はてなキーワード: 距離感とは
Xで最近見かける「30代またはアラサーの女性がハイスペ年下くんにアプローチされた」というポストを見かけたことなないだのうか?
しかも、相手はただの年下ではなく、高学歴・高収入・高身長の“ハイスペ”な男たち。
「私、まだまだイケるじゃん」と舞い上がるのは自由だ。
しかし、なぜ彼らは20代の若い女性ではなく、30代の女性を狙うのか? そこには明確な理由がある。
そして、残念ながらそれは「純粋な好意」などという甘い話ではないのだ。
1. 「ハイスペ年下男性が30代を選ぶ理由」──手頃な“贅沢”を楽しみたいから
恋愛でも仕事でも選択肢が多く、20代の若い女性からも引く手あまたのはずだ。
では、なぜ彼らは30代女性に寄ってくるのか?
若くてハイスペックな男が20代の女性と付き合おうとすると、それなりに気を遣う必要がある。
20代の女性はまだまだ遊びたい盛りで、理想も高く、相手のスペックだけでなく「楽しいか」「ときめくか」を重視する。競争率も高く、手間がかかる。
一方、30代女性は恋愛経験が豊富で、少しのことでは動じない。
さらに、結婚適齢期というプレッシャーの中で「こんなハイスペ年下が自分に興味を持ってくれるなんて」と内心浮かれてくれるため、男側が少しリードするだけで関係がスムーズに進む。
要するに、ちょうどいい距離感で、手間をかけずに大人の恋愛ごっこを楽しめる相手として選ばれているのだ。
2. 「結婚を口にしても、本気では考えていない」──結局は若い方に行く
ハイスペ年下男性が30代女性と付き合うとき、「将来も考えてるよ」「年齢なんて関係ない」と甘い言葉を並べることがある。
むしろ、自ら率先して「結婚」について触れてくるケースも珍しくない。
これを聞いて安心する女性も多いが、実際に彼らが本気で結婚を考えているケースはどれほどあるだろうか?
結局のところ、20代のうちは「大人の恋愛を楽しみたい」というスタンスで30代女性と付き合うが、彼ら自身がアラサーになったとき、そのまま同じ相手と結婚するかというと話は別だ。
自分も30代になり、周囲の環境が変わり始めると、あっさり20代の若い女性にシフトしていく男は少なくない。
要するに、30代の女性に向けられる「将来を考えてる」という言葉は、その場の空気を良くするための社交辞令のようなもの。
「今は楽しい関係でいたい」「結婚を考えている風を装っておけば安心してくれる」くらいに思っている可能性が高い。
女性側は「この人は他の年下男と違って結婚を考えてくれてる」と期待してしまうが、いざ数年経ってみると、彼は涼しい顔で20代の若い女性と結婚していた──そんな話は決して珍しくないのだ。
3. 「若さへの投資」──30代女性は“自分磨き”を怠らない
30代になると、20代のころよりも外見に気を使う女性が増える。
スキンケアもファッションも、20代の頃より洗練され、結果として「年齢の割に美しい」女性が増えてくる。
ハイスペ年下男性は、そんな女性を「努力して維持された美しさ」として評価する。
20代の天然の美しさとは違い、30代の女性の美は時間とお金がかけられたもの。そこに魅力を感じる男もいる。
だが、それはあくまで「良く手入れされた大人の女性」を楽しんでいるだけで、本質的に「この先も一緒に生きていきたい」と思っているわけではないことが多い。
30代女性が年下男性にモテるのは、決して偶然ではない。そこには、男側の“都合のいい理由”があるからだ。
・努力して美を維持しているので、ちょっと贅沢な気分を味わえる
こうした理由を理解した上で、「それでもいい」と思うなら恋愛を楽しめばいい。ただし、「私、まだまだ若い子にも負けないくらいモテる!」と勘違いしていると、いずれ年下男性が20代の女性にシフトしたときに痛い目を見るかもしれない。
「30代になったら急に年下からモテる」という現象は、裏を返せば「若い頃にはモテなかった層がターゲットにされている」ということ。年下男性の言葉を鵜呑みにせず、本当に自分が何を求めているのかを考えることが重要だ。
USJに来たんだけど、なんか駅構内もUSJ内もヤケに人とぶつかりそうになる。多分距離感が違うからかな?とは思うんだけど、これ東京から大阪、または大阪から東京に来た人で感じる人はいる?
初めての増田なので、思い出を書きなぐりたいだけです。
一応、フィクションということにしてください。
私の住んでいる町に駅弁と呼ばれる大学がある(あまり隠す気はないが、実名を書くのも良くないかと思い名前は出さない)。
私は卒業生ではないが、小学校や中学校までは附属校なのでお世話になった。
大学としても駅弁などと言われつつ、そこまでレベルが低いわけではない。
一部の文系学部は卒業後の進路で一定の評価を受けていたりもする。
私自身は別の大学に進んだが、サークル活動などで仲良くなった友人もいたので、n=1ではあるが、良い印象を持っている。
その大学があるおかげか、駅前は快速が止まらない駅とは思えないほど、牛丼チェーンやラーメン屋などの飲食店や居酒屋が充実していた。
潰れたのは大学の門の目の前にあった、まずい家系ラーメンのチェーンくらいである。
私自身、近所に住んでいたこともあり、十二分に恩恵にあずかっていた。
新しいラーメン屋ができれば、Google Mapにすぐ口コミが書かれるし、本屋の品揃えも良いし、カフェなども多い。ないのはクリーニング屋くらいのものだ。
そんな環境で新卒2〜3年目を迎えた私は、外食ばかりになってしまった。
しかし、当たり前だが外食し続けると食費がかさむ。牛丼屋でも大盛にしたいし、何なら味噌汁だってつけたい。
新卒2〜3年目でもらえる給料などたかが知れている。困った私はある日、安く腹いっぱい食べる方法を見つけた。
20:00から半額のシールが貼られるのだが、貼り付け後はかつ丼が270円、天丼が300円、鶏の山賊焼きに至っては250円である。
おなかが空いていたら2個食べたっていい。これは良い方法を見つけたぞ、とスーパーの横の階段を19:50頃に駆け降りる日々が続いた。
しかし、日々通っていると、だんだん19:50頃にいるメンバーが固定されていることに気づく。
ポリッピーと鬼殺しの一番小さいパックを持ったカゴを支えるおじいさん。
フードを毎回かぶって、ほろよいの色々な味を楽しむ大学名入りのスウェットのお兄さん。
ジムなどでトレーニーが仲良くなったり、ドッグランや公園で犬と飼い主が仲良くなる、というのはよく聞く話ではあるが、自分たちの場合は認識していても、敵でしかなかった。
