はてなキーワード: 各自とは
小学校教員増田だが、ここ10年くらい、あらゆる教科で「調べ学習」の比重が急激に上がり続けている
総合はもちろん、理科でも社会でも国語でも、とにかく「各自で課題を見つけて」、「ネットで調べて答えを探す」を繰り返している
ただ、1クラス30~40人でそれぞれがバラバラの課題をググってる状態なので教員によるファクトチェックが全く追い付いていない
クラスの1割は発達障害で、他の子も昔と比べると生活能力が低く、家庭のしつけも期待できない現代
デジタルネイティブの世代が闇バイトとかSNSに扇動されるのは小学校教員から見ると当然だと思う
リベラリズムは、全員がより自由で押し付けのない世界をつくろう、という理想を掲げたが
やってみて判ったことは、結局リベラリズムの側が教条主義、押し付けを行う側になってしまうということだった。
結局のところ「私に一切の押し付けや不快さが発生しない状態が欲しい」を全員が思っていたら
闘争は嫌なので、あらかじめ対立の勝敗をルールと正義で決定しておくことになり
そして正義に属さない側が押し付けや不快さを生きていくだけになる。
また友人を失うかもしれない。
原因ははっきりしているのだけれど、それの帰責性が自分にあるのか相手側にあるのかが分からず(もちろん自分では自分に責めを負うべきところがないと思っているのだが(あれば治すし))、また、失いそうになっている。まァ帰責性の存否にかかわらず関係の維持は可能だとは思うが、これは後で検討する。
はてな匿名ダイアリーを初めて利用するのは、決してアドバイスや共感を得たいわけではなく、ただ文章に直す作業がしたかっただけなので、この文章に関しては一切の責任を負わないし、二度と思い出すこともない。
筆者は2002年生まれの現役の大学生で、一年、浪人している。関東出身。男。彼女はいない。いたこともない。最近オナホを買って心底がっかりした。冷たかった。東京の山手線の内側の狭い部屋で一人暮らししてる。社会科学系。専攻している分野が世間的にはマニアックなので、人との交流は少なく、一週間で会話することがあるのは先生(教授)と、バイト先の生徒や関係者など、片手で数えられる程度の人数しかいない。それでも、社会性を失いたくない(社会にアクセスするハードルを上げたくない)から身だしなみも整えてはいる。年がら年中オフィスカジュアルみたいなものを着て、いい酒が飲める店にいつでも入れるくらいの格好しか持っていない。もしかしたら自分がおかしい(もしや統合失調症でも発症しているのか!)のかと思い、精神科や家族に相談してみたものの、極めて正常ということらしい。彼らと相談する際によく耳にしたワードとして「時代だから」というのがあり、いささか疑問がありつつも、自分にもそう言い聞かせ、またそうするようにしている。なぜなら、理由は単純な方が良い。だけど、友人と自分は同じ時代を生きているし、同じ時代で育ち、同じ地域で、同じ中高で、同じ部活で過ごしたはずなのに、なぜ?
