、鬱病になってた。
死にたい気持ちに駆られたことがなくて、死にたい気持ちに襲われて怯えることもない人がこの世界にいるって、本当ですか? と、先生に聞いて初めて自分がものすごく欠落してるってことに気づいて絶望した。
おかしくないよ、大丈夫だよ、とか、おかしいよ、でも、なんでもいいから。なんとなく私の気持ちを優しく撫でてくれるものが、どこかにあったら違ったのかな、と、思い返すことがある。
私はやっぱりおかしいんだろうか。こんなに恵まれているのに、ふとした瞬間に怖いと思った記憶がフラッシュバックする。私はどうして人を喜ばせられないんだろう。いつまでこんなことをしなきゃいけないんだろう。
ある日、ずんだもんは職場の上司に「今日は大事な飲み会があるから、絶対に参加しろ」と言われたのだ。
ずんだもんは飲み会とかあんまり好きじゃないのだが、「断ったら面倒なことになりそうなのだ……」と思ってしぶしぶ行くことにしたのだ。
そして、居酒屋に到着すると、なんと会社の偉い人がいるではないか!
ずんだもんは「まぁ、おとなしくしていればいいのだ」と思っていたのだが、気づいたらその偉い人の隣に座らされてしまったのだ……。
最初は「君、かわいいねぇ」とか言われるだけだったのだが、次第に肩をポンポンされたり、腰に手を回されたり、明らかにセクハラな行為が増えてきたのだ!
ずんだもんは「これはアウトなのだ」と思い、逃げようとしたのだが、一緒に来ていた上司や同僚たちは何も言わず、むしろ「じゃあ、そろそろ帰るか」みたいな空気を出していたのだ!?
「おぬしたち、何をしているのだ!? ずんだもんを置いていくのか!?」と思ったが、みんな「頑張ってね」とか言いながら、そそくさと帰ってしまったのだ……。
「いやなのだ! ずんだもんは帰るのだ!」と強引に立ち上がったのだが、相手はしつこく「まあまあ、もうちょっと飲もうよ」と腕を引っ張ってくるのだ……。
その瞬間、ずんだもんの中で何かがプツンと切れたのだ。
そして「もうこんな思いはしたくないのだ……! 強くなるのだ!!」と決意し、自衛隊の入隊試験を受けることにしたのだ。
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政治家様と学者様と教師様に置かれまれしては、最悪コネ入社で社内でお客様扱いでも良いので、会社員として一律強制で一般人と交わったほうがいいです
流石に身内しかいない特殊なチームに身を置くのは無価値ですが、忖度されつつも一般人と共に働き、多くの国民がどのように賃金を得ているか実体験で学ぶのは非常に大切です
一般社会との隔絶は、国民生活とかけ離れた政策や発言につながるからです
しかし、一般のご家庭のやたらコミュ症のお子さんがクリエイター職志望の場合、社会人経験は必須ではないと思います
むしろ、無理に社会に出ることで、社会や労働に対する偏った認識というか被害妄想を持ってしまう可能性があるからです
給与は二の次として、「働くってこんなに簡単なんだ😌」という成功体験を与えられる場合にのみ、社会人経験を積めるよう親が導いてあげると良いと思います
それを与えられないなら、どんなにスローペースでも、たぶん技能だけ上げていた方が遥かにマシだと思います
「技能が人並みになっても、対人能力や社会人としての常識が身につかないのでは?」という懸念はもっともですが、
やたらコミュ症のお子さんの場合、会社員として働いても、それらを身につけるのは非常に難しいことが殆どです
やっぱり、ネットにいくらでもその実例が転がっているので、納得するまで実例の確認をすれば良いでしょう
精神の健康を損ない、自信だけすり減らして、技能もまったく身につかないとか、マジで悪夢そのもなので、
まずは技能を磨き、人並みのラインに並ぶ、理想は人よりもやや上のラインに立つことが大切です
とりあえず、技能が人並みになっていれば、職場で誰か一人くらいは親切にしてくれる、理解者が現れる可能性が非常に高まります
ちなみにこれは、知的障害のあるお子さんが正社員を目指す際の一般的な戦略にも通じる考え方です