自分の欲しい弁当を他人に取られないように「自分の分として確保とは言えないような距離感を保ちつつ、カゴに入れて所有権を主張したりしない」ことでシールを貼ってもらう、日本で5本指に入るレベルのみみっちい牽制しあいを毎晩やっていたのである。
また、ポジショニングも大事だ。銀色の扉から店員が出てくると、全員が自分の目当ての弁当の前をセットポジションとして陣取る。
セットポジションを取るためには銀色の扉が見える位置にいないと出遅れる。しかし、弁当コーナーにずっと立っているとレジに並ぶ客の邪魔になってしまう。
みっともない争いではあるが、そこには周りのまともな買い物客への気遣いと、半額弁当が欲しくて並んでいるわけではない、という見栄と、店員へのわずかばかりの感謝があったのだ。
この状況に大きな変化があったのは、ほぼ毎晩のように並び始めて2〜3カ月たった時だった。
あまり嗅ぎなれない、海外の空港で嗅ぐような甘い香水に、色黒で目鼻立ちの通った顔。さらに、女性はヒジャーブを付けていたので、イスラム教圏の人なんだろうな、という理解は容易だった。
大学を卒業した友人に聞いたところ、その大学では数年後に留学のほぼ義務化を目指しており、交換留学に非常に今年から力を入れているらしい。
また、その一環で今まであまり来ていなかった中東やインドネシア・マレーシアなどの国からの交換留学生の誘致を行っており、それに伴ってハラルやイスラム文化などの周知に力を入れているのだとか。
そんな彼らも日本の半額弁当という文化に気が付いてしまったのである。
そこからは早かった。なんといっても彼らは豚肉を食べられない。
毎晩トンカツ弁当やカツ丼、ハンバーグ、ホイコーロー弁当ばかりが残るようになった。
パック寿司は残るだろうと思っていたが、彼らの中で魚には宗教的禁忌がない。
ただ、彼らが半額弁当バトルに参入してくるにあたって、唯一良かった点は彼らが我々の不文律や暗黙の了解を察して、ゲームチェンジャーにならなかったことだ。
彼らは宗教的な禁忌はあれど、日本人の「他人に迷惑を掛けない」という点のみは守っていた。
さらに時がたち、半額弁当を最初に買ってから半年が経とうとしていた。
イスラム教圏の学生たちはある程度半額に飽きたのか、1週間に1回ぐらいの参加頻度になっていった。
しかし、私は忘れていた。
9月になるとまた違ったイスラム教圏の人たちが買いに来た。彼らは、おそらく先に参入していた同級生や先輩から半額弁当がある、という文化を聞いていたのだろう。
更に時がたち、半額弁当を最初に買ってから半年が経とうとしていた。
イスラム教圏の学生たちは、ある程度半額に飽きたのか、1週間に1回くらいの頻度でしか来なくなっていた。
しかし、私は忘れていた。
9月になると、また違ったイスラム教圏の学生たちが買いに来た。彼らは、おそらく先に参入していた同級生や先輩から半額弁当の文化を聞いていたのだろう。
なぜか9月の転入生には中国人が多かったのか、4月の転入生が今頃になって来るようになったのかはわからないが、中国グループが買いに来るようになった。
缶チューハイをかごに大量に入れた中国人グループが、3〜4人で大騒ぎしながら買っていったのは見たことがある。しかし、その時はそこまで大きな問題になるとは思わなかった。
だが、彼らに遠慮という概念はない。
並ぶとか周囲に気を遣うことよりも、自分や自らの近しい人間の利益を優先する国民性である(それが悪いとか是非の問題ではない)。
彼らは19:40頃に来ると、残っている弁当を一旦すべて自分のかごに入れる。そして、入れながら友人に電話をする(顔を確認していないが、おそらく当番制で買いに来ているのだろう)。
そして19:55頃になると友人が合流し、大声で中国語で談笑しながら店員が来るのを待つ。
他の客から見ればクレームにしか見えないし、スーパーの店員さんからすれば、大声で「交渉」されるくらいなら貼ってしまおう、となったのだろう。
結果として、彼らのかごの中に入っている商品も半額対象となり、我々は中国人グループのおこぼれを買うしかなくなった。
そうなると、割を食うのは日本人だけではない。
我々が土着させたカス風習を律儀に踏襲していたイスラム教圏グループも同様だった。
ましてや、彼らは豚肉を食べられない。
中国人が残していった弁当を、店員に「これは豚肉入りですか?」と聞く姿を何度も見た。
我々は激怒した。
決意はしたが、所詮は勝手にローカルルールを作っているだけだとも思った。
だが、イスラム教圏グループはやはり根底にハムラビ法典が根付いているのだろう。
「目には目を、歯には歯を」というように、彼らはルールを逆用し始めた。
19:30頃にかごに弁当を入れ、店員を呼びに行くようになったのだ。
店員としても若干の罪悪感があったのかもしれない。
19:40の中国人グループが来る前に売ってしまえば、イスラム教圏の学生たちは買って帰る。
ちなみに、このあたりでルールが変わった頃から、鬼殺しじいちゃんはまったく見なくなっていた。
駅ビルではない方の24時間営業のスーパーに行っていたのかもしれない。
中国人グループも、大学に留学する程度の学力のある人たちである。
明らかに数量が減り、しかも豚肉ばかりが残る状況を見て、何かを察したのだろう。
彼らも19:30頃に来るようになり、そして何かが起こった。
18:30に3割引きシールが貼られたきり、半額にはならなくなったのだ。
イスラム教圏のグループと中国人グループの間で話し合いがあったのか、店側が嫌になってやめたのかはわからない。
関係があるかは不明だが、お店(というよりも駅ビルの建物)自体が改装工事で取り壊された。
しばらくして新しくできたのは全国チェーンのスーパーだった。
綺麗になったし、お弁当の種類も増えた。
しかし、ちょうどコロナ禍の始まりの頃にオープンしてしまったこともあり、私はほとんど行っていない。
ほどなくして、私も引っ越した。
彼らは国に戻り、立派に卒業したのだろうか。
立憲・維新・国民は、細部にこだわらず大まかな提案を自民党に提示する。一方、自民党はその提案を現実的かつ実現可能な内容へと修正し、実行に移す。そして、いずれかの野党と協力して予算案を成立させる。たとえば、維新単独の賛同でも、立憲と国民の連携でも構わない。
今後も少数与党の状態が続く可能性を踏まえ、自民党はすべての野党に一定の配慮を示しながら、各党の提案を部分的に採用する。これにより、決定的な対立を避け、適度な距離感を保った関係を築いていく。