友人Aの場合
Aとは、本来であれば今年で10年超えの付き合いになる。Aは旧帝に落ちて私立大学に現役で進学した。たまさか、学部は違うけれど同じ大学に所属している。彼女はいない。チー牛という言葉が出始めた頃、漏れなくチー牛を自称していたが、そんなことはなく、月並みかそれ以上だろう。Aは、サークルに所属しており、友人と先輩と後輩がいる。Aが大学に入ってからは、「ちょっと変わった」先輩(男)のお世話をしていることを嬉しそうによく話していた。「ちょっと変わった」先輩の話というのは、おかしな行動や、服薬している薬の名前、就活の動向や、就労後の話など。確かに、「ちょっと変わっ」ていた。
書いていなかったけれど、筆者は大学院に進むので就活はやっていないし、大学院のあとにもその技能を評価してくれる機関があるので、レールは敷かれている(ただしそのレールは「完全に」壊れている!)。Aはそのことをあまり良く思っておらず、酒が回ってくると「お前はいいよな」といった風な言葉をかけてくれる。じゃあお前も俺と同じ孤独を大学の6年間とその後の人生をもって味わえ、とは言わない。分別があるから。
おそらく、Aには特殊な技能はない。英語も普通、スペイン語は自己紹介も忘れ、ゼミでは経済?に関してやっているらしい。人当たりもよく、声もデカいし、健康な、世間の求める「普通」が服を着たような大学生だ。そのため、「普通の就活」が必要だった。ただ、彼はそれをしなかった。
さっきの「ちょっと変わった」先輩の真似をして、大手とベンチャー合わせて10社くらい?しか受けず、結局小売大手に決まったらしい。この文を見ることはないだろうけど、おめでとう。体を壊すなよ。Aから聞いた話では、不動産大手の二次面接?に進んだがあえなくやぶれ、ベンチャーと大手の2つが手札にあった。そのことを聞いたのはAと今度失いそうな友人Bと、共通の友人Cが同席しているときだった。
大手は、CMでもよく流れてる企業。我々の地元だったらみんなが口を揃えて納得する企業だ。業績も悪くはないし、払いもそこそこ。いいじゃないか。
ベンチャーは、SIer派遣会社。「独自のシステム」をもとに「円滑な」派遣を行っているらしい(又聞きなので詳しくはわからない)。報酬は基本給と地域制限付きの家賃補助とボーナス代わりのストックオプションか新株予約権付きのストックオプション。新株予約権!?
悩む理由がわからねぇ~!!!マジで!!ポンジスキームもいいとこだろ!
仮に上場できたとして流通価額の低いゴミ株なんか持ってたってなんの役にも立たねぇし、最終的に株式合併して希釈されるのがオチだ。しかも持株会で買わされるのは目に見えてる。人材派遣会社の株式の価値が上がる要因ってなんなんだ、このAI時代に。
もちろん、Aを引き止めた。大手に行ったほうがいいともそのまま伝えた。が、彼は納得しなかった。彼の言い分は、「社長の人格に惚れた」、「成長する見込みはある」、「自分を認めてくれた」、「頑張りたいと思ってる」など。
今は、頑張れるのかもしれないし、きっとできる。でも1年後は?3年後は?10年後30歳を超えたお前はなんの技能も持たずに転職して別の業界に身を投じたいと「現時点で」考えているのか(そういう趣旨のことを言っていた)?という言葉がでてしまった。言ってしまった。
ああ、言ってしまった。言っちゃだめなのに。本当のことは話しては、いけない。
Aはしばらく考え込み、我々は、楽しい話をし、酒をたくさん飲むことになった。
そのあと電車で各自帰路につき、帰り道が同じAと筆者は散歩がてら話をした。桜の良い季節だった。
そして、AからAの意中の女子と上野に行く計画を聞いた。西洋美術館かなにかに初デートで行くとのことだった。桜の季節の上野の初デート?コロナ解禁のタイミングだったため、混むのは目に見えている。だから、助言をした。
「絶対混むから展示が終わったら速やかに上野を離れろ。飯を上野で食おうと思うな。歩かせたら文句が出る。散歩しながら店を見つけようとするな。地下鉄で移動しろ。バスっていうのも悪くないな」と。さっきも言った。これは、言ってはいけない。言っちゃいけなかったんだ。言い方が悪かったのか?それも、そうだ。とにかく、悪かった。
Aは怒ってしまった。曰く、筆者の「正しい価値観(原文ママ)」を押し付けてくれるな、ということだった。本当に、そうだろうか。