新卒研修・新人研修で会社に育ててもらうとかいう幻想は捨て、ある程度育ってから社会に馴染んでいってもらいましょう
学校に行けないとか以前に、家から出るのも大変なレベルだと、流石にどんな親でも気づいて専門家に相談したり、対策を打つみたいですが、
なんとかギリギリ学校くらいはイケる風だと、親が子のコミュ症のレベルの認識を見誤るとかあるので、マジで気をつけてあげて欲しいと思います
専門学校の先生も技能の伝達が仕事でメンタルフォローが仕事ではないのはわかるけど、
高3のときにかかった統合失調症について自分の身に起こった症状を経過とともにまとめておく。まず秋の三者面談で担任に友達がいない=それだけコミュ力がないことを指摘された。
当時官僚に憧れていたが、そのことを知っていた他人は学力もそうだがそこを改善したところでその社交性の無さをどうにかしなければどうにもならないことを言ってきたのだ。
それに私は心底動揺したようで、母によれば帰りの電車でチック症状が出ていたらしい。そこから、受験勉強も頑張りつつ立派な人格者になろうと奮起したことでだろうか、だんだん行動と思考がおかしくなっていく。
柄にもなく今まで話したことも無いような生徒に話しかけるようになる。記憶力が良くなったような気分になる。化学式が水を吸い込むスポンジのようにすらすら頭に入っていく気分だった。
実際少しは記憶力が上がったのかもしれないが気分の部分が大きかったように思える。気分が高揚し何故か授業中でも教科書に書かれた偉人を模写するようになった。
普段の私は不器用な方で模写などできるようなタチでもなく、したとしてもゆっくり書いても線は歪にるし顔のパーツのバランスも元のようには書けなかったはずなのだが、そのときはなぜかさらさらと筆が運んだ。各パーツの境界等を線ではなく元の絵通り濃淡で表すなんて普段の私にはできないことを普通にしていた。数学の教科書のガウスを描いたときが特に印象に残っている。風邪でもないのに熱が出て学校の中で倒れるということが起こるようになった。何度か親に送り迎えされることがあった。
私は中学のころまでは学校の人間をいじめていたことがあったのだが、急にそのことを思い出し心底恥じ入る気持ちになり号泣した。そして旧友がどうなっているのか訪ねに行った。受験生なのに何をしてるのかと思うだろう?私にもわからない。
塾の特別講座や模試を受けに都心に行ったときはひどいものだった。湯島聖堂に行って人が引くような感服をした。ピンクのハトを見て神がかり的な力を感じてしまった。(ピンクのハト自体は幻覚ではなく写真に残っているしそもそもそこまで珍しいものではないと思われる)
興が乗りゲームセンターに行ってヴィクトルーパーズというゲームを体験する。プレイ時に自分の反射神経に関して今までとは違うものを感じて全能感を感じた。
そして確かリフレクビートみたいな音ゲーを他人がプレイしているところの画面をなぜかタッチした。当然苦言を呈された記憶がある。でもそのときの自分は意に介していなかったと思われる。
夜になっても秋葉原を闊歩してあるときは自分の腕力に自信を感じ筐体を動かせるかどうか試していた。
今思えば実際は持ち上げていたのではなく引っ張る程度でなんの腕力の証明にもなっていないのだがあのときはこう理詰めで考える力を失っていたように思う。
釣り合わないおっさんと若い女性が一緒に歩いている姿を見て、犯罪の匂いを感じ制裁してやろうとか思った(今思えばコンカフェのサービスに過ぎないだろう)。
街中で大学生と思しき数人の男女の組を見つけて話しかけて自分の志望大学について語る。あのときは普通に対応されたけど陰でやばい奴認定されていたのではないか。
道路にポスターが筒状に丸められたものが落ちていて、アキバでの土産として持ち帰るつもりだったのに、振り回したり膝に当てて曲げたりしていた。思考の滅裂が伺える。
結局その夜は終電を逃し、教科書等が入って10kgになっているリュックを背負ってほとんど休まず冬の夜を始発まで歩き続けていた。それは冬に露地で寝たら凍死するという、ここだけはまだ高校生としてまともなイメージによるものだった。