このシステムの最大のメリットは、議論の場が単なる対立から建設的な協議へとシフトする点。自民党が野党からの提案を取り入れることで、政策はより現実に即したものとなり、また多様な意見が反映されることで、国民にとっても納得感のある政治運営が期待できる。また、各党は批判の応酬に終始せず、政策の実現可能性を重視した議論を行うようになる。
さらに、これまで「選挙に行っても結局何も変わらない」と諦める声が多かったが、各党が互いに歩み寄り、成果を上げる姿勢を見せれば、政治参加への意欲も自然と高まる。市民一人ひとりが政治に関心を持ち、自らの意見が反映される実感を得ることで、民主主義そのものがより活性化するはず。
私は今年40歳になる、アラフォーど真ん中の、自他ともに認めるおじさんだ。
昨年9月、軽い気持ちで観始めたtimeleszプロジェクトだったが、先日迎えた最終回は、2月に入ったあたりか、死ぬほど気になってしまい、仕事もロクに手につかず仕舞い。
挙句の果てには、「仕事が終わらなかったので、午前中だけ在宅仕事をさせてくれ」と半分嘘の(といっても、もう半分は本当に仕事が終わっていなかった、ということもあるが)理由を作り、家族で出かけるはずだった予定をキャンセルし、書斎に籠もって配信開始となった午前10時に視聴を開始した。
何故か、この思いを言語化し、誰かの目に少しでも触れてもらい、共感してもらいたい、と感じ、増田に書き殴ることにした。
特に誰かを傷つけたり、攻撃をする意図は全くないが、もし傷つく方がいたら予めお詫びさせていただきたい。申し訳ありません。
ちなみに私は、今まで特に旧J社(便宜上、このように記載させていただく)のアーティストにドハマリしたことはないが、同じ世代の男性であれば、おおよそ共感していただける距離感で、触れていた…というレベルだと思っている。
世代としてはSMAP、V6、TOKIO、KinKiKidsあたりがドンピシャの世代で、それぞれのグループの代表的なシングル曲はカラオケで歌えるが、アルバム収録曲になると疎い…くらいのレベル感。
SMAPのらいおんハートや、TOKIOのDRなんかは、中学の時に楽器の練習で弾いたりもしていた。
テレビ番組であれば、スマスマを観たり、学校へ行こうを観たり、鉄腕DASHを観たり、それぞれが単独で出演しているドラマも勿論観ている。
未だに、長瀬智也のIWGPやタイガー&ドラゴンは定期的に見返してしまうし、木村拓哉の、ドラマはなんとなく観てしまう。堂本剛の金田一一が最高。
ただ、嵐くらい以降に結成されたグループは、殆ど触れていない。
例えば、「このグループのこのメンバーが出演しているから」という理由で、摂取するコンテンツを、顕在的に選んだりもしていない。
ここは私個人の環境・考え方もあるが、思春期での私のまわりには「Jオタク=厄介」という考えを持った友人が多く、私もまたそのように感じ、Jオタと呼ばれる方を一括りで嫌悪し、大元のグループに対しても、意識的に遠ざけていたように思う。
その為、timeleszの前身となっていた、SexyZoneも全く触れてない。
今思えば、デビュー曲のサビは、まぁどこかで聴いたことくらいはあったな、程度のものだし、特にメンバーの休業や変遷などは、全く知らなかったし、興味もなかった。
中島健人はバラエティに出ては「セクシーセクシー」言ってる人。菊池風磨は顔が整ってるのに中島健人とくらべるとスカして前に出てこない印象だけど、ここ最近は割り切って洗濯大名とかやってんのかな、くらい。あとメンバーいたんだっけ?と。
そんな私が番組視聴をしたきっかけは、Twitterで流れてきた「菊池風磨構文」だった。
その部分だけ切り取られていたので、「嫌な言い方するなぁ」と思ったのを覚えている。と、同時に、こんなこと言われてしまった方もかわいそうだな、とも思った。
どういったシチュエーションでそんなことを言ったのか、言われたのか、ちょっと観てみようかな、がきっかけとなった。(実際のやりとりは主題ではないので割愛する)
タイプロ配信のep1でもある二次審査は、色々な職業の人が応募してきてるんだな、ぐらいのもので、この先観続けるか、と聞かれたら特に考えていなかった。まぁ、新しいエピソードがいくつか配信されたら、倍速でいくつかまとめて視聴するか、くらいの気概でいたし、実際三次審査が終わるまでは、配信開始日から何日か空いて視聴、ということもザラだった。
ちなみに三次時点での推しは、日野健太くん。歌唱力は群を抜いていたな、と今でも感じる。
明確に興味を惹かれたのは、四次審査だった。
「ここにきてのシード制とかwww」と、観ながら草生やしていたが、彼らのパフォーマンスをみて、一般応募の候補生との尋常ではない差を感じた。なんなら全員駆逐されてしまうのではないか、とも思った。
後々の配信や会話で、「急な振り入れなんかは腐るほどやってきた」と寺西くん、原嘉孝が言っていたが、まさに過去どれだけ努力していたか、尋常ならざる積み重ねがあったのかを、初めて見せつけられた。
今思えば、こういった振り入れや、ボイトレも含めた練習風景を観ることが今までになく、私が「ルックスがいい人たちがちょこちょこっと練習してるくらいだろう」と無意識的に偏見持っていたのだと私自身に突き付けられ、打ち壊された気がした。
寺西くん、原嘉孝を観ていて惹きつけられたのはそれだけではなく、「一つの作品を作るための姿勢や考え方」だ。
個人的な観点ではあるが、三次審査と四次審査の完成度は、明らかに別物だった。
三次までは、オリジナルメンバーの風磨くん、勝利くん、聡ちゃんや、NOSUKE先生、宮本先生の『選定する側』から伝える教示だけだったが、俳優部の面々が『選定される側』に入り、その経験を共有することで、レベルの引き上げにつながったのではないか、と。
また、あれだけ体のキレのレベルが高く、風磨くんに「嫉妬するくらいうまい」とまで言わしめた寺西くんが、なぜ今までアイドル業で日の目をあびれなかったのか。
原嘉孝のストイックなパフォーマンスを、なぜ今まで眠らせていたのか疑問になり、バックボーンを調べたりもした。原嘉孝は、連帯責任、の一言でグループが無くなってしまったという無念も背負っているようにも思えた。
兎にも角にも四次審査は、そのダンスパフォーマンスの激しさ、激しい動きをしながらの統一性と歌唱の維持に、大いに惹かれた。
これだけ動いて歌うのかと。