別に、筆者の助言を聞くのはAの義務ではないし、また、それをAが実行に移さなかったところで、筆者は何も思わない。聞き入れられなかったのか、と思うだけで、しかもそれは筆者の自由だ。Aの気にすることではない。さらに言えば、仮に筆者の予想が的中したとしても、それはそれで初デートかくあるべきというやつなのだろうから、それも、味かもしれない。苦みかもしれないが。
Aは筆者に怒りながら言い訳を始め、筆者はそれに真っ向から対応してしまった。いかんせん、二人共酔っていた。Aはそれを認めなかったが(己の適量というやつを知らんのか?)。
そうして小一時間ほど深夜の野外で大声で話し合ったが、トイレに行きたくなった。当たり前だ。春の夜は、寒い。
筆者が「俺、帰るから。もしまた同じことを聞きたくなったら電話してくれ。必ず同じ内容をもう一度言ってやる。何度でも、だ。今日はもう、寒くてトイレの限界だ。」と言ったら、Aは「これは喧嘩別れじゃないんだ!もういい年なんだし!」と漫画で見たような捨て台詞を吐いて帰っていった。
その後、彼からの連絡はない。こちらからも、電話はしない。きっと、恥ずかしいだろうから。風の便りで、行方は知っている。
もう分かっていると思うが、筆者は伝えてしまうのだ。論理的に考えれば当然の帰結や、大人かくあるべき社会人かくあるべきという規範から導かれる「正しい価値観」に基づいてした思考を、伝えてしまうのだ。言い過ぎてしまうというよりも、簡潔に伝えてしまうのだ。言ってはいけないのに。
もちろん、言わずに流すこともできる。今っぽく「へぇ~ そうなんですね~なるほど~いや~わかんないです~笑」みたいに言うのも可能だ。ただ、それは可能だ。友人が痛い目に会おうとしているところに、なぜ、助言してはならないのか。痛みに慣れるのは、あまりよくない。余計なお世話だろうし、たしかに、余計なお世話だ。でも、友人である俺が言わなければ誰が言うんだ?親か?上司か?先輩か?それとも後輩?はたまた八奈見さんみたいなマニック・ピクシー・ドリーム・ガールか?八奈見さんだったら言ってくれる。ケアも、ある。でも、八奈見さんは、現実には、いない。そう、いない。
きっと誰も、言わない。なぜなら、波風が立つから。
彼らからすれば、筆者は「不和を生み出す存在(原文ママ)」らしい。これを居酒屋で言われたときは泣いちゃうかと思った。もう、22の大人なのに。酒が入ってなかったら泣いてたんじゃないかな。それくらいに、悲しい。嘘は、つかない。
多分、彼らからすれば人から何かを言われることそれ自体が、加害性を含むものなのだ。そして筆者は、その意図がないにも関わらず、きっと加害性に溢れている。それは怒られることとか褒められることとかは一切関係ない。自分の世界とそうじゃない世界の区別が全然ついていない。自己免疫性疾患みたいなもので、感受性と言う名のレセプターが過剰に反応しすぎるんだろう。ガラス症みたいな若者で現代は溢れている。そしてそうじゃない奴は、加害性を一見伴わないフェードアウトをされて(実際は加害そのものだ!)、彼らの社会から排除される。確かに、彼らからすれば筆者は脅威で、筆者からしても彼らは異常な世界に住んでいる。関わりはなくても良い。でも、同じ時代を生きているし、同じ時代を生きていた。
「過去に見捨てられたのではなく、過去を見捨てたのだ!」という悪役のセリフがあったような気がするが、筆者は明らかに過去に見捨てられている。過去を捨てはしないが、過去が筆者を排除しており、またそうせざるを得ないのだろう。筆者は過去を懐かしむこともできず、自分の頭の中で改変されたナラティヴを都合のいいように楽しむ不誠実なことを実行する直前のところまで来ている気がする。防衛反応だったとしても、やっちゃだめなことはやってはいけない。でも、やるしかないかもしれない。やってはいけないんだけど、やるしかないかもしれない。許してくれなくてもいい。自分を許す権利は自己にしか存在しないし、また、そうあるべきだから。いや、そうでなくてはならない。俺は俺自身を許す。必ず、必ず
朝だぞテメェら、気合を入れろ!○んだ魚みたいな目してんじゃねぇぞ!
まずは水でも飲んで、脳みそ叩き起こしてこい!
準備できたら、即、ランニング行ってこい!ダラダラ走るんじゃねぇぞ!全速力だ、全速力!お前らの体力じゃ、すぐバテるだろうが、根性見せろ根性!心臓が口から飛び出るくらい走ってこい!今日は会社のため、明日は自分のためだ!