その最中、座って休んでいたときはとめどなく出てくる感じの英語を、どうせ誰もいないからと気持ちよく口に出した。まるで通訳ならそういう境地であるかのように、自然に英語で思考が言葉として頭に浮かんでくるのだ。これも今までにないことだった。今までの学んだことの蓄積が一気に爆発的にアウトプット可能なものへと昇華されたような感じだ。第三者がいないので、これが実は文法が滅茶苦茶だった空喜びだ可能性もある。
そうして家族には捜索願を出す迷惑をかけさせるなか帰宅した。保護入院のXデーは近い。またあるとき横浜へ行くと、キャリアになるような人間は高い志を持っていなければならないという心境で、ゴミ掃除をした。受験生なのに。
掃除しているところを見たお巡りさんから未来の官僚様へというふうな感じでブラックサンダーと栄養ドリンクをもらった記憶がある。ということは自分の希望進路をこの警官に行ったことになるのだが、だとすればこの警官の労いは奇妙な行動をする学生を生暖かい目でからかうことを意図したものだったかもしれない。自宅の近所に1000年前からあるという由緒のある神社と正一位の神格がある寺院に目を付け、この地域は稀に見る神聖な土地なのだという気持ちになる。
またその影響からかこのころから神のお達しを感じるようになったり(幻聴ではなくテレパシーのような感じ)自分に女性キャラクターが乗り移ったような感覚が現れることが起こるようになる。口調も普段から変わってしまう。
当時の社会情勢の悪さを神的なものとに結びつけ、寺社に赴いた記憶がある。おこがましくも何かを助言した記憶がある。別に神職者だって宗教を信じてないことが多いのに本物のやばい奴が来てしまったという感じだろうな。
マムシ=蛇の出没も神的なものと結び付け両側が藪の道を木の枝を下に向けて振り回しながら歩く。当時の本人にはマムシを追い払うことでマムシが持つとする瘴気を払うことを意図したものだろう。
またあるときは公園で木の枝を持ってこれが神風だという感じで大げさに振り回す。あくまで高校までの化学の知識から着想を得た「核戦争にも耐えられる強化外骨格」の設計ラフを書いた小切れなどを河原にばらまいたりもした。
夜寝てもすぐ起き上がって漢文がひらめくことが多くなりまともに寝なくなる。当時の自分としてはそれが漢文のいい訓練になるものだと思っていたことを覚えているが、志望大学は漢文の比重が重いものではないので、ほとんど無駄だったと思われる。
滑稽なのは四声も知らないのに(いや受験生としては問題ないんだが)漢詩等を次々書いて悦に入っていたことである。文法はともかく古代中国語として韻律のめちゃくちゃなものだった可能性が高い。
でもこんなことをしていたのには訓練以上に、漢文に書かれた思想に感じ入っていたところも大きい。
おかしくなった私の目標は立派な仕事に恥じない人格者になることだった。そして湯島聖堂に行ったときに孔子の深遠さに衝撃を受けた。
もちろん孔子自体は以前から知っていたが、偶然「聖地」を見つけ赴いてしまったことで、自分なりに感じた霊験あらたかさに、彼と彼の思想がいっそう素晴らしいものに感じるようになってしまった。
普通の受験生にとっては教材でしかない漢文から仁徳を感じ取るたびに感動し、過去の不徳な自分と対比して大泣きして大真面目に反省するという情緒不安定も起こっていた。
電車で、密着して二人の世界に入っている男女に話しかけたりもした。今考えれば当然のガン無視をされた。しかしやっぱり躁状態になっている私は誰とでも話せる人間になろうという思いが強かったのか意に介さないのである。
テレビでちょうどやっていたイスラム国関連のニュースの映像を見たときとてつもなく怖いものが見えたように感じ体を丸めて怯えたような記憶がある。あの心理状況はどういう原理だったか。
イスラム国はどうにかしなけばならないという義憤を感じてツイッターでアラビア語?で検索してイスラム国関係者と思しきツイートに直接リプライしたり、また当時の漢文にハマっていた自分らしくSNSのアカウント名を「莫歯牙(しがない)○○」をしたりそこで椅子子羊(イスラム)なる言葉を使って打倒を呼び掛けていた記憶がある。