話は逸れるが、個人的なイメージとして、「LDH系はダンサーとボーカルを切り分けることで、比類ない激しいダンスパフォーマンスができる」「旧J系は、あくまで歌もダンスも同時にやらなきゃいけないから、ダンスは少し落ち着き目」とおもっていた。が、人生遊戯、ライネク、パープルレインでそれが覆された。
そして思ったのは、単純に「かっこいいな」と。
四次からは、配信日、配信翌日には必ず視聴していた。四次くらいからフォーカスされる人間も絞られてきていたので、感情移入することも少なくなかった。
日野くんは落ちてしまったが、みんな頑張れ、と、往年のベジータのような心持ちで視聴した。
五次のプロデュース審査は、最終回を含め、全編通しても一番心に残っているし、五次審査を通過した8人全員新メンバーにしてくれ、と2月1日から最終回までの二週間、ずっと思っていた。
特に私が心打たれたのは、『革命のDancing' Night』だ。
Intro部分で、右手を上げながらカメラ目線で微笑む路己くんに射抜かれてしまった。
その回は本編だけでも10回以上視聴してるし曲部分だけなら30回以上、つべに上がってからは、毎日5回ずつくらいリピートしている。
『SWEET』『New phase』も素晴らしい仕上がりだったが、『革命〜』は頭一つ抜けていたように思う。
光一くんのアドバイスした、「どれだけ余計なものを削ぎ落とすか」ということがとてもいい方向に働いていたのかもしれない。ほかチームと比べると、明らかに『そぎ落とした先にある美しいもの』が見えた気がしたパフォーマンスだった。
またNOSUKE先生が言語化してくれた『最初から最後まで、ずっとワクワクするパフォーマンスだった。あっという間に終わってしまった』が、私の感じていたことを的確に表す内容だったので、とても驚いたことを覚えている。
六次、最終審査の結果に関しては、やはり思うことも少なくはない。
ただ、木村くんが、襲来した時に風磨くんが言っていた「既存メンバー三人とのバランス」ということを考えると、非常に納得が行く結果だと、私は思う。
私個人の感想としては寺西くん、原嘉孝が、まずは、報われない結果にはならなかったことが一番良かった。彼らが涙したとき、これまで触れてこなかったおじさんがもらい泣きした。長く同じ事務所で踏ん張ってきた経験がこれからとても活きるかと思うと、とてもワクワクする。
社会人経験を経て入所した橋本くん、猪俣くんも、その経験を活かして、末永く頑張ってほしいと思う。
最後に、このようなワクワクするスキームを、余す所なくコンテンツ化してくれたタイプロチームには、改めてお礼を申し上げたい。
若い人たちのがむしゃらな姿を見て、人生の折り返しが近いおじさんも、まだ頑張ろうかな、と思えた。
この増田は、その決意表明をしたかったのかもな、と他人事のように思う。
私と同じように、ただなんとなくアイドルのオーディション…というだけで敬遠してる同世代の方がいれば、是非一度視聴をお勧めしたい。
一般社会で光を浴びている方も、日の目を浴びず苦しんでいる方も、もうつぶしの効かない年齢に差し掛かり、得も言われない不安を抱える方も、明日を生きる活力にしてほしいと切に願う。
ただ、欲を言えば、勝利くんプロデュースのボーイズグループデビューまでをコンテンツ化していただけないだろうか。
『革命のDancing Night』で撃ち抜かれたのはメンバーのパフォーマンスだけでなく、この完成度まで引き上げたプロデューサーの手腕である。
都合のいいことに、もうすでにある程度まで磨かれ、光り始めている人材がいるではないか。
この宝石たちを、佐藤勝利はどのようにカットし、研磨をするのか。
そんな形のない夢を見ながら、明日もまた仕事が控えているおじさんは、そろそろ寝なければと思う午前3時。
駄文、長文、誤字脱字、お目汚し失礼。
最後に。
最近ふと、衆議院と参議院の違いって、セ・リーグとパ・リーグみたいなもんじゃないかと考える。
ジオニック社がザクで絶対王者だとされても、裏ではツィマッド社がドムを生み出し、そして戦後はアナハイム・エレクトロニクスが連邦軍の技術を吸収して大暴れ。
私の人間関係も、学生時代にどこかの下っ端にいるような気分から、やっと対等な友達関係を築けたかと思えば、ふとした瞬間にまた孤独に押しつぶされる。
まるで、ジオニック社とツィマッド社の熾烈な覇権争いのようだ。
そんな中、ふと高級アクセサリーに目が行く。
それぞれの輝きは確かに違う。値段だけでは語れない、その存在感に、持つ人の気持ちもまた輝きを増すのかもしれない。
私も、そろそろ自分に「ご褒美」をあげるべき時期なのだろうかと、考え始めている。
昨夜のコンビニバイトでは、準夜の仲間たちとクソ客との一触即発なやり取りに、思わず「これが接客の極意か」と感心する瞬間もあった。
あの職場では、まるでお互いがガンダムのパイロットのように、状況に応じた絶妙なタイミングでセリフを交わしながら、日々の小さなドラマを演じている。
待ち合わせの時間に向けておしゃれをして準備万端。
だけど、彼は「駐車場代はケチる」男らしく、目的地に着いた時にはすでにランチタイムは終了。
結局、隣町の駐車場から46分の徒歩でお店にたどり着く羽目に。
まるで、どんなに計画を立てても、政治の裏工作や企業の策略に翻弄される私たちの人生そのものだと、呆れずにはいられなかった。
こうして振り返ると、衆議院と参議院の微妙な違いも、ガンダム企業の覇権争いも、友達との距離感も、高級アクセサリーの煌めきも、コンビニでの笑い話も、そしてデートでの駐車場問題も、すべては人生という名の壮大なドラマの一幕に過ぎない。
どんな些細な出来事も、振り返れば熱いロマンと切なさが溢れている。
横の和室に行っててくれるとさっきほどのモヤモヤはない、けどたまに引っかかる
あとは、逆にこちらが近くにいることで話し相手にしようとしてしまう
なのに話しかけても動画に夢中でろくな返事を返さないことにまたイライラ
結局、2階に行ってくれたらやっとモヤモヤイライラがおさまった
そこにいないから、自分から関わろうとしない、相手からも関わってこない
近くにいるとお互い別のことをしているのに、相手に干渉して・されてしまうのだ
一緒にいて同じことをしているくらいの近い距離感で、別のことをしていると、心理的にうまく距離を取れてない みたいな感じだろうか
転職したから職場に同期がおらず、人と雑談らしい雑談をする機会すらない。