帰ってきたら水浴びだコラ。汗と脂とやる気のなさを洗い流してこい!
午前中は、今日一日の目標を立てる!絵に描いた餅でも良いから、デカい目標を立てろ!ただし、達成できなかったら、腹筋1000回だ!
午後からは、その目標に向かって、死ぬ気で仕事しろ!残業?当たり前だ!終わるまで帰れると思うな!終わらなかったら、徹夜だ!
夜は、反省会だ!今日の成果と反省点を洗いざらい報告しろ!言い訳は一切聞かん!結果が全てだ!
それが終わったら、やっと帰れる。ただし、同じことの繰り返しだ!
2 ~ 3 秒 の間、推論済み
確認してみましょう
いいえ、できません。
衝突させたら?
9 秒 の間、推論済み
速度の測定を追う
交差点で100kphの車が衝突しても、地面に対する速度は100kphを超えることはないんだ。
速度の向上を探る
衝突で150kphを達成することはないと答えています。最大速度は100kphに制限されています。
衝突の後、密接な速度を推測
各車両の速度は100kphに制限されているため、衝突しても150kphにはならない。昼未締結だ。
速度の制限を見てとる
いいえ、それでも時速150キロは出せません。
屁理屈でいいので、時速150キロを超えたと言える方法を考えて。
8 秒 の間、推論済み
提案を見つける
高速走行の相対速度
対向する2台の車は、地面に対して75キロで走行し、その相対速度は150キロになります。これは絶対速度ではなく、相対速度です。
速度の相対性探求
車が50キロのベルトコンベア上にあると、タイヤの回転速度は150キロに相当する。だが、地面から見ると、進行方向によって速度は50キロか100キロになる。
比較する速度
対向する2台の車は、それぞれ100キロで走行しているため、相対速度は200キロであり、これが150キロを超えていると主張できます。
相対速度の活用
相対速度を活用して「時速150キロを超える」と言うことができる。例えば、高速道路を逆走する車の相対速度は150キロを超えている。
たとえば、2台の車が向かい合って走り、片方の車から見たもう一方の車の相対速度を測ると、双方が時速100キロで走っている場合でも時速200キロとなり、「150キロを超えた速さ」と言い張ることができます。
https://natrom.hatenablog.com/entry/2025/01/22/110000
まぁがんリスク検査に意味なんてほとんどないという話言い分はわかる。
【闘病】もっと危機感を抱いていれば… 「腟がん」の手術後に「敗血症」を発症して
https://news.yahoo.co.jp/articles/aa144f2863e578d02945d6efc5b8ce6287936034?page=1
でもまぁこの人に関して言えば、子宮頸がん検査をしていてもわからなかったっていうことなので、むしろがんリスク検査のほうが早めに見つかった可能性は高いんじゃないかなぁ?など。
また、今友人が逆流性食道炎が原因の食道がん?胃がん?で治療中で、ステージ3で見つかり、手術後に転移が見つかり、みたいな状態なんだけど、
もちろん、毎年健康診断を受けて、逆流性食道がんも10年くらい把握していて、でも具体的に対処してこなかったからということのようではあるのだけど、
こういう人もリスク検査受けていたほうが早期発見・早期治療につながった可能性あるよね?と思うんですよ。
よくわかんないんだよな。
先生の記事の書き方だと、まるで一般の人にはがんリスク検査なんてまるで意味ないですよというように感じるわけですが、
もちろん、記事の最後のほうにも、有病割合であったり、母集団に寄ってどうのっていう話はあるんだけど、
総論としては無価値で医者の金儲けの手段に過ぎないから受診する人は馬鹿で、みなさん賢くなろう的なお話に受け取るわけでございますよ。
でもですね、逆流性食道がんが胃がんの原因になる可能性がとかも、ワイ的には今回始めて知ったわけですよ。
眉唾的な話もあるじゃないですか。あっつあつの味噌汁をよく飲む人は食道がんになりやすいとか。
当たり前のところで言えば、喫煙者だから肺がん胃がんになりやすいとかさ。