世界中から反響があった感覚があったが、実際はただ日本人以外からなにがしかのリプライが来たと言うだけで、数としては数件に過ぎなかったのではないか。
でも当時は確かにカバオコピペのように「今までにない熱い一体感を感じ」ていた。
テレビのイスラム国に関する報道が自分の行動とリンクしているようにも見えていた。自分が世界に影響力を与えている気分になっていた。
調子が悪そうなことをした親に総合診療科に連れられたこともあり、そこで血液検査をしたらCK値の上昇が認められそこで筋肉が壊れてきていることを指摘された。
冬の夜通しの闊歩が祟った結果だと思われる。とはいえ今思うと自衛隊員は数十キロの装備を身に着けることもあるし、強力(ごうりき)はそれこそ100kg近くを背負って運搬するわけだから、ちょっと虚弱過ぎやしないかと思う。
しかし当時の私は筋肉が壊れるほど肉体を酷使している自分に対してこれまた全能感をこじらせ酔っていた記憶があるから滑稽だ。
また当時気になっている子がいたのだが、学校帰りに駅前のブティックに足を運んで何万、何十万かするビロードのような服を品定めしていこともあった。
そういう服を対象にしたのはすっかり自分が上流の人間の気分になっていたから。
そして将来は官僚になってこういうものを好きな子にプレゼントするんだと店員に息巻いていたと思う。
近くの受験が見えなくたって遠い不確定の可能性の低い将来を前提とした行動をとる、まさに統失仕草だったと思う。
卒業間際好意を伝えたときやんわり振られるオチまでついている。
こうしていろいろあって親は養護教諭に電話相談して、精神科への入院を勧められ、私の同意のもと保護入院することになったのだった。
※ブコメから知ったこととして保護入院とは家族の同意のもと行われる強制入院の一つだという事実があるが、私の場合入院したいか、それとも受験するどうかをあくまで私の意思を尊重する形で家族に確認されたため、法的なことはともかく実態としては任意の入院なのだった。
そこで統合失調症という診断が下されたが、診断名は変わる可能性があると言われた。
統合失調症は全段階として6か月未満の統合失調様症状というものがあり、中学のときのエピソードして、自分は悪魔になってしまったという発言や、ナイフの図鑑を買ったりポッカキットで処刑映像を見ていたことを統合失調症の期間として含めるべきかをはっきり判断できないからだということだそうだ。まあ今思えばさすがにこれはただの中二病だろうと思うが。
なお、記憶力や模写等脳の能力に関しての向上を記述したが、これが統失の症状としてあり得ることだったのか、私固有の現象だったのかはわからない。
統合失調症は服薬し続けず「治る」ケースがごく稀な病として有名だが、幸い私は薬も飲んでないが上記のような明らかな妄想も出ることなくただの発達障害(医療機関による診断済み)として暮らせている。
いろいろなことをした、「記憶はある」が、なぜそうしたのか今の自分では全く理解できないことが、過去あったその妄想と現在の現実を区別できる能力が回復している何よりの証拠だと思う。
ほんとう、記憶はあるが秩序のあるものとして理解できず、記憶を記録するにあたってはただあったことを羅列しているだけという気分が拭えないという部分は朝起きる直前の夢に似ているような感じがする。
この長文を書いたのは、統合失調症は脳機能の低下を起こすから患者になったことがある人本人に「書ける」人が少なく、このような本人直筆の体験談は貴重と考えたためで、使命感を持って書いた。
(使命感とかいうとまだ統合失調症が治ってないだろとか言う人が出てくるのかなと思いつつ)
【追記】
実はあれから既に十年以上経っている。
もし統合失調症が治っていない状態で薬をやめていた場合はだいたい長くとも1、2年で、もっとひどい状態で症状がぶり返すのが通例だ。
脳機能も一度目の急性期後より格段に落ちると聞いている。壁に自分の排泄物を塗りたくるようなレベルの廃人になるということだ。