元々、学生の頃からコミュニケーションが苦手で友達付き合いなんてほとんどなかった。
ただ、「人間関係は良好でなければならない」という脅迫概念に支配されていた俺は、なるべく人と接する機会を増やし、人と関わるように努めていた。
と言っても、部活やサークルのコミュニティに参加し、なるべく付き合いや飲み会やイベントに顔を出すようにしていただけ。
たったそれだけだけど、当時の俺は人間関係が上手くいかないストレスに胃が捻じ切れそうになりながら必死にコミュニティにしがみついていた。
今振り返ると、そのコミュニティの人に迷惑をかけたと思ってる。
どんなコミュニティにも、考えてることがよく分からないちょっとズレた変な人って一人はいると思う。
変で面白い人ではなくて変で奇妙な人ね。
そんな人間に積極的に声をかけられてもいい気分になるわけがない。
社会人になっても人と上手くコミュニケーションを取れず、精神的にまいってしまい精神科に駆け込むとASDだと診断された。
都合のいい言い訳ができた気持ちもあったけど、学生の頃から必死にノートに「人との付き合い方」を整理していたあの作業は無駄だったことが分かり、絶望した。
もう半分詰んでるんだけど、どうしようもない
ブラックに近い職場でうつ病になって、そこからちゃんと治らないので、障害者手帳とって、障害者雇用で働いてるけど、給料も上がらないし、もちろんパートナーとかもいないので、楽しみがない
今は薬飲んでるからなんとか働けてるけど、飲まないと絶対に働けないくらい、脳がやられてる。うつ病って脳の病気なんだよな、心の問題じゃなくてさ、脳の機能がおかしくなるんだ。だから薬を飲んで脳を普通の状態に保たないといけない
でもそんなふうに薬飲んで働いて、何になる?
自分は発達障害もあって、人との距離感が掴めなくてさ、まあ言い訳だけど、距離が縮まる前に告白しちゃったんだよな。それでフラれて、そこから連絡取れずに、もうずっと会ってない。
でも好きな気持ちだけはあるんだ。告白してから6年は経つんだけど、まだ好きなんだ。こういう執着してしまうのも病気なのかな?
自己研鑽の話がなんか増田で書かれてたけど、精神障害者が自己研鑽して、健常者と付き合えると思うか?まあ無理だよな。付き合えたら、相当レアケースだよ。
「じゃあ障害者同士で付き合えば?」と言う人もいる。でも俺が好きなのは、あの人なんだよ。換えが効かないんだよ。そういう気持ち、みんなには分かるのかな?恋愛ってそういうものだと思うんだけど、違うのかな?
書いてて虚しくなってきた。でも明日も仕事だし、生活保護と変わらないような手取り12万円の仕事をやらなきゃいけない。
でももういっそのこと、生活保護になった方がいいんじゃないかって思えてくる。
俺もさ、病気治して、転職して、収入増やせたらまだ彼女が振り向いてくれるかなって思って、資格の勉強とかした時期もあったんだよ。でもうつ病の後遺症なのかな、がんばれないんだよ。努力して勉強したら、脳が追いつかなくて、仕事に支障がでるんだ。
「甘えんな、みんなそうだぞ」という人もいるだろう。ただ、努力したくてもできないって結構辛いね。1日の終わりは、回復させるので精一杯で、自己研鑽なんてできやしないよ。
そんな俺でも、その人のことを思うから、なんとか生きてるんだよ。好きな人がいるって、いいよな。もう2度と会えないかもしれない、でも、もしかしたらいつか一目会えるかもしれない。そう思うだけで、なんとか生きようって思えるから。
彼女には告白して迷惑かけたなって思う。もう6年くらい前で、今なら、そういうの「コクハラ」だ だって分かるけど、その時は分からなかったんだよな。
とにかく、明日も生きるし、虚しいけど、でも自分はその人のことが好きだから生きていこうって思える。これが本心だよ。
こんなに思われてて、相手は嫌だろうけどさ、もう6年くらい会ってないし連絡も取ってないから、思うだけは許してほしいなって思う。
(追記)
少し前に家族の付き添いでアニメに嵌った。女性のファンの多いアニメだったので、SNSを駆使して感想を共有しよう!イラストも久々に投稿したい!と思っていた。
結果としてはそれは叶ったし何人か知り合いも出来たが、一人の女性が物凄かった。
私と同じ三十代前半である。
同世代であり、趣味が同じ私はトントン拍子にLINEを交換した。正直、自撮りやリポストが多いことと、スピリチュアル、フェミニスト寄りの発言が多いことから嫌な予感がした。
LINEで地方在住である彼女は、都内を散策したいが行き方が分からないと聞いてこられる。少し一緒に案内してくれないかと言われた。
1日くらいなら良いかと思ったが、成田と羽田空港の違いが分からず、寄り道に中部地方に行きたいが大阪と名古屋どちらが良いかと聞いてこられる。
いずれもLCCである。とりあえず距離を算出して乗り換えの対比を行って漕ぎ着けたが、
「私、家族旅行で都内に行くたび飛行機乗り遅れちゃうんですよね!」「前は渋谷でスマホ落として現地で契約したんです!」とか言われ、
既往と処方薬の一覧の画像を送られてきた。この時点で、一人で、旅行はやめておいては…?と、やんわり止めた。
他の友達からも経済的な事情で止められてるらしく、旅行にいってる場合じゃないよね?と言われているLINEのやり取りが送られていた。
それでも、事情がありどうしても行きたいと言うので、とりあえず旅程だけ聞いて半日だけの合流にした。
他人の外見のことは言及はなるべく避けたいんですが、髪の毛はボサボサでピンクのカラコンでアクシーズの洋服で手作り概念グッズを10個つけて、恰幅の良い女性がいた。ぬいぐるみも持ち歩いている。
私はオフィシャルなメイクくらいしかしないし、カラコンも普段はナチュラルなカラコンしかつけない。アウトレットで買ったミモザ丈のセミワンピースを着ていたし、アッシュグラウンの髪型なのでたしかにお洒落ではないと思う。
会ってしばらく普通に話していて
「〇〇さん乾燥肌ですよね〜」
「〇〇さんは骨ストのイエベなのでそのメイク似合わないですよー!」
アクシーズの洋服で合わせしましょうよ!と言われたのでやんわり断った。
会話のほとんどがスピリチュアル系だった。相性の良い神社がどうとか言われてお祓いしますよーと山手線の満員電車でお祓いされた。周りの乗客からドン引きされた。
会って新宿や渋谷に行きたいです!と言うので調べて乗換案内をした。
成田の行き方が分からんと言って、調べても分からんと言うので、この電車に乗れば着きますよと言ったら
