はてなキーワード: 発症とは
私はブラック企業勤務から適応障害を発症し、5年たって今に至る。
アルバイトを続け、ちょっとずつ社会復帰に頑張ってきたつもりだが、父親にとっては飯食らいで家にいる私は邪魔だというわけだ。
その通りだと思う。生活費は入れているがかといって多いわけでないから、いられると迷惑なのだ。
でも私だって別に実家で暮らすのが快適なわけじゃない。毎日顔を合わせればいつ働く?今日もバイトはないのか?
そりゃ毎日働けたらいいけど、それができないから困ってんだろうが。同年代が活躍する中自分が働けないことは誰よりも一番自分がつらいんだよ。
そんなことを毎に毎日毎日言われるんだ。つらくないわけがない!!
働かないことを揶揄されるのは本当につらい。こんな家とっとと出ていく。別にいまの時代田舎であればフリーターでも暮らせないわけじゃない。
なので私は就職してこの家を出ていく。
たまに仕事を休んだ時にあーだこーだ言われたくない。二度と人生に関わらないでほしい。
なすことすることにいちいちいちいち何か言われるのは本当に不愉快だ。
この家にいるだけでメンタルに良くない
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7268563/
結果:
1歳未満でのワクチン接種は、以下の健康状態の発症リスク増加と関連していました:
発達遅延(オッズ比 [OR] = 2.18、95% 信頼区間 [CI] 1.47–3.24)
喘息(OR = 4.49、95% CI 2.04–9.88)
中耳炎(OR = 2.13、95% CI 1.63–2.78)
四分位解析では、対象者は1歳未満に受けたワクチン接種回数に基づいてグループ化されました。接種回数が多い第3四分位および第4四分位のグループでは、いずれの健康状態においても、第1四分位(接種回数が最も少ないグループ)と比較して高いオッズ比が観察されました。
時間的解析では、発達遅延のリスクは、6か月、12か月、18か月、24か月という年齢のカットオフが増加するにつれて線形的に増加しました(OR = 1.95、2.18、2.92、3.51 それぞれ)。また、診断のための観察期間が3歳以上から5歳以上に延長された場合、すべての健康状態でやや高いオッズ比が観察されました。
結論:
この研究では、調整されていない観察データに基づいたオッズ比の計算のみが可能でしたが、ワクチン接種群では非接種群に比べ、発達遅延、喘息、中耳炎のオッズ比が高い結果が観察されました。小児期のワクチン接種に関連する健康影響の全体像を理解するには、さらなる研究が必要です。
結果:
9歳の子ども47,155人の保険請求データを分析した結果、以下のことが明らかになりました。
ワクチン接種は、測定されたすべての神経発達障害(NDD)の発症リスクを有意に増加させることと関連していました。
早産で生まれた子どもでワクチン接種を受けた場合、39.9%が少なくとも1つの神経発達障害と診断されました。一方で、早産で生まれたもののワクチン接種を受けなかった場合では15.7%でした(オッズ比 [OR] 3.58、95%信頼区間 [CI]: 2.80, 4.57)。
自閉症スペクトラム障害(ASD)の相対リスクは、ワクチン接種を含む診療訪問回数に応じて増加しました。ワクチン接種のための訪問が1回のみだった子どもは、ワクチンを接種していない子どもに比べてASDと診断される確率が1.7倍高かった(95% CI: 1.21, 2.35)。一方、ワクチン接種のための訪問が11回以上だった子どもは、接種を受けていない子どもに比べてASDと診断される確率が4.4倍高かった(95% CI: 2.85, 6.84)。
結論:
これらの結果は、現在のワクチン接種スケジュールが、複数の形態の神経発達障害(NDD)に寄与している可能性を示唆しています。また、早産とワクチン接種の組み合わせは、ワクチン接種を受けていない早産児に比べてNDDのリスク増加と強く関連していました。さらに、ワクチン接種を含む訪問回数の増加は、ASDリスクの増加と関連していました。
また友人を失うかもしれない。
原因ははっきりしているのだけれど、それの帰責性が自分にあるのか相手側にあるのかが分からず(もちろん自分では自分に責めを負うべきところがないと思っているのだが(あれば治すし))、また、失いそうになっている。まァ帰責性の存否にかかわらず関係の維持は可能だとは思うが、これは後で検討する。
はてな匿名ダイアリーを初めて利用するのは、決してアドバイスや共感を得たいわけではなく、ただ文章に直す作業がしたかっただけなので、この文章に関しては一切の責任を負わないし、二度と思い出すこともない。
筆者は2002年生まれの現役の大学生で、一年、浪人している。関東出身。男。彼女はいない。いたこともない。最近オナホを買って心底がっかりした。冷たかった。東京の山手線の内側の狭い部屋で一人暮らししてる。社会科学系。専攻している分野が世間的にはマニアックなので、人との交流は少なく、一週間で会話することがあるのは先生(教授)と、バイト先の生徒や関係者など、片手で数えられる程度の人数しかいない。それでも、社会性を失いたくない(社会にアクセスするハードルを上げたくない)から身だしなみも整えてはいる。年がら年中オフィスカジュアルみたいなものを着て、いい酒が飲める店にいつでも入れるくらいの格好しか持っていない。もしかしたら自分がおかしい(もしや統合失調症でも発症しているのか!)のかと思い、精神科や家族に相談してみたものの、極めて正常ということらしい。彼らと相談する際によく耳にしたワードとして「時代だから」というのがあり、いささか疑問がありつつも、自分にもそう言い聞かせ、またそうするようにしている。なぜなら、理由は単純な方が良い。だけど、友人と自分は同じ時代を生きているし、同じ時代で育ち、同じ地域で、同じ中高で、同じ部活で過ごしたはずなのに、なぜ?
友人Aの場合
Aとは、本来であれば今年で10年超えの付き合いになる。Aは旧帝に落ちて私立大学に現役で進学した。たまさか、学部は違うけれど同じ大学に所属している。彼女はいない。チー牛という言葉が出始めた頃、漏れなくチー牛を自称していたが、そんなことはなく、月並みかそれ以上だろう。Aは、サークルに所属しており、友人と先輩と後輩がいる。Aが大学に入ってからは、「ちょっと変わった」先輩(男)のお世話をしていることを嬉しそうによく話していた。「ちょっと変わった」先輩の話というのは、おかしな行動や、服薬している薬の名前、就活の動向や、就労後の話など。確かに、「ちょっと変わっ」ていた。
書いていなかったけれど、筆者は大学院に進むので就活はやっていないし、大学院のあとにもその技能を評価してくれる機関があるので、レールは敷かれている(ただしそのレールは「完全に」壊れている!)。Aはそのことをあまり良く思っておらず、酒が回ってくると「お前はいいよな」といった風な言葉をかけてくれる。じゃあお前も俺と同じ孤独を大学の6年間とその後の人生をもって味わえ、とは言わない。分別があるから。
おそらく、Aには特殊な技能はない。英語も普通、スペイン語は自己紹介も忘れ、ゼミでは経済?に関してやっているらしい。人当たりもよく、声もデカいし、健康な、世間の求める「普通」が服を着たような大学生だ。そのため、「普通の就活」が必要だった。ただ、彼はそれをしなかった。
さっきの「ちょっと変わった」先輩の真似をして、大手とベンチャー合わせて10社くらい?しか受けず、結局小売大手に決まったらしい。この文を見ることはないだろうけど、おめでとう。体を壊すなよ。Aから聞いた話では、不動産大手の二次面接?に進んだがあえなくやぶれ、ベンチャーと大手の2つが手札にあった。そのことを聞いたのはAと今度失いそうな友人Bと、共通の友人Cが同席しているときだった。
大手は、CMでもよく流れてる企業。我々の地元だったらみんなが口を揃えて納得する企業だ。業績も悪くはないし、払いもそこそこ。いいじゃないか。
ベンチャーは、SIer派遣会社。「独自のシステム」をもとに「円滑な」派遣を行っているらしい(又聞きなので詳しくはわからない)。報酬は基本給と地域制限付きの家賃補助とボーナス代わりのストックオプションか新株予約権付きのストックオプション。新株予約権!?
悩む理由がわからねぇ~!!!マジで!!ポンジスキームもいいとこだろ!
仮に上場できたとして流通価額の低いゴミ株なんか持ってたってなんの役にも立たねぇし、最終的に株式合併して希釈されるのがオチだ。しかも持株会で買わされるのは目に見えてる。人材派遣会社の株式の価値が上がる要因ってなんなんだ、このAI時代に。
もちろん、Aを引き止めた。大手に行ったほうがいいともそのまま伝えた。が、彼は納得しなかった。彼の言い分は、「社長の人格に惚れた」、「成長する見込みはある」、「自分を認めてくれた」、「頑張りたいと思ってる」など。
今は、頑張れるのかもしれないし、きっとできる。でも1年後は?3年後は?10年後30歳を超えたお前はなんの技能も持たずに転職して別の業界に身を投じたいと「現時点で」考えているのか(そういう趣旨のことを言っていた)?という言葉がでてしまった。言ってしまった。
ああ、言ってしまった。言っちゃだめなのに。本当のことは話しては、いけない。
Aはしばらく考え込み、我々は、楽しい話をし、酒をたくさん飲むことになった。
そのあと電車で各自帰路につき、帰り道が同じAと筆者は散歩がてら話をした。桜の良い季節だった。
そして、AからAの意中の女子と上野に行く計画を聞いた。西洋美術館かなにかに初デートで行くとのことだった。桜の季節の上野の初デート?コロナ解禁のタイミングだったため、混むのは目に見えている。だから、助言をした。
「絶対混むから展示が終わったら速やかに上野を離れろ。飯を上野で食おうと思うな。歩かせたら文句が出る。散歩しながら店を見つけようとするな。地下鉄で移動しろ。バスっていうのも悪くないな」と。さっきも言った。これは、言ってはいけない。言っちゃいけなかったんだ。言い方が悪かったのか?それも、そうだ。とにかく、悪かった。
Aは怒ってしまった。曰く、筆者の「正しい価値観(原文ママ)」を押し付けてくれるな、ということだった。本当に、そうだろうか。
別に、筆者の助言を聞くのはAの義務ではないし、また、それをAが実行に移さなかったところで、筆者は何も思わない。聞き入れられなかったのか、と思うだけで、しかもそれは筆者の自由だ。Aの気にすることではない。さらに言えば、仮に筆者の予想が的中したとしても、それはそれで初デートかくあるべきというやつなのだろうから、それも、味かもしれない。苦みかもしれないが。
Aは筆者に怒りながら言い訳を始め、筆者はそれに真っ向から対応してしまった。いかんせん、二人共酔っていた。Aはそれを認めなかったが(己の適量というやつを知らんのか?)。
そうして小一時間ほど深夜の野外で大声で話し合ったが、トイレに行きたくなった。当たり前だ。春の夜は、寒い。
筆者が「俺、帰るから。もしまた同じことを聞きたくなったら電話してくれ。必ず同じ内容をもう一度言ってやる。何度でも、だ。今日はもう、寒くてトイレの限界だ。」と言ったら、Aは「これは喧嘩別れじゃないんだ!もういい年なんだし!」と漫画で見たような捨て台詞を吐いて帰っていった。
その後、彼からの連絡はない。こちらからも、電話はしない。きっと、恥ずかしいだろうから。風の便りで、行方は知っている。
もう分かっていると思うが、筆者は伝えてしまうのだ。論理的に考えれば当然の帰結や、大人かくあるべき社会人かくあるべきという規範から導かれる「正しい価値観」に基づいてした思考を、伝えてしまうのだ。言い過ぎてしまうというよりも、簡潔に伝えてしまうのだ。言ってはいけないのに。
もちろん、言わずに流すこともできる。今っぽく「へぇ~ そうなんですね~なるほど~いや~わかんないです~笑」みたいに言うのも可能だ。ただ、それは可能だ。友人が痛い目に会おうとしているところに、なぜ、助言してはならないのか。痛みに慣れるのは、あまりよくない。余計なお世話だろうし、たしかに、余計なお世話だ。でも、友人である俺が言わなければ誰が言うんだ?親か?上司か?先輩か?それとも後輩?はたまた八奈見さんみたいなマニック・ピクシー・ドリーム・ガールか?八奈見さんだったら言ってくれる。ケアも、ある。でも、八奈見さんは、現実には、いない。そう、いない。
きっと誰も、言わない。なぜなら、波風が立つから。
彼らからすれば、筆者は「不和を生み出す存在(原文ママ)」らしい。これを居酒屋で言われたときは泣いちゃうかと思った。もう、22の大人なのに。酒が入ってなかったら泣いてたんじゃないかな。それくらいに、悲しい。嘘は、つかない。
多分、彼らからすれば人から何かを言われることそれ自体が、加害性を含むものなのだ。そして筆者は、その意図がないにも関わらず、きっと加害性に溢れている。それは怒られることとか褒められることとかは一切関係ない。自分の世界とそうじゃない世界の区別が全然ついていない。自己免疫性疾患みたいなもので、感受性と言う名のレセプターが過剰に反応しすぎるんだろう。ガラス症みたいな若者で現代は溢れている。そしてそうじゃない奴は、加害性を一見伴わないフェードアウトをされて(実際は加害そのものだ!)、彼らの社会から排除される。確かに、彼らからすれば筆者は脅威で、筆者からしても彼らは異常な世界に住んでいる。関わりはなくても良い。でも、同じ時代を生きているし、同じ時代を生きていた。
「過去に見捨てられたのではなく、過去を見捨てたのだ!」という悪役のセリフがあったような気がするが、筆者は明らかに過去に見捨てられている。過去を捨てはしないが、過去が筆者を排除しており、またそうせざるを得ないのだろう。筆者は過去を懐かしむこともできず、自分の頭の中で改変されたナラティヴを都合のいいように楽しむ不誠実なことを実行する直前のところまで来ている気がする。防衛反応だったとしても、やっちゃだめなことはやってはいけない。でも、やるしかないかもしれない。やってはいけないんだけど、やるしかないかもしれない。許してくれなくてもいい。自分を許す権利は自己にしか存在しないし、また、そうあるべきだから。いや、そうでなくてはならない。俺は俺自身を許す。必ず、必ず
認知症の人の見ている世界はそういう世界みたいなことを最近読んだ。
自分が70・80代ということを認識できなくなって、自分の全盛期であった40代に頭が飛ぶらしい。
結果、デイサービスのバンを自分が通勤に使っていたバスと混同し、
「運転手が話しかけてきた!」「なんで運転手が自分の名前を知っているんだ!?」ってパニクるらしい。
あるいは、自分が孫がいるおじいちゃんおばあちゃんという認識が飛んでしまって、
子供と孫がお見舞いに来たときに子供に「その子はお友達かな?」と孫のことを尋ねることもあるらしい。
その視点で元増田を読んで、なんというか、若年性認知症を発症して、
自分の全盛期だった高校生くらいに頭が飛んだってことなのかなと思った。
30代くらいだとまだ親が存命な人も多いと思うけど、実家で過ごしながら、
高校時代にやっていたことをついやってしまうというのがリアリティのある未来という気がする。
高校の頃に出入りしていた繁華街にコギャルの格好で出かけるとか、
性格は明るいが、思い込みや勘違いを迂闊に言わないよう、キレやすい妻を刺激しないよう、常に本を読んでいるふりをしていた寡黙な父であった
しかしある正月、「馬鹿になっちゃった~」などと言いだしており、突然に表情豊かな人間に変身していた。いわゆる認知症を発症したので、悲しい反面、表面的には面白がってる自分もいた。面白いほうの認知症だった。
けれども医者や看護師から認知症ですねえ、と言われると、事実であってもムカッ腹が立った。すっとぼけた間違いはもとからあることなんで、根が変わってませんけど?と家族のよしみで思っていた
リハビリ師は、「この30のイラストの中には全く同じイラストが何ペアかあるので、数をおしえて」みたいな、どうでもいい幼稚園問題をさせ、間違えると認知症だとバカにするのだが、リハビリ師の答えにもまた見落としがあることを、付き添いの孫が指摘している。
たまたま医師や患者とか親と子だとかの役割やってるだけで、自分が上だと思って,、自分にレッテルはってる人間の浅知恵、と思う。
論文あるで
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7268563/
結果:
1歳未満でのワクチン接種は、以下の健康状態の発症リスク増加と関連していました:
発達遅延(オッズ比 [OR] = 2.18、95% 信頼区間 [CI] 1.47–3.24)
喘息(OR = 4.49、95% CI 2.04–9.88)
中耳炎(OR = 2.13、95% CI 1.63–2.78)
四分位解析では、対象者は1歳未満に受けたワクチン接種回数に基づいてグループ化されました。接種回数が多い第3四分位および第4四分位のグループでは、いずれの健康状態においても、第1四分位(接種回数が最も少ないグループ)と比較して高いオッズ比が観察されました。
時間的解析では、発達遅延のリスクは、6か月、12か月、18か月、24か月という年齢のカットオフが増加するにつれて線形的に増加しました(OR = 1.95、2.18、2.92、3.51 それぞれ)。また、診断のための観察期間が3歳以上から5歳以上に延長された場合、すべての健康状態でやや高いオッズ比が観察されました。
結論:
この研究では、調整されていない観察データに基づいたオッズ比の計算のみが可能でしたが、ワクチン接種群では非接種群に比べ、発達遅延、喘息、中耳炎のオッズ比が高い結果が観察されました。小児期のワクチン接種に関連する健康影響の全体像を理解するには、さらなる研究が必要です。
結果:
9歳の子ども47,155人の保険請求データを分析した結果、以下のことが明らかになりました。
ワクチン接種は、測定されたすべての神経発達障害(NDD)の発症リスクを有意に増加させることと関連していました。
早産で生まれた子どもでワクチン接種を受けた場合、39.9%が少なくとも1つの神経発達障害と診断されました。一方で、早産で生まれたもののワクチン接種を受けなかった場合では15.7%でした(オッズ比 [OR] 3.58、95%信頼区間 [CI]: 2.80, 4.57)。
自閉症スペクトラム障害(ASD)の相対リスクは、ワクチン接種を含む診療訪問回数に応じて増加しました。ワクチン接種のための訪問が1回のみだった子どもは、ワクチンを接種していない子どもに比べてASDと診断される確率が1.7倍高かった(95% CI: 1.21, 2.35)。一方、ワクチン接種のための訪問が11回以上だった子どもは、接種を受けていない子どもに比べてASDと診断される確率が4.4倍高かった(95% CI: 2.85, 6.84)。
結論:
これらの結果は、現在のワクチン接種スケジュールが、複数の形態の神経発達障害(NDD)に寄与している可能性を示唆しています。また、早産とワクチン接種の組み合わせは、ワクチン接種を受けていない早産児に比べてNDDのリスク増加と強く関連していました。さらに、ワクチン接種を含む訪問回数の増加は、ASDリスクの増加と関連していました。
かなり不謹慎な発言や人間性を疑われるようなことを言ってしまうかもしれない。
それに対する自分自身への嫌悪感も含めて整理したいので書こうと思っている。
同居してる母がコロナになった。
昨日から発熱があって、インフルかもよ笑とか冗談言ってたらコロナだった。
もう若くない母自身への心配だとか、同居してる祖母への心配、同じく同居してる父への心配、それら全てを押し除けて真っ先に考えたことがそれだった。
元々できた人間ではなかったが、ここまで倫理観が終わってるとは思わなかった。
でもそれが身内の病状にまでとは。
ショックだったし、ここまで育ててくれた両親に申し訳なく思った。
これを書いてるのも整理のためと自分は言っているが、もしかしたら「少しは共感してくれる人がいるかも」「本当は自分は正常なのかも」と思いたいがための行動なのかもしれない。
なんて浅ましい考えなんだろうと、なぜあの両親からこんな人間が生まれてしまったのかと思う。
そして自分は何より外部からの評価を気にしているんだと思った。
友人や仕事の関係者に迷惑がかかることが、家族の命の危機より嫌だからこその思考なのではと考えた。
なんなら心配で駆けつけてくれた幼馴染の友達に励まされて、「悲しい顔しないとこの子に申し訳ない」と考えて悲しいふりをしたまでだ。
7年前の話だが、それから自分が何も進歩してないことに仰天だ。
そもそも祖父母が苦手なこともあるが、加えて祖父は晩年、認知症を患ってからロクでもなかったためせいせいした気持ちになっているんだろうとその時は思っていた。
理不尽に怒鳴り散らす祖父を見て「早く死んでしまえば」とすら考えたことがある。
でも今思えばせいせいしたのではなく「興味がなかった」だけなのかもしれない。
要介護になった祖母に対しても、正直面倒くさいの気持ちが勝っている。
なぜ世の人は他人のために自分の身を削ることができるんだろう。
これがわからない時点で、血縁を「他人」と分類している時点で、自分も立派なロクでなしである。
正直怖い。
血縁にすら冷血な思考をしている自分が、相手方の家族に親身になることができるのか。
できるわけがない。
今まで周囲に甘えすぎて来たんだろう。
周りの人の優しさの上にあぐらをかきすぎていた。
とりあえず今は目の前の家族のことを優先して、その後自分のことにも向き合っていきたい。
現時点ですでに喉の痛みがあるので、きっと私も発症するんだろうと思っている。
今はできることをしたい。
肌がそこまで弱い方じゃないと思ってる
脳外科医の竹田君らしき人がいるけど、ツイートを読んだ限りだと、そこまでおかしな対応はしてないんだよな…
https://posfie.com/@nyotusuzu/p/7iu0E3b
@Takedakun_model
この話も悪意をもって改変されていますね。
この方は、三叉神経痛に対して薬物療法での対応が困難で、手術加療を検討されていると近医より紹介されてきた患者さんです。(自主的に来られた方だったかも。)
結局、手術をすることになったんですが、若年で小脳の萎縮がなく、術野の展開に困難が予想される症例でした。
開頭(頭蓋骨を開ける)、硬膜切開、脳ベラの挿入までは私がやりましたが、予想通り術操作を行うスペースが非常に狭く、私の身の丈に合わない難症例でした。上司にそのあとの顕微鏡下の内部操作をお願いしました。
結果、痛みはとれましたが、顔面の感覚鈍麻、難聴が術後に出現しました。
これを赤穂民報は、私が「起こした」医療事故として大々的に報道しています。
2025-01-25 11:45:49
@Takedakun_model
カテーテル穿孔と言っていますが。。。専門的な話になるのはご容赦ください。わからなければコメントから質問お願いします。
これは確か90代の高齢女性で右M1閉塞(右中大脳動脈近位部)の閉塞で血栓回収を行った患者さんのことだと思います。
高齢でしたがもともとのADLは悪くなく発症から間もなかったため血栓回収を行いました。この日は予定手術とクモ膜下出血とこの症例がかぶってしまい、確か一人でやらざるを得なかった症例だったと思います。
問題なくカテーテルも病変まで到達し、1Pass(一回、ステントリトリーバーを展開し回収を試みるだけ)で血栓回収でき問題なく再開通しました。術後のCTでも問題なく、HCUに収容。少し左手も動き始めたんだったと思います。
ところが翌日のCTで右シルビウス裂に血種ができており、確かに前日よりも意識が悪いようでした。
さらに悪いことにその翌日か翌々日、尿が出なくなり造影剤腎症を併発しました。一時期透析(CHDF)も考慮するほどでしたが1週間ほどで尿量もまずまず増えてきました。
長期臥床が続いてしまい、廃用が進んで所謂「ジリ貧」の状態が続きました。
1か月ほどのちに、高血糖高浸透圧性昏睡、あるいはは敗血症で亡くなられました。
悔しい症例でした。せっかくよくなると思ったのに。。。
出血の原因ですが、カテーテル穿孔はあり得ません。術中のワイヤー、カテーテルの挙動はおかしくなかったし、もしそうなら術直後のCTでひどいことになっているはずです。
専門的な話ですが、私が渉猟した範囲で、黎明期の5RCTでは、無症候性も含めた出血性合併症は30-50%、症候性 5-10%程度だったと思います。症候性頭蓋内出血の頻度が多いように思いましたが、やらなかった場合、死亡または重篤な後遺症となるのでやったほうがましって話じゃなかったですか。
そもそも閉塞部位遠位のロードマップが確認できない状態で穿孔ってわかるんでしょうか。あくまでわかるのは造影剤の漏出しか認知できないじゃないですかね。上記5RCTで穿孔が極端に低い(1%以下)または記載なしなのはそういう理由じゃないかと思っています。
https://natrom.hatenablog.com/entry/2025/01/22/110000
まぁがんリスク検査に意味なんてほとんどないという話言い分はわかる。
【闘病】もっと危機感を抱いていれば… 「腟がん」の手術後に「敗血症」を発症して
https://news.yahoo.co.jp/articles/aa144f2863e578d02945d6efc5b8ce6287936034?page=1
でもまぁこの人に関して言えば、子宮頸がん検査をしていてもわからなかったっていうことなので、むしろがんリスク検査のほうが早めに見つかった可能性は高いんじゃないかなぁ?など。
また、今友人が逆流性食道炎が原因の食道がん?胃がん?で治療中で、ステージ3で見つかり、手術後に転移が見つかり、みたいな状態なんだけど、
もちろん、毎年健康診断を受けて、逆流性食道がんも10年くらい把握していて、でも具体的に対処してこなかったからということのようではあるのだけど、
こういう人もリスク検査受けていたほうが早期発見・早期治療につながった可能性あるよね?と思うんですよ。
よくわかんないんだよな。
先生の記事の書き方だと、まるで一般の人にはがんリスク検査なんてまるで意味ないですよというように感じるわけですが、
もちろん、記事の最後のほうにも、有病割合であったり、母集団に寄ってどうのっていう話はあるんだけど、
総論としては無価値で医者の金儲けの手段に過ぎないから受診する人は馬鹿で、みなさん賢くなろう的なお話に受け取るわけでございますよ。
でもですね、逆流性食道がんが胃がんの原因になる可能性がとかも、ワイ的には今回始めて知ったわけですよ。