しかし私は御覧の通りこうして記事が書ける程度の理性や知性をいまだ残せている。
それは、薬の副作用にアカシジアというものがあって、その、四肢の気持ち悪い感覚が苦痛だったからだ。
今も、断薬の承諾を得た精神科医本人から三か月おきに診察を受け経過を見てもらっているので、統失が治っていないということについては心配しないでほしい。
その医者の対応に対する違和感を書いてもらって思い出したが、それ以上に著しい倦怠感や思考の鈍麻が起こっていたことについて親が見兼ねたというのが大きかった。
統失の治療薬のイメージとしては躁的な症状をもたらす過剰な神経物質をブロックするというものだが、このころは既に陰性期あるいは寛解状態にあった。
つまり健康体の人間に投薬するのと変わらない状態で、症状を相殺するのを通り越して過度のドーパミン不足を誘発したのかほとんど寝たきりで毎日を過ごすような時期があったのだ。
こんなところにいたら殺される(滝山病院の例もあるので大げさな考えとは思われない)と心配した母親が担当医の忠告、「お母さんあなたも精神病ではないか」という苦言を振り切って入院期間を繰り上げたのだった。最初の急性期を見て薬を処方した入院先で断薬許可をもらったわけではなかったのだ。
ただセカンドオピニオンでかかった他の大学病院の医者も、以前のその病院の処方薬や量の内容を見てこれは多すぎると言っていたようだ。
今かかっているクリニックはこれらの統合失調症や発達障害の診断やそれに伴い我が家庭ではどう対処してきたかという経緯を理解したうえで、基本的にこちらの考えを尊重しときには睡眠の習慣を整えるためにロゼレム?を服用してはどうかと言われては、悪夢を見るから嫌だ、いやこれは他の睡眠薬と違って悪夢は見ないよ、でもちょっと抵抗があるから見送らせて欲しいとかああだこうだ忌憚なく相談できる関係性を築いている。
模写した絵などは残っていない。というのも数年前まで私の部屋は受験期にコレクションした参考書がずらりとならぶ、いかにも子供部屋おじさんの極致にあるような有り様だった。
しかし親に、いい加減高校時代のことに固執してもしょうがないだろうと、絵も描かれたノート類とともにすべて処分することを催促され、応じるしかなかった。化学の新研究とかぐらいは、通読してみたかったなと思っていたのだが。
絵の証拠写真を挙げないのでは一連の記述が創作と思えて仕方がないこと、もっともなことだ。信じる人が信じるだけでもこれ幸いというものだ。
少し退院後のその後の事を書くと、まず予備校に入って再度大学を目指そうとした。
しかし当時の自分は統失の余波か薬の副作用か大変疲れやすく、体験授業後にチューターには母の口から、授業中にも寝てしまうことも有り得ることが伝えられた。
また数か月か、あるいは一年ほど経った頃だったか、入院中も見舞ってくれた担任が定期的に会いに誘ってくるようになった。
と、このあたりのことを書くと俺がどこ高校出の誰かか特定される可能性が1%ぐらいは出てきてしまうと思っているのだが、そうなったらそうなったらでこの記事が創作でないことの証明にもなるわけなので、気にせず書いてしまおうと思う。
そうして職業訓練校を目指すことになった。その訓練校が試験で出す問題と同レベルのSPIとかの練習問題を解いた当時の自分としては、問題自体は大学受験とは雲泥の差の易しさだが、それでも油断はできなかった。
統合失調症と長い間机に向かっていなかった影響で、筆記スピードというあくまで肉体面の要素が著しく落ちていたからだ。
そんな私にアドバイスしてくれたり、数学の先生だったので、私が趣味で取り組んでいた数学に話を合わせ付き合ってくれた。
それに前後して北里か東海大(ここ記憶が曖昧)や、クリニックの児童精神科医にセカンドオピニオンを仰いでいた。
そこでいわゆるウェクスラーを受け、言語性IQが130で動作性が90前後という結果だった。その大学病院が役所に提出する用の親展の封筒を、やっぱり使わないと親が開けて見てしまった中身の書類の記述によると、大変頭の出来がいいというニュアンスの表現でべた褒めする内容だったそうだ。