飛び乗ったは良いがクリーン電車だったらしく金がなくて困っていた。
それからしばらくして、
デパコスや洋服を買っているらしい投稿をポツポツしていたので、羽振りが良くなったのかな?と思っていた(彼女は旅行当時専業主婦だった)
ある日、深夜に「私、以前売春したことがあって、今月お金に困っていて、今日出会い系サイトで自分から売春したんです。お金を思ったより貰えなくて、困っています」という内容だった。
貰った額を聞いたら病院に行くには余りに少ない額だった。
とりあえずNPOと警察をおすすめした。警察は余り親身になってくれなかったらしい(正直、当たり前だと思う。)
これまでの生活費は金を使い込んだだけでは…?と疑念を抱いたが、
「貰ったお金は運気が下がるのでこんなお金はパーッと使います!」と言われて、極力距離感を持とうと思った。
性犯罪にあったとかどうとかポストは続けていた。自分から売春しておいて性犯罪とは…と思っていた。
日を改めると今度は私が福祉職の経験があるからと精神障害年金の書類の書き方を聞いてこられ、
「私の方が〇〇さんより障害軽いと思うんです!だから年金〇〇さんも取りましょう!」とLINEを送られてきたので、
そのような診断は受けたことがないし、診察を勧められたこともないし正社員で働いているからと断ると
「正社員ではたらいているかどうかは年金の受給に関係ないですよね!〇〇さんのほうがの障害重いですよ」と言われて
長くなって申し訳ありませんでした。
ハラスメントを気にしてたから仲良くなれなかったんじゃなくて、増田が単にコミュ力が低いだけだから気にすんな。
人との距離感が分からん奴がハラスメント気にしないでコミュニケーションとってたら今頃会社クビになってたんだからそれで良かったんだよ。
難しいよな。
おれも思うところがあるよ。
結局、そういうのってゼロヒャクじゃなくて、相手の微細な反応を読んでこの人ならこれぐらいは踏み込んで大丈夫だなと見極める判断能力が必要とされるんだと思う。
生存競争みたいなもので、結果的に適切な距離感で踏み込めた人間は成功するし、距離感を間違ったやつは見えないところで淘汰されてる。
あとは当事者の魅力。同じことをしてても、相手から望まれない人間は排除される。
みんなコンプラに違反しないかビビってるから自分からは踏み込めない一方で、相手から来てくれなかったら「この人は自分に興味ないんだな」と判断されたりする。
終わりなんだよ。
人間社会はもう、18歳までに適切な人間関係を学べなかった人間は、その後の社会ではたった1回の失敗でそのコミュニティでは悪人の烙印を押される。
それをみんな心の底では感じてるから、余計に踏み込めない。
人間に求められる当たり前のハードルは、時代とともにどんどん上がってる。
どこかでこの流れが止まってほしい。
人を傷つけたり、不快にさせたりするのはそりゃ良くないけど、人は生きている以上、容易に誰かにとっての加害者になり得るんだよ。
どんな善人でも。
人間はそんなに立派な生き物じゃないということを社会に思い出してほしい。
でも、そんなことは、それこそ立派な人間じゃないと出来ないのかもな。
こんな事言うと自分が立派な人間だと言ってるように聞こえてしまうかもしれないけど、
本稿は、13歳になった君にこれからの人生を生きる上での考え方の土台や心の支えとなる思考的枠組みを網羅的に記したものである。
観念的でメタな内容が多く具体的なことについてはあまり書いていないが、それは君の人生の選択肢を狭めないためである。
具体的なことについてはその時々に応じて人に教わったり、自分で文献に当たったりしながら方策を模索して欲しい。
もちろんお父さんも協力は惜しまない。
人生を過ごすとは「何か」を成し遂げることである。まずは「目標」を持つこと。目標があれば「何をすべきか」=「手段や道筋」は自然と定まる。
歴史上、偉人と呼ばれる人々は皆、高い理想と大きな目標を抱き、それを目指して全力で努力をした。目標は、その時点で可能な限り高く大きく設定すること。最初は、例えば「貧困をなくす」「世界平和を実現する」「地球温暖化を防ぐ」「子どもたちを笑顔にする」などの抽象的なもの、漠然としたもの、夢のような目標で良い。後から変わっても構わない。というより、人生において目標はどんどん上書きされるものだからである。
ポイントは、まず「自分が想像する理想の未来=目標=ビジョン」を思い描き、そこからそのための「手段=ミッション」を考えることである。(これを上から下への思考法という)
「ビジョン」は感覚的、直感的、創造的なものなので右脳で捉えるものと言える。一方で「ミッション」は、抽象的でぼんやりとしたビジョンを具現化するための方法を、左脳を使って計算や分析、論理的思考で精緻に組み立てていくものである。
多くの人は与えられた「手段」から始めてしまう。とりあえず言われたから「勉強」する。とにかく「お金」が必要だから働く。なんとなく環境に悪そうだから「ビニール袋」を使うのをやめてみる。などである。勉強も、お金も、ビニール袋をやめることもすべて「手段」であり、それ自体が「目標」ではない。
「電気自動車があれば地球環境が良くなるかも?」ではなく、「地球温暖化を止める、そのためには何をすべきか?」という問い(イシュー)から入る習慣を身につけること。これはすべての課題解決のための基本的な姿勢である。
そのためには、視野を広く大きく持たなければならない。物質(モノ)、出来事(コト)、人間(ヒト)などはすべて、「多面的」、「俯瞰的(ふかんてき)」、「時間的」にとらえるクセを付けること。その裏側や側面はどうなっているのか、他のモノやヒトとの関係は? 昔はどうだったのか、10年後にはどうなっているだろうか? 世の中の多くの物事は複雑で、いろんなものと影響し合っており、時間とともに変化する。一義的、一面的、一時的な見方で正しい評価はできないと常に肝に銘じること。
受験や就職、大きな買い物、仕事、恋愛、結婚など人生の重要な決断をする時は、一歩引いて、客観的に、様々な立場や状況からモノ・コト・ヒトをとらえ、十分に考えること。
その際、ひとつ注意すべきなのは人間の物理的感覚、時間的感覚、記憶はとにかくあいまいでいい加減なものだということである。『10cm』は自分が思ったより短かく、『10分間』は長い。その逆もある。人の『過去の記憶』は都合よく修正される。正しい判断のためには科学的、客観的な「根拠」に立脚することが求められる。日記をつける、ちょっとしたメモを残す、時間や度量衡(どりょうこう)は道具を使って正確に測る、何かを分析する際は統計やデータに当たるなど、簡単なクセをつけるだけで結果は大きく変わる。