眉唾的な話もあるじゃないですか。あっつあつの味噌汁をよく飲む人は食道がんになりやすいとか。
当たり前のところで言えば、喫煙者だから肺がん胃がんになりやすいとかさ。
一人の一般人として言えば、僕はあっつあつの味噌汁をしたべろを半分やけどしながら飲むのがとても好きだし、ヤニカスだし、親父もがんだし、まぁ潜在的にはがんになる可能性が高い方の人間だと思う。
年齢的にも徐々にがんになる人が出始める頃合いだ。
なんなら、先生の記事を読んで、受けるやつはバカなのか、統計マジック使った金儲けかと思ったわけだ。
でもまぁ、友人のがんの報告だったりを聞くと、ちょまてよ?などとも思うわけだ。
でも、受診するやつは馬鹿なんだよなぁ、、、などと思うわけだ。
まぁ、僕がどうするかは別として。
気付いたときに手遅れになるのがいいのか、誤診もあるけどある程度リスクを把握できるほうがいいのかは、最終的には各自の人生であり価値観だと思いますが。
なんかすごく気になったのでちょっと吐き出しです。
https://x.com/hanamaru_udon/status/1886233144610967989
はなまるうどんがブラックサンダーを天ぷらにしだしたけど、アレルギーはどうなんだろう?
お菓子をあげるのはアイスクリームやまんじゅうの天ぷらがあるにはあるし、おかしな話でも何でもないが…
ガチでチョコレートアレルギーが発症するなら、実際に店舗に出すのは無理すぎる。
フライヤーを二台用意して、手袋を別にして、バッターを別にしてなんて、提供時間が延びるんで、中の人からしたら、やってらん。
しかも、賃金はクソ低いし、経営者目線からしても、出せる価格の上限は決まっていて、対して儲からないから数を出すしかない。
でも、数を出すのはアレルギーに対応しないといけない都合上、不可能に近い。
この企画はぶっ飛ぶだろうな。
もう何年も何年も前の話だけれど、今なら書ける気がするので書くのに挑戦してみよう。
私は大学在学中に統合失調症を発症し、卒業後にいくつも職を転々としてから障害者手帳を取り、その当時は障害者枠で働いていた。
なんとか働いてはいたが、病状は良くなく、いつも幻聴を聞いていた。
それはそれなりにしんどかったが、むしろあいつら(幻聴)の言う通りになんか死んでたまるものかと思っていた。それに闘病に付き合ってくれている家族、そして優しき友人たちのためにも死にたくはないと思っていた。仮に死ぬとしても自らそれを選んだと悟られることだけは絶対に避けねばと思っていた。
そんなことを頭の中で展開しながら働いていたある日、ピッタリとパズルのピースがハマってしまった。
この増田が他の人のパズルを完成させてしまう可能性を下げるために詳細は書かないが、幻聴が命令する方法ではなく、残された人に死を選んだことを悟られずに死ねると思う方法を見つけてしまった。
そこから決行までは早かった。その日は秋口で、夕暮れどきの稲穂が黄金に輝き、とても美しく見えたのを覚えている。当たり前だが、遺書は書かなかった。
で、失敗した。
この増田を書いているのだからどうしようもないネタバレなので読み増田においては全く驚きのない展開だろう。そして入院ののち、仕事を辞めることになった。
ここまで読んで、私が何を言いたいのか伝わってこないだろうと思う。だが、言いたいことはたったひとつだ。
これまたなんの驚きもない話だろう。だが、私は確信を持っている。あとに残された優しい人たちはきっと自分を責めてしまうだろうということに。
人が死を選ぶことをそうさせた社会の責任だと言う人もいる。もちろんそうした側面が全くないとは言わない。
けれども、私のこの話は社会など全く関係ない。私があの稲穂を見ながら死を選んだのは、純粋に精神病のせいだった。
だから、社会の責任だと言って物申した気になっている人には正直腹が立つこともある。それは、残された人を責める言葉だからだ。
そうじゃない。もう一度言おう。
もちろん全ての決断が精神病によるものだとは言わない。しかし全てが社会のせいでもないのだ。
書けた。
あの稲穂を見ながら感じたこと、私が何を考えながら決断をしたのか、とても複雑で名前もきっとついていない気持ちでいっぱいだったと思うけれど、こうして言葉にして単純化して、私はあの日をようやく過去にできた気がする。
私小説というより社会派エッセイっぽくなってしまったけれど、ようやく文章にできた。
ご供養。
ドキュメンタリー映画『どうすればよかったのか?』のポスターがあったけれど、
ポスターに思い切り「統合失調症」という病名が出てきて、はぁ?と思った。
はぁ?このお姉さんが発症した当時は、統合失調症という病名はなかったんですけれど?
統合失調症じゃなくて精神分裂病だよ精神分裂病。統合失調症という病名ですら「糖質」という蔑称で呼ばれて差別されているのに、当時はそれ以上に強い差別があったの。
この映画の目的が精神疾患を取り巻く世間からの目や医療現場での人権侵害がある現実を無視して、両親や、監督である弟さん自身を含めた家族の問題に矮小化する意図で作られた事は、ポスターひとつとってみても明らかだと思う。
それは到底肯定すべきではない。この監督個人が自分自身に向けたものであっても、同じような境遇にあるきょうだい児達を追い詰める効果を持つだろうから。
ほんっっっと。この映画といい、すすき野の首狩り族事件といい、
世間って子供に対する親の責任をとかく矮小化したがる一方で「子供の発達障害や精神疾患を認めず、医療に繋げようとしない親」の事は、とかく無条件に悪認定して叩きたがるよね。
この映画もすすき野の事件も、現に医者であり医療の現実を熟知しているであろう親が、それでも医療から遠ざけようとしたっていう事は、それなりの正当性があると考えた方が自然なのに。医療に繋いでいたら、家に監禁される以上に酷い目に遭わされていた可能性は高いのに。
その日がくる一か月前から耳鳴りがしたりめまいがしたりと、そうなる兆候はありました。
仕事をしないと生きていけない、そう頭でわかっているので
どうにかしようとも思っていますが、なにもする気力が湧きません。
部屋は散らかり、布団には食べこぼしのシミが付いて、埃は部屋の隅で楽しそうに群れをつくっています。
私はずっと、うっすら死にたいと思いながら生きています。今も、何をしていても、死にたいのです。
家事をしていても、食事をしても、散歩に出ても、貧乏神のような死にたい気持ちに取りつかれています。
その度、どうして自分で死ぬことを選んではいけないのか、と考えてみますが
私にとっては子どもたちがいるから、この子たちを置いてはいけないというのが
答えだと思って、生きてきました。
誰も私が希死念慮を抱いているとは思っていないはずです。
死ねば、保険金はそこそこに残るので、きっとお金で不自由することはないと思いますが
私の子は自閉スペクトラム症で、私の庇護下以外で生きることは厳しいとは思います。
だから、お金だけ残しても、この世にうちの子どもたちを置いていけないんです。
そう思うと、ああ、この気持ちの先に心中ってものがあるのだな、という世界が見えるようになってきました。
増大する社会保障費や年金、税金、私が働けなくなった分を他の同世代に背負わせて申し訳ないです。
私は、自分自身が余計な税金を使わないようにしますので許していただけたら、と思います。
そのためには、自分が頑張るしかないです。けれど、もう何をしていいのかわからなくなってきました。
生きるも死ぬもどっちも、ひと様の迷惑になる未来しか見えないです。
メンタルは一度壊れると戻りません。過去に戻れるなら戻りたいです。
けれど、今の子どもたちが一緒にいてくれる現在はどんなひどい過去であったとしてもその過去があったから
子どもたちは生を受けることができて、私の傍で笑って過ごしてくれています。
なので、私のクソみたい人生でも、この子たちがいることだけで正解だったとは思います。
息子たちよ、私の元に産まれさせてごめんね。