言語性IQなんていかに成人向けに最適化されたテストといえど受験期等の蓄積で簡単に高成績が出る脆弱性がありそうでならないと私は思っているので、これは私より圧倒的に優秀な大学教授の心の余裕から来るリップサービスのようなものではないかと今は分析している。でも認知機能のテストの一種か何かで、100から次々7を引いた答えをどんどん言ってくださいという問いに自分なりになるべく速く答えたその反応に対しても早い早いと言っていたから、まんざら嘘ではなく、そういうことを総合してなのかな。
ともかくもしこの書類を出していたら障害者手帳の申請は通らなかったからこれでよかったということを親は言っていた。申請に使った診断書等はクリニックが書いたものだったと思う。そのクリニックだが今は児童精神科専門になってしまい、私のような大人の発達障害や統合失調症を受け入れなくなってしまったと風の噂で聞いている。dorawiiより
恥ずかしながら「小説」というものを、国語の授業以外で自発的に読むことがほぼ一度もない人生を送ってきた。文字だけで何百ページも続くメディアというのは、自分で言うのもなんだがデジタルネイティブにはハードルが少し高い。
だが一年ほど前からふと思い立ち、小説にちらほら手を出してみた。その結果はというと、
…なんだ、小説、おもしれえじゃん。
と、あっさり手のひらを返すことになる。
以来、これまでの食わず嫌いを後悔しつつ、各種ランキングの上位作品を中心に小説を読みふける幸福な日々が続いた。
その勢いで、SNSでも小説関係者をフォローしてみようかな、という気になった。
正直これまでは、小説家という存在自体をほとんど意識していなかったが、検索をかけてみるといるわいるわ。自分がこれまでに読んだことのある作家は、たいていがアカウントを持っているようだった。
この人たちをフォローしておけば、きっとこれから小説を読むことがもっと楽しくなるはず…
などと思ったのが大きな間違いだった。
長いこと小説を読まずにいた間にも、小説家には知的・理性的なイメージだけは自分の中に無駄にしっかりと存在していた。あれだけの長さの文章を書けるんだから、立派な人格と脳みそを備えていらっしゃるんだろうと。
だが、SNSで見た作家たちの姿は、その幻想を粉々に打ち砕くものばかりだった。
素人である増田から見ても、えっ、そうなの?と思ってしまうような違和感のある豆知識をやけに自信たっぷりに語るので、気になって検索してみたら、トンデモ系のサイトからの引用だった。
自作についた低評価レビューに対し、読者の読解力・読書量の方に原因があるという愚痴を延々と垂れ流す。
時事問題について党派性全開で、しかしどこかで聞いたような陳腐な意見を強硬にドヤ顔で主張(一応言っておくと、右も左も、フェミもアンフェ、親AIも反AIも、全て両方あった)
よく、作家にとって作品は自分の子供ですとかいうけど、そういうレベルの話ではなくて。
どう言えば伝わるかなあ。あくまでたとえばの話ではあるけど、
『ボクの作品の中のこのイケメンキャラが好きということは、ボクに抱かれてもいいってことだよね…?(ネットリ)』
と迫ってきそうな気持ち悪さがある。うわー、想像したらキモくなってきた。キモキモキモ。
どっからどう見ても自分を良く見せるための嘘エピソードに、さすが先生ですね~と同業者や読者が追従リプを送っている光景は、悪夢としか言いようがなかった。
…小説家のヤバさについては、まだまだいくらでも語れるが、キリがないのでこのぐらいにしておこう。
当然ながら他の種類のクリエイターにも、似たようなヤバい人は当然ながらいる。たとえば漫画家系でいうと、篠………とか、木………とかは、まあヤバいよね。
でも、小説家の場合はその割合が異常すぎる。体感で、6~7割は超えてるぞ。
この話を、同人活動をしてる知人2人に相談してみたところ、顔を見合わせて「あー…」「ね…?」と意味深な態度を取った。
そんな曖昧な回答で許すことなく問い詰めると、同人の世界でも、マンガより文章で活動してる人の方がちょっとアレな確率が有意に高いらしい。なんてこった。
何が原因なんだろう?