先に述べたように、目標は変化してもいい。というよりも変化すべきである。13歳の時にしか見えない、感じられないことがある一方、20歳になれば見えてくることも、40歳、60歳でしかできないこともたくさんある。重要なのはいつも目標を設定し前進し続ける、上を目指すという「姿勢」である。
人生は長い。5〜6歳で天才的な才能を発揮する子どもも、20代、30代で活躍するスポーツ選手も、70歳で功績が認められる科学者もいる。良いことだけではない。人生のどこでどんな不幸やトラブルに見舞われるかは予測できない。人生には浮き沈み、山も谷もある。どんな天才にも挫折はある。災害や戦争など自分では回避、制御できないことも起きる。
『良いことばかりは続かない』という覚悟は必要だ。しかし『悪いことばかり起こるわけでもない』。現状を悲観してばかりではダメだし、現状が順調であってもそれに安穏(あんのん)としていてはならない。常にトラブルに備えつつ、そして決して希望は捨てないこと。
おそらく、君の人生はお父さんやお母さんが生きてきたそれより厳しい時代を生きることになる。しかし、目標を一段高いところに置けば、現状に迷い悩んだ時にもぶれることはない。未来を信じて、希望を持って進むことができる。
「成功」への最大の近道は「人間関係(人脈)」だと断言できる。「実力」でも「運」でも「お金」でもなく「人脈」である。いい学校に行く、いい会社に勤めるのもすべていい人に出会うためであると言って良い。
成功の最大の秘訣は「人脈=人の縁」であり、人と人が出会って起きる化学反応が「奇跡」を起こす。
重要なのは、奇跡を自分で起こすことはできないが、奇跡が起きる「確率」を上げることはできるということである。単純な話、「機会」が増えれば「確率」は上がる。サイコロで六の目を出すのに一回振るのと六回振るのとではどちらの可能性が高いかは考えるまでもない。
人との良いつながりを広げるための小さな可能性を積み上げることがチャンスを引き寄せる。良い人には出向いてでも会いに行くこと。無駄かもしれないと思うような「小さな機会」を大切にすること。
『人は環境によって作られる』これは絶対的な真理である。高尚で、得るものが多く、社会的に正しい環境や居場所に自らを置くよう意識して行動しなさい。善良な人間と付き合えば善良になるし、朱に交われば赤くなる。学校には「校風」、会社には「社風」がある。
自身が意図しないこと、コントロールできないことで大きく運命が変わることもある。それを完璧に防ぐことは難しいが、「確率を下げることはできる」。
気をつけなければならないのは、「人としての善悪」は頭の良さや肩書や金持ちかどうかとは関係がないという点である。会社の社長にも教師にも医者にも政治家にも科学者にも宗教家にも、悪人や変人はいる。それを見抜く眼力は、多くの人間を実際に見ることで養われる。つまり「機会」が重要だ。おそらく君が想像する以上に人間は「多様」である。良い方にも悪い方にも突き抜けたとんでもない人間が存在するという現実は認識しておいた方が良い。
出会う人間を自ら選ぶことは難しいが、付き合う「距離感」は自分でコントロールできる。付き合う人や、身を置く場所や環境は自分で決められる。できるだけ「良い環境」で時間を過ごし、おかしな場所、コミュニティには近づかないこと。
たった一滴の赤いインクが落ちてピンク色に染まった水を元に戻すことはできない。大切なのは自分のコップにインクを落とさないように気をつけることだ。
「エントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)」というものがある。エントロピーとは「無秩序さの度合い」を示す尺度である。放っておくとエントロピーはどんどん増大し元に戻らなくなる。これは物理空間の森羅万象すべてに当てはまる普遍の法則とされる。水に拡散したインクが自然に水とインクに分離されることは絶対にない。トランプをシャッフルするのは容易だが、偶然きれいにカードが揃うなどということはまず起こり得ない。机の上や部屋はどんどん散らかるが、自動的に整理されることはない。社会的な混乱の広がりもエントロピーの増大である。エントロピーの増大を制御し「秩序」を保つためには人の意志と行動と力が必要である。
人と人との関係も同様で、意識して制御する必要がある。良い人と出会うことが良い環境への扉を開く鍵であり、良い環境に身を置くことがより良い人に出会う条件である。この好循環を自ら意識して作り出すこと。
井の中の蛙は池を知らず、池の小ブナは大海を知らない。大海原や大空に出て様々な出会いを経験することは君を大きく成長させる。
もう一度言う。『人は環境によって作られる』
お金がある事は必ずしも人を幸せにしないが、お金がない事は確実に人を不幸にする。そういう意味でお金は重要である。
その日その日の生活がやっとという状態では先のことが考えられなくなり目標を見失なう。そうするとどんどん人生の選択肢が狭まっていく悪循環に陥る。
金はどん欲に稼ぐ必要がある。ただし「正しい心」は忘れずに。
お金を稼ぐときには、ギャンブルや宝くじのような一攫千金は「まず起こり得ない」と肝に銘じること。0%ではないがあまりにも期待値=確率が低く、選択肢に含めて物事を考えるには無理がある。確率論に基づいて冷静に考えれば理解できることである。一攫千金を前提に物事の計画を立ててはいけない。
怪しげな儲け話も同様である。誰かから「うまい話」を持ちかけられた時は、それは「あなたのことを思って」の話ではなく、相手が「自分のために考えた」話だと受け止めること。うまい話の裏には必ず別の悪い話、ヤバい話、落とし穴がある。
確かに「成功し、大金を手にした」という人は世の中に多数存在する。だがそれはほとんどの場合「塵(チリ)が積もって山になった『結果』」である。着実に金を稼ぐには「塵のような稼ぎをどん欲にかき集める」ことが必要だ。1円、10円のような「塵のような稼ぎ」を生み出すことはそれほど難しくはない。ただしそれを「どん欲にかき集める」ためには知恵と努力が必要になる。