一人の一般人として言えば、僕はあっつあつの味噌汁をしたべろを半分やけどしながら飲むのがとても好きだし、ヤニカスだし、親父もがんだし、まぁ潜在的にはがんになる可能性が高い方の人間だと思う。
年齢的にも徐々にがんになる人が出始める頃合いだ。
なんなら、先生の記事を読んで、受けるやつはバカなのか、統計マジック使った金儲けかと思ったわけだ。
でもまぁ、友人のがんの報告だったりを聞くと、ちょまてよ?などとも思うわけだ。
でも、受診するやつは馬鹿なんだよなぁ、、、などと思うわけだ。
まぁ、僕がどうするかは別として。
気付いたときに手遅れになるのがいいのか、誤診もあるけどある程度リスクを把握できるほうがいいのかは、最終的には各自の人生であり価値観だと思いますが。
なんかすごく気になったのでちょっと吐き出しです。
この本は、婚活アプリで出会った男女2人の視点で物語が描かれているんだけど。前半の男性目線パートは「ほんとそれな」っていう気持ちで読めて、後半の女性目線パートは「なるほどそういうことなのね」っていう答え合わせみたいな気持ちで読めた。なんで読んだかといえば、私自身、婚活アプリで今の妻と出会い結婚したっていう境遇の近さもあったし、結婚してまだ1年も経たないがうまくいっているとは言えず、私自身苦しく、今後どうしようか悩んでいたからだった(朝井リョウさんの帯書きがそんな私の状況に刺さる言葉だった)。
で、今読了したところなんだけど、圧倒的なリアルさに震えつつ、自分がぼんやり思っていたことを言語化するのに役立たせてもらった感謝、圧倒的感謝の気持ち。多分 "結婚" というワードに違和感をもったり漠然と不安を感じるひとは読むといいと思う。
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私は、私の妻はBPD(境界性パーソナリティ障害)ではないかと疑っていて、妻と私は共依存の関係なのではと思っている。一般的にそれぞれがどんな症状なのかはネットやAIに聞いてみてくれ。までも簡単にいうと、メンヘラとその親代わりなることに自身の価値を見出す人の不健全な関係といえるかも。
で当然ながら、私は自分の境遇をこの本の主人公2人に重ねて読んでいた。
すると、女性主人公である真実と毒親・過干渉な母とは共依存関係で、お互いに自他の感情・問題の境界が曖昧になってしまっているように読めるし、意を決して自立しようと親元を離れて自分自身で結婚相手を探してみても、結局は母の代わりとしての新しい依存先を探しているだけのようにも読める。それに、男性主人公である架くんの友達や第三者には「いい子」を演じてしまうあたりも、BPDにおける見捨てられ不安からくるものだし、そしてその背景には小さい時に母に植え付けられてしまった「いい子でいないと自分には価値がない」っていう生存戦略を大人になっても維持し続けてしまっていることが大きな要因としてあるんだろうなとも推測できる。
それに、ストーカーされているなんていう大嘘をついて男性主人公である架を結婚に踏み切らせる手法は(架の女友達からひどいことを聞いていたとしても)、明らかにBPDのいわゆる試し行為じゃないだろうか。「この子は私がいなくてはだめになってしまう、自分が守らないと」というある種善良な男性の依存心をくすぐるもの。それで結婚しても当然ながら前途多難で健全ではない関係なんじゃないか?と思う。
でも、それにひっかかる架くんも架くんなんだよね。本当に鈍感で女性の心理がまるでわかっていない、傲慢で脳内お花畑なんだろうなと(その言葉はそのまま自分に返ってくるんですけどね...)。本書ではあまり描かれていなかったけど、架の家庭環境ももしかしたら影響していたかもしれない。だって普通自分が70点をつけた相手が、プロポーズした後に失踪して半年以上も連絡がとれない状況になったら諦めない??自分の責任だって感じるのはわかるけど、仕事もないがしろにして探し回る様子は執着しているようにもみえるし、真実の無事と嘘が発覚したあとも式場をキャンセルせずに待ち続けるってどうなの?半年以上会ってないのに、再会してすぐ再プロポーズって実際どうなの?
それに、父親が亡くなってしまったときも、中堅の広告代理店で順調にキャリア積んでいたのをやめてまで父親の会社を継ぐのは、不自然に思える。おそらく母親のことを考えたのかもしれない。母親では父の仕事の代役はできないし、母を悲しませたくないから自分が犠牲になれば...みたいな。そういうところを見ても、人生の大事な選択を他人に任せてしまう、それはそれで真実とは違う角度で、自他の感情・問題の境界が曖昧になっているようにみえた。もちろん、その最たるものは、真実との結婚だけど。
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最後にエピローグとして、主人公たちが結婚する様子が描かれているんだけど。その慧眼に震えた。
エピローグを読まなければ、それは女性主人公である真実が自身の過去を克服して自立する物語になるし、エピローグまで読むと、一見いい話で終わるようにもみえるけど、BPD(の疑いのある)当事者とそのパートナーとの関係と考えると、実は救いのない残酷な物語になるんだよね。
「あぁ、この夫婦はいつまでもこんなことを繰り返すんだろうな。お互いに依存しあって振り回されて、そのたびにそれを乗り越えなきゃいけないんだな...二人とも心と身体持つかな...」
っていう。そういう意味で、エピローグではきれいな情景描写で終わっているけど、こっからがスタートであって、こっからが大変だっていうっていう結婚の大事なところは描かれていない。各自の親との関係性を不安視するところとか、「何考えてるの」のやりとりで、これからの大変さを表現しようとしていたのかな。でも全然足りない。私が感じている結婚の大変さからしたら。本の主題とか区切りとしては、そこまで描かないのはそりゃそうだけど。
なんにしても、自分の物語のように読めて、自分自身を客観視するのにとても役立ったし、妻に対する解像度や想像力が少し養われた気持ち。残酷ではあるけど、現実を突きつける良本だった。
カドコミないしコミックウォーカーのブクマまだ反映されないんだな
はてブは違うのかな
中には1100ブコメも付いてるページもあってアレも皆各自でタイトル編集してるのかな
今年も結構ブクマされてるのを見るんだけどまだURL剥き出し状態なのよねぇ
(以前ならアーススターも)PASHとかブリーゼとか直接ブクマ出来ない漫画サイトもあるけどジャンプラとかマガポケは普通に出来るから
基準さえ分かればいいんだけど
運営も気付いたら直接出来るように変えてくれたらわざわざ一ページ毎にタイトル変更する煩わしさが解消出来る分助かるんだけどね
もしかしたらカドコミないしコミックウォーカーはブクマ後自動でタイトルが付く漫画サイトじゃないのかもしれんな。
諦めたくないけど諦める!
おっしゃる通り、米に関しても、政府が物理的に倉庫に保管しているだけではなく、卸売業者に備蓄をお願いしているケースがあります。
日本の米の備蓄に関しては、政府が直接大規模な倉庫を持っているわけではなく、主に民間の流通業者に対して「備蓄義務」を課し、一定量の米を備蓄させるという形になっています。米の備蓄システムは、国家的なリスク(自然災害や戦争など)や、食料供給の不安定性に対応するためのものです。
具体的には、政府が備蓄の目標を設定し、それに基づいて業者が必要な量を各自で確保していることが多いです。そして、その量については、普段の供給状況や消費量を考慮して定期的にチェックされ、古くなった分は入れ替えられるシステムとなっています。
ただ、米の場合は他の生活必需品とは少し事情が異なる点もあります。米の備蓄は、例えば農家から直接買い上げたり、政府の協定のもとで実施されることがあり、特定の業者に一任されていることもあるため、規模や仕組みが異なることもあるかもしれません。
いずれにせよ、米の備蓄についても、「政府がすべて管理している」といった直接的な倉庫管理は少なく、各業者や流通業者が担っているという部分が大きいのは確かです。
長年法整備が議論されてきた選択的夫婦別姓だが、2024年衆院選の結果、ようやく実現に向けて動き出すことが期待されている。
しかし、旧姓利用の拡大を主張する政治家も存在するため、着地点は見通しにくい。
「旧姓利用の拡大」という言葉はあいまいで、次の三つの解釈ができる。
1. 民間人が(勝手に)旧姓利用を拡大し、民間企業・民間団体が各自判断して対応する。
2. 名前制度は現行のまま維持する。民間人が(勝手に)旧姓利用を拡大し、役所・民間企業・民間団体には対応を義務づける。
1は何もしないのと同義であって、現状の問題を一切改善しない。2も効果が国内に限定され、また対応を義務づけられた用途以外では利用できない可能性が高い。
そのため、3の旧姓の公的登録・利用・証明制度のみが選択的夫婦別姓の対案となる。
実際には旧姓の公的登録・利用・証明制度は選択的夫婦別姓と並立可能なため二者択一ではない。
しかし、選択的夫婦別姓を導入しない前提で主張していると思われるケースが見受けられるため、ここでは両者を比較しつつ考察することとする。
i. 現時点での筆者の考え
vi. まとめ
選択的夫婦別姓の代替策として不十分な議論で導入するようなものではない。
選択的夫婦別姓の実現後も旧姓の公的利用制度を求める声が大きければ、(過去に選択的夫婦別姓についてそうしたように)法制審議会に諮問すべき。
理由は以下で論じていく。
旧姓の公的登録・利用・証明制度(以下、旧姓の公的利用制度)が実現した場合、制度利用者の旧姓名は公的なものとなる。
旧姓を公認することで不便が改善され、旧姓利用の拡大を後押しできるというのが建前ということになる。
ここから本題だが、旧姓の公的利用制度の波及範囲を一部の政治家は過小評価しているように見える。
旧姓名を公的なものとした場合、潜在的には名前に関するあらゆる法律に波及する。
たとえば、個人情報保護法では個人情報の定義に氏名、生年月日などが挙げられているが、条文か解釈を変える必要があると思われる。
「氏名」というワードが登場する法令は十や百ではきかないので、その波及範囲はかなり大きくなるだろう。
一方、選択的夫婦別姓で別姓結婚した場合では両者の戸籍名が変わらず、名前に関するあらゆる法律に波及することはない。
現状の強制的夫婦同姓においても片方は戸籍名が変わらない。別姓の場合には同姓の場合の戸籍名が変わらない側と同じように対応することができる。
一部の政治家は旧姓の公的利用制度を選択的夫婦別姓よりマイルドな方策と宣伝している。
それはおそらくただの思い込みに過ぎない。
実際は旧姓の公的利用制度の方がより急進的で、大掛かりな制度変更となる。
日本の近代以降の名前制度において、「氏名とは戸籍名であり、戸籍名は一つ」である。
選択的夫婦別姓はこの原則を保つが、旧姓の公的利用制度はこれを覆す。
登録可能な旧姓を過去の姓のうちの一つ(出生時/直前のもの)に限るとしても、公的な名前を二つ持つ人が出現することになる。
そういう制度になったらなったで対応すればいいとはいえ、どのような対応になるだろうか。
いうまでもなく、戸籍名を扱うとした業務が多く残るなら制度の効果が(選択的夫婦別姓と比べて)不完全となってしまう。
この節では、旧姓の公的利用への対応を義務づける規制について検討する。
また、旧姓の公的利用制度の利用者による「戸籍名利用」を制限するかどうかも議論が必要かもしれない。
個人的には戸籍名利用を制限するのには違和感があるが、制限なしの場合は「戸籍名/登録した旧姓名のみ/旧姓併記」の三種類のパスポートが発行できることになる。
選択的夫婦別姓が実現したとして、基本的には別姓結婚する人以外に影響しない。
夫婦同姓を希望するカップルの結婚は従来通りで、また結婚時以外も生活上の変化はない。
一方で、あまり触れられていないが、旧姓の公的利用制度が実現した際は利用者以外にも影響や負担が及ぶ可能性がある。(制度設計次第だが。)
たとえば、パスポートや免許証単独では氏名確認が行えなくなることが想定される。
登録した旧姓名のみが書かれた身分証が発行されるので、身分証に書かれた名前が氏名(戸籍名)かどうか分からなくなるからである。
名前を扱う業務の整理の結果、「戸籍名または登録した旧姓名」ではなく戸籍名を扱うとした業務では確認方法を変えないといけない。
これは旧姓を公的利用する人に限らない。具体的な方法としては身分証と戸籍抄本などの書類を併用する形になるだろう。
「戸籍名または登録した旧姓名」ではなく戸籍名を扱う領域が例外的になるまでは負担が継続する。
(強力かつ広範な規制をエイヤでやればいいのかもしれないが、選択的夫婦別姓なら規制自体がいらない。)
旧姓の公的利用制度が創設された場合、次のようなことが起こると考えられる。
誤解がないよう書き添えると、筆者は旧姓の公的利用制度に否定的なわけではない。
これをもって選択的夫婦別姓を導入しないための代替策とするのは望ましくないと考えている。
選択的夫婦別姓という専門家による議論が熟した優れた案があるのだから、優先的に実現させたほうがよい。
冒頭でも触れたように、旧姓の公的利用制度は選択的夫婦別姓と並立可能である。
この制度のメリットについて筆者は分からないが、選択的夫婦別姓の実現後も求める声が大きければ、導入を検討するのが望ましいだろう。
選択的夫婦別姓を妨害するためではなく、旧姓を公的利用したいと望んでいる人から聞き取りする必要があると思う。
昨年の11月で一般就労して3年経った。私は10代の頃に統合失調症と診断され、さらに30代半ばで知能検査を受けたところADHDグレーゾーンとの主治医の判断から発達障害の薬も処方されている。
入社当初は週20時間のパートで、徐々に勤務時間を増やし、昨年の2月からは正社員になった。現在は42歳だが、常時フルタイムで働くのは初めて。一人暮らしのため家事もこなす必要があるものの、いまのところ順調に生活できている。仕事終わりには平日でも出かけることがあり、休日も大抵は遊びに行くくらいだ。
業務内容は典型的なオフィスワーク。苦手な分野(電話ほか)は障害者雇用ということで配慮してもらっている。昔からコンピュータには親しんでいるタイプで、Google Apps Script などプログラミングも多少は扱えるため自分一人で担当している業務も多い。ありがたいことだ。これほど真っ当に仕事ができたことは今までなかった。
しかし、最近では不満もいくつか出てきた。その一つは、業務が属人化しているのに誰もその状況を打開しようとしないこと。自分一人で担当している業務があるというのは、まさにそれ。各種業務のマニュアルを整備する、各自の苦手分野を克服するために研修を開くよう訴えるなどしても現時点では何も変わっていない。
こうした訴えが気に入らないのは理解できる。障害者雇用で働いてる奴が偉そうな口をきくな、と思われても不思議ではない。人間関係も悪くはなかったとは思う(飲み会にもたびたび誘われていた)が、最近は孤立気味だ。
結局のところ、私のような障害者の行く末は多数派である健常者の「お気持ち」によって左右されるのだ。健常者であっても合理的で首尾一貫している人物は稀で、不快な印象を与えた途端に手のひらを返される。効率を求めるはずの職場で、効率を上げるための訴えが通用しない不条理。これこそが障害者の末路だ。世間には「統合失調症患者の発言は支離滅裂」と言われ、必死に努力を重ねてきた結果がこれ。やりきれない。
ちなみに、自分だけが担当している業務のうちいくつかはマニュアルを作ったもののフィードバックは無し。もしもマニュアルの出来が悪いならそう伝えれば良い、というよりそう伝える「べき」だろう。
まあ、孤立気味なのは別の理由がある可能性もある。誰かから事情を聞いたわけでもないので本当のところはわからないし、ただ被害妄想に陥っているのかも。今日11:00前に投げたSlackに対して終日返信が無かったのは事実で、たびたびこういうことはあるが。
ここに書いた内容にも「統合失調症患者の妄想」だの色々と言われるだろう。”統合失調症患者の発言であれば妄想である”という命題が成り立つのであれば証明してほしいところだが、多数派であるだけが取り柄の健常者には難しいかもしれない。