絵や音楽などに比べると、技術としての文章執筆は具体性がなくフワフワしたところがあるから、そこにヤバみが入り込む隙があるのだろうか。
小説家が悪いのではなくSNSが人を狂わせるのだ、とも言えるかもしれないが、それにしてもあんな醜態を見てしまったら、増田にはもう現代作家を積極的に読む気にはどうしてもなれなかった。
今は、SNSをやっていないことが確実な作家、つまりインターネット普及前に死亡した作家を中心に読書している。価値観や言葉遣いの多少の古臭さに目をつむってでも、この安心感には代えられない。
増田は現代作家を読む機会をほぼ永久に失ってしまったけど、これから小説を読み始めようかなと思っている若い人たちにはくれぐれも忠告をしておく。
このニュース、本来であれば大騒ぎになって然るべき、いや、特集が組まれてもおかしくないほどの衝撃的な内容なんだけど。。。
なのになぜか世間は静か…。この異常なまでの無関心さこそ、今の日本が抱える深刻な問題を如実に表してるね。
・まず、住宅ローンなど借金関連の金利が上昇する。多くの国民の生活に直撃。夢のマイホームが遠のき、既にローンを抱えている人々は返済額の増加に苦しむことになる。
・次に、国債の利払い費が増加する。つまり、国の借金である国債の利払い費が膨張するってこと。日本の財政は既に火の車。利払い費の増加は、更なる財政悪化を招く。これが何を意味するかは言うまでもないね。
なぜこのような状況に陥ってしまったかというと、日本の膨大な財政赤字。
長年にわたるバラマキ政策、少子高齢化による社会保障費の増大…そのツケが今、一気に噴出しようとしている。
この危機を回避する唯一の道、それは「財政再建」。まだ1.25%のうちに断行しなければ、本当に取り返しのつかないことになる。
激痛を伴ってでも断行せねばならない。もう時間はない。
このまま財政赤字を放置し続ければ、いずれ日本は財政破綻の危機に直面する。
そうなれば、ハイパーインフレ、通貨の暴落…まさに悪夢のような未来が待ち受けているのは明らか。
今本当にすべき議論は、減税の話でも給付金の話でもなく、今の日本の詰み具合と財政再建の必要性の話。
見た感じ外見全然変わってないね。スペック上げただけのプレステ路線って感じだな。本当に普通のバージョンアップって感じ。
これダメだなー。売れるだろうけどダメだと思う。世界的規模としてはメチャクチャ売れるだろうけど俺は要らない。
だってみんなもうスイッチ飽きてるでしょ。飽きた人がこれ見てよし買おう!とはならんでしょ。WIIU政権の悪夢を彷彿とさせる。
お母さんに見せても説得力無いじゃん。「全く一緒じゃないの!持ってるじゃないの!」って絶対言われると思う。
一目見ておっ!って感じるのが無いよね。スイッチ2にはそれが無い。山内が見たらこんな焼き増し出してんじゃねえよってブチ切れると思う。
で、価格49800円位なんでしょうねきっと。売れるだろうけどこんなぬるい事やってたらプレステと同じく衰退すると思う
※思った感想書いてるだけなんだけど。どこをどう見たらこれでプレステ工作員だと思うの?ゲームハードの文句言うと絶対豚が飛んでくるから怖い。とんでぶーりん
最近、どうも調子が狂うんだ。いや、前から狂ってたのかもしれない。だって考えてもみてくれよ。この国は一体どうなってるんだ?右を見ても左を見ても、敵だらけじゃないか!
朝起きたら、テレビでは偏向報道。コメンテーターとかいう連中は、したり顔で偉そうに持論を展開してるけど、どいつもこいつも薄っぺらいんだよ!もっと骨のある議論をしろ!…って、あれ?俺は何に怒ってるんだ?
そうそう、それでな、最近夜も眠れないんだ。目を閉じると、頭の中に色んなものがグルグルと渦巻いて…。日の丸が旭日旗になったり、竹島が燃え上がったり、挙句の果てにはパヨクの皆さんが楽しそうにBBQしてたり…。
いやいや、パヨクのBBQは別にいいんだ。むしろ微笑ましいまである。問題はその後の展開だ!なぜか俺が丸裸にされて、ケツを鞭でしばかれてるんだよ!しかも、しばいてるのが屈強なパヨクのお兄さんたちなんだ!
最初は「やめろ!」って抵抗してたんだけど、だんだん快感になってきて…。いや、違う!これは夢だ!悪夢に違いない!
…と、飛び起きるんだけど、なぜか体は火照ってるし、心臓はドキドキしてるし…。一体俺の体に何が起こってるんだ!?
もしかして、これが噂の「目覚め」ってやつか?いや、違う!これは単なる寝不足だ!そうに違いない!
…と、自分に言い聞かせるんだけど、どうしてもあの屈強なパヨクのお兄さんたちの顔が頭から離れないんだ…。
ああ、パヨク様!どうか俺のケツをしばいてください!そして、真実を教えてください!この狂った世界で、一体何を信じればいいのかを!
世界がね、そこで閉じるんだよ。
アラフォーの壁があるんだ。
可能性の果てみたいなのがグイーっと立ち上がってきて世界の輪郭が変わる。
そんな悪夢を頭の後ろでいつも見ている。
見下ろす夜の大都会、どこへ飛び降りようかと上から目線だった頃の自分が、気づけば摩天楼を見下ろし二度と届かない空の遠さを思い路地裏にその身を横たえる。
そんな夢を見るんだ。
ああ、俺の人生はもうすぐ檻の中だと。
肉体の檻、生まれの檻、才能の檻、そんな自分の内側にある檻の中で藻掻いていた日の温さを思う。
年収が1000万円を超えた同級生、仕事を楽しいと語る同年代の友人、もう彼らになれることはない。
つまらないつまらないといいながら平均収入ギリギリの仕事を毎日続ける。
貯金は笑える程にない。
酒に消えたのか?
作り方がもうわからない。
俺の人生が閉じていく。
ただ、閉じて、冷えて、輝きを失い、終わる。
人生の終わりが始まる。
長い長い下り坂だ。
生きながらに下る黄泉平坂だ。
振り返るな。死ぬぞ。
何も見るな。足元だけを見ろ。
そしてゆっくりと降りていけ。
死に向かって降りてゆく。
人生の後半が始まる。
何も生み出せず、何も勝ち得ず、真面目に生きてきたと口先ばかりで語りながら怠惰に過ごしてきたツケの精算。
恐怖しかない。
この先の世界の冷たさに心が慣れてしまえば、もう何も動じないだろう。
死に向かい足掻く日々が、死の受容が始まる。
判決が下るのだ。