『100万円の商品を1個売る』より、『100円の商品を1万個売る』方がビジネスとしては堅実である。100万円の商品が1個売れなかったらそこで終わりだが、100円の商品が9,999個しか売れなくてもあまり影響はない。『100円の商品を1万個売る』より『100万円を一発で当てる』ことの方が何倍も難しいが、多くの人はそれを逆に考えてしまう。『一発当てる』ためには運が必要で不確実性が極めて高い。しかし「塵をかき集める」ことは自分の努力でなんとかなるということを理解すること。
近い将来、君は世の中に無数にある仕事や事業の中から何かを選んで生活の糧を得ることになる。何をすべきか迷ったら「人からの感謝」を対価として得る仕事を選ぶと良い。
野菜が欲しいと思っている人に野菜を作ってあげることは素晴らしいことである。困っている人を助けてあげれば感謝されるだろう。スポーツや芸術で人々に感動を与えることも意義のある仕事だ。それが「世の中の役に立つということ」である。『いい世の中』はそうやってできている。
しかし、投資やギャンブルで稼いでも誰からも感謝されることはない。つまりそれらは「仕事」にはならない。ギャンブルは論外としても、投資は今の時代には資産形成のために必要(そういう仕組みが前提の社会になってしまっている)なので否定はしないが、少なくとも「生業(なりわい)」にすべき仕事ではないことは知っておいて欲しい。
人間の欲求には際限がない。1万円あれば1万円使うし、1億円あれば1億円使いたくなるのが人間である。これは抑えることが難しいし、無理に抑えこむと精神的にも疲弊しQOL(Quality of Life、生活の質)が低下する。
この課題に対する古来よりの解決策はただひとつ。収入から「天引き」することである。給料であれ何らかの収益であれ、収入があったらその10~25%くらいをすぐに使えないような形で貯蓄に回しておく。
「天引き」が蓄財のための最も効果的な方法であることは、ユダヤ人もイスラムもメソポタミア文明も華僑も日本の本多静六という人物(明治の造園家であり東大教授)も提唱している「お金を貯めるための基本中の基本」である。(逆説的だが、租税公課や組織に必要な費用の類はだいたい給料から天引きされる。その理由をよく考えるべきである)
人間は9000円しかなければ9000円しか使わないし、1万円あれば1万円使ってしまう。その理由は消費社会の仕組みがそうなっているからだ。時計には1000円から1000万円以上するものまである。自動車も同じ。毎日飲むお茶、毎日使う紙にもいくつもの価格が設定されているように、世の中のありとあらゆるものには価格の上中下(日本では松竹梅)が存在する。お金があるからといってその分高いものを買っていると際限がなくなる。この欲求はお金がある限り続く。それが人間の本質なので努力や気合いで抑制するのは難しいし、何より楽しくない。だから「欲求」を抑え込むのではなく、「お金」の方を制限しなければならない。
そのために最も有効な方法が「天引き」である。人間は9000円しかなければその内でやりくりをするのである。それで困ることはほとんどない。資本主義とはよくできたもので、モノ・コトの価格には上には上があるように下には下もあるからである。
「天引き」のための具体的な方法は色々ある。最も簡単な方法は「定期預金」や「財形貯蓄」を銀行に申し込んでおくことである。今の時代なら「(安定した)投資信託」も選択肢に入るだろう。初任給をもらうと同時に始めることを勧める。
次に、天引きした後のお金で「やりくり」をするための基本的な「生活の知恵」を記しておく。
高額のものを買う時は、その価格に「本質的な価値」があるかどうかを見極めること。
高級車も普通車も、飛行機のエコノミークラスもビジネスクラスも、「移動する」ための時間は変わらない。どんな時計も「時刻を知る」という性能はほとんど同じである。どんなカバンでも「物を運ぶ」という役割は変わらない。もちろん機能以外に別の価値(デザインなど)を認めることは人間が文化的な営みを行うために必要なことだが、消費社会においては高価な価格の価値の大部分は「欲望」=「欲しいと思う気持ち」を揺さぶるために人為的に生み出されたものだ。
その価格差は、機能や性能によって生じているものなのか? 人間の心理的な欲望を巧みに刺激するために付けられたものなのか。物を買うときは「本来の機能=目的」を基準にして価値を判断するとぶれない。
基本的に日常生活品を買うときは「今ある物を使い切ってから買う」こと。流通が高度に発展した現代日本においては(災害などの例外的な事象は別にして)無くなってから買っても不自由することはない。
経営学における重要な概念として、「在庫」と「廃棄」には「維持」と「損失」という大きなコストがかかっているという考え方がある。物は「置いておくだけ」でお金がかかっているという感覚を徹底して身につけることが重要である。
特売だからとか念のためにとかいう理由で安易に「在庫」を増やしてはいけない。「無くなってから買う」が原則である。1日程度のブランク(空白)が生じたとしても、ほとんどの場合なんとかなる。文房具も、食料品も、日用品も、服も、本も、ゲームも、前のものを使い切り、無くなってから次のものを買う。これで無駄遣いは随分と減るはずだ。(繰り返すが非常時への備えは別である)
それからこれは私の経験則だが、衝動的に「欲しい!」と思ったけど買うかどうか迷ったものは、1週間〜一か月程度我慢してみる。ほとんどのものは熱が冷めたように関心がなくなる。ただし「売る側」もしたたかで、「期間限定」や「数量限定」といった手法でこちらに考える隙を与えない。冷静な判断のためには、やはり「それをいつ、どこで、どのくらい使うか」という「在庫管理」を常に正確に行うことが肝要だ。
あらゆる在庫を管理するためには「整理整頓」が重要である。身の回りのものは整理整頓に努め、いつでも数量や状態を把握できるようにしておくこと。
整理整頓には各分野に体系化された「技法」がある(代表的なものとして図書館の本の分類法である日本十進分類法(NDC)や日本工業規格(JIS)、ISO、公文書管理規則、生物の分類と同定法、見える化など)。早いうちに機会を作り、習得しておくことを勧める。
ちなみに、このような「一生使える知識や技能」は習得が早ければ早いほど人生において得られる利益が大きくなる。大人になってから「こんな便利なもの、方法、知識があるとは知らなかった」と後悔することは多い。
金銭出納帳を付けることも重要である。帳簿をつけない企業、組織など存在しないことを考えれば、出納管理は必須の Permalink | 記事への反応(0) | 